14.私は花をあげるだけ
心待ちにしていた花暦祭、当日。
目が覚めてすぐ、宿の二階――滞在している部屋の窓を開ければ、もう、街は浮き足立っていた。
陽が昇り、家々の屋根が朝日に煌めいていくにつれ、商店街の道の両脇には花環や飾り紐がすらりと吊らされてゆく。その彩りは行進をする楽隊のように並んで、通りを抜ける風に揺れている。
朝食を終えて街へ飛び出せば、すでに、焼き菓子や肉を焼く匂いがあちこちから立ちのぼっていた。花冠を頭に載せた子どもたちが、じゃれ合いながら脇を走り抜けていく。
いつもより悠々と進む馬車は、車輪にさした花が回転のたびに揺れている。祭りのざわめきと楽器の音が重なって、街全体が一つの舞台のように見えた。
珍しさに目を遊ばせながらも、真っ先に向かったのは、アストラ・ポラリスだった。
質朴なアストンらしく、リースのほかには飾りなどは出していない。けれど、いつもは閉じている扉が今日は開け放されており、覗けば、店内には客が何人もいた。近所から来たような格好の人もいれば、遠方から、あるいは旅の途中で立ち寄ったのだとわかる姿の人もいる。きっと、祭りの華やかな空気に引き寄せられて来たのだろう。
アストンも今日ばかりは店の奥におらず、カウンターのそばで手を動かしている。入り口のそばには、昨日までは見なかった、色とりどりの革袋が並んでいた。
花の焼印が押されたそれを、ひとつ手に取る。ちょうど買い替えようかと思った。お金を入れる袋のほかにもう一つ、ずっと持っている革袋。中にはまだ命の次に大切な――髪飾りが入っている。隠すように質素な袋に入れていたけれど、そろそろ見合うような、かわいいものに変えてあげてもいいと思った。
「ひとつ、くださいな」
「ティア……」
軽い昼食代ほどのお金と一緒に、アストンのもとへ持っていく。店主としての顔がほのかに和らいで、少しだけ、姿勢も崩れた。つい、頬がゆるんでしまう。
「お客さん、多いね」
「そうだな。有難いことだ。……広場なんかは、」
店内へ目をやったアストンはいつものように、ゆっくりと言葉を選ぼうとする。が、それを遮るように、客から声がかかる。
「すまない、ちょっと」
「ううん。また後でね」
アストンが言うとおり、客が多いのはよいことだろう。もし暇であれば、少しだけ一緒に出店でも――などと考えていたのが恥ずかしい。歳が近くとも商店の店主であったことを思い出して、少し顔が熱くなった。
それでも往来に戻れば、商店街の隅でも音楽隊が演奏を奏でている。焼いた果実やワインが売られ、道の端にはそれらを片手に笑い合う人たちが詰まる。祭りの空気を胸に吸ったところで、もうひとつ、したかったことがあった。
そのために、マルベリー宿へ戻る。
宿の酒場も今日は朝から開けていて、マルタは忙しなく働いていた。手伝いはいいから遊んどいで、と言ってくれたのに甘えて、自由にさせてもらっていたけれど。いたからこそ。
白い――感謝のラナを、渡したかったのだ。
「おやまあ! 私にかい! きれいだねえ、ありがとう」
緊張を跳ね返すほどの満面の笑みで、マルタは受け取ってくれた。カウンターに置いていた大きな花瓶に早速水を入れて、生けてくれる。ささやかな花束は花瓶の中で少し傾くのが恥ずかしかったけれど、今はそれよりも、面映ゆさと満足感が上回っていた。
「嬉しいねえ、いい日だねえ」
機嫌よく手を拭く――そのエプロンの後ろにふと、たらいに入ったラナが見えた。赤いラナ。恋の色だと、ソニアが言っていたものだ。
ティアのその視線に気付いたのか、ああ、とマルタは足元へ目を遣った。
「今日はね、久々に旦那が帰ってくるのさ。よく食べるから、夕飯はうんとこしらえてやらないとね」
そういえば、運送業に携わっていると話していた。それを聞くと、浮き立つマルタが少女のようで、ティアもつられて心が弾むようだった。
誰かを待つ気持ちというのは、こんなにも明るいものなのかと、不思議に思う。自分には縁のない感覚のようで、それでも見ているだけで嬉しくなるようだった。
まだ祭りの日は長い。広場で踊りを眺めたり、屋台で食べ物を買ってみたり。花を抱えた人々とすれ違いながら、ティアは街の中を躍り歩く。
人出が多いからだろう、今日はこの街で初めて、憲兵の姿も見た。通りの賑わいの中、濃紺の軍服に身を包んだ姿は、背筋をぴんと伸ばしている。往来に立つ彼らは、ゆっくりと周囲を見回しており、その姿には安心感を覚えた。
一度目につくと、そういえばあちらにも、こちらにも、と。花飾りの中で目立つ濃紺の制帽を探して視線を上げ――
ひゅ、と、息を詰まらせた。
見紛うはずもない。
群衆から、ひとつ飛び出た高い背。
肩章の金ボタンと、右腕に巻かれた白い腕章が光る。腰には革のベルトが締められ、吊るされた短剣。
酔客の笑い声や笛の音に紛れることなく佇む、その頭には――
陽を受けて黄金に煌めく、獣耳があった。
弾かれたように、己の肩に手をかける。フードで――あの獣耳の飾りのついたフードで、頭を隠そうとした。けれど春の陽気に、もう何日も前から脱いでいたことを思い出す。
浅い息のまま踵を返し、飛び込む。路地裏へ、陽を受けない場所へ。道行く人と肩がぶつかっても、振り返れなかった。
イヌミー族の憲兵を見たのは初めてではない。この街に来る途中の街でだって、身体能力の優れた彼らは、どこにでもいた。いたというのに、この街の居心地が良すぎて、忘れていた。
一瞬目にしただけの、凛と立つ姿が、瞼の裏に焼き付く。
ああ、ああ。なんて格好いいのだろうか。
その場にいるだけで空気が張り詰める。何があっても何とかしてくれるのだという、惚れ惚れするほどの威圧感。
どれほど憧れても届かない、煌めく姿。
あの人にはきっと家族がいて、仲間がいて、守るべきものがある。
それに比べて、自分はどうだろう。
マルタの用意していた大きな花瓶。あれはきっと、夫からの花を待つためのものだったのだろう。
花を差し出せば喜んでくれる人はいる。けれど、その先に待つのは決して自分ではなく、誰か別の存在だった。
壁に囲まれた薄暗い路地の中でようやく、逃げた道を振り返る。陽気な音楽と明るい光の溢れる中を、花を抱えた人たちが談笑しながら通り過ぎてゆくのが、家々の隙間から見えた。
小さな職を見つけても。
電球ひとつを替えてみても。
意を決して花を渡しても。
自分は今も、ただひとりきりでいる。
待ち焦がれた祭りの喧騒は遠く、色彩も目には入らない。
ティアは耳のない頭を押さえ、路地裏の暗がりに、いつまでもうずくまっていた。




