13.花をかけて明日を待つ
花暦祭を明日に控え、街のあちこちが飾られていく。
花屋での仕事も無事に終わり――次の仕事を探す心配はあるものの、今日明日は街の様子を楽しもうと、ティアは明るい石畳へ躍り出た。
石畳の上を、子どもが花飾りを抱えて駆け抜けていく。その背を追うように、向かいの家からは布を張る音が響いた。
色鮮やかな建物の窓辺には、昨日まではなかった鉢植えが並び、通りを渡る旗布が風にひるがえる。
祭の本番は明日。けれど街はもう、浮き立つ色と匂いとざわめきで、落ち着かない。
彩りを増しつつある街の中でも、目は自然と灰色がかった建物へと引き寄せられ――留まった。
紺藍色の扉からちょうど出てきたのは、以前に一度だけ見た、ジャケット姿だった。また見られるとは思わなかったし、今日は道具箱も何も提げていない。
「今日、お休みなの?」
思わず駆け寄る。顔を上げてこちらを捉えた瞬間、目元が少し弛んだのが見えて、こちらの頬も弛んでしまった。
「ティア……いや、パンを切らしていた」
昼食がない、と神妙な顔で言うものだから、少し笑ってしまった。けれど実際のところ、客がいれば買いに出るわけにも行かないのだろう。
そうしてアストンが閉めた扉を見て、思わずあっと声が出た。かけられている。昨日渡した、自分のリースが。
「かけてくれたんだ」
「ああ。……他の家のものと、彩りが少し違うんだな」
アストンの言うとおり、たくさん作った定番のものは、春らしく色彩豊かなものが多い。けれどこれは、赤を控えめにして、白の花や、薄紫の実を足していた。
「カラフルな方が好きだった?」
「どちらもいいと思うが……この扉には、これが一番合うと思う。色がよく馴染むな」
――紺藍色の扉に、似つかわしくなるように。受け取ってもらえるかもわからないうちからそう考えて作ったのを言い当てられたような気がして、少し頰が熱くなった。
けれど同時に、誇らしくもある。気に入ってもらえたというだけで、足取りが軽くなって弾み出しそうだった。
「ね、パン買いに行くの、途中まで一緒に行っていい?」
パン屋はちょうど、一昨日まで勤めていた花屋を通っても行ける。リースはもう置いていないかもしれないけれど、おしゃれなソニアのことだから、お店も華やかに飾りつけているかもしれないと思った。
一緒に歩きだす。石畳の通りを進むにつれて、祭りの色と香りはますます濃くなっていった。
ソレイユ・フルールは、看板を見なくても、随分と手前からそれとわかった。
石畳にはみ出すほどの花、花、花。近寄るごとに、甘い香りが濃くなるように感じる。通りに面した店頭は、すっかり祭り色に染められていた。
花台には見慣れない花が山のように並び、白、黄、赤の三色が交互に波打つように積まれている。
丸みを帯びた花弁が幾重にも重なり、遠目には小さな灯火の群れにも見えた。
「ティア! と、あれっ、アストンくん? 背伸びたねー!」
手を振るソニアに呼び止められたかと思えば、あれよという間にアストンが捕まる。顔を覗き込まれたアストンは、口を開きかけてはつぐみ、視線を泳がせた。
「俺は、パンを……」
言葉半ばで、もう足がじりじりと退いている。
「そうだよね、行ってらっしゃい」
ティアが頷く途中で背を向け、風に押されるように駆け足で遠ざかっていってしまった。
なんとも言えない心地が残る。気圧されて逃げ腰になる姿は少し可笑しいし、気の毒でもある。けれど――自分にはもう少し馴染んでくれているのだと思うと、不思議と胸の内があたたまりもした。
「思い出した、話しかけると逃げちゃうのよ。猫みたい。彼氏?」
脈絡なく繋がった最後の言葉に、むせ返りかける。否定をすれば、ソニアはそれ以上追ってこなかった。
気まずさをそらすように視線を落とすと、足元に壺いっぱいの花が広がっていた。濃い緑の葉の間から、陽を弾くような赤や黄や白がのぞいている。細く波打つ葉脈を見た瞬間、不意に記憶が疼いた。
「この花……ラナ?」
「そうよ、これ全部。明日は本番だし、今日から売れるの」
胸の奥に妙な衝撃が走る。
図版でしか知らなかった植物が、今ここに息づいている。根を煎じれば胃腸によい――薬学の教科書にそう記されていた。
実技がどうしても苦手で、だからこそ時間をかければ覚えられる座学にしがみついた。その中でも、教科書を丸暗記するほど覚え、たったひとつ得意だと言えた教科。
あの頃に何度も眺めた絵の葉脈と、目の前の瑞々しい葉脈とが重なって見える。
まさか、こんなにも鮮やかな植物だったとは。
「お祭りの日に贈り合うのよ。白いのは感謝、黄色いのは友愛、赤いのは恋でね」
「ソニアは、ルークさんに?」
「もちろん! パパとママにもね。でも明日はお店があるから、夜まで我慢なんだよね。代わりに楽しんできて、広場でダンスなんかもやるから」
聞けば聞くほど、今からそわそわと浮き足立ってしまう。
「……あれ?」
話し込むうちにふと視線を上げると、アストンが袋を抱えて戻ってくるのが見えた。
――てっきり、そのまま帰ると思っていたのに。わざわざ足を向けてくれたのだと気づいた瞬間、胸の奥が少し温かくなる。
店頭の鮮やかな花々と、アストンの無骨な姿が一緒に視界に収まる。ぎこちないような取り合わせが、逆に少し、微笑ましく感じられてしまった。
アストンは、誰かに贈るつもりはあるのだろうか。
「アストンは、マルタさんに贈るの?」
尋ねると、話題が花だということすらわかっていなさそうな顔をされる。
「親しい人とか、お世話になった人にお花を贈るんでしょ?」
続けてから改めて店先を見れば、白の花がほかの色よりも目立っていた。皆は親に贈るのだろうか。もしくは自分がマルタに、ソニアに感謝を感じるように、色々な人へ贈り合うのかもしれない。
「だから、皆やたらと持っていたのか……」
この街にずっと住むというアストンは初めて知ったように呟き、花を横目に、パンの袋を持ち直した。
「そうよ、ぜひ明日はご贔屓に」
朗らかに差し込むソニアの声に、アストンは、困ったように曖昧な返事だけをした。
その横顔を見上げながら、ティアは白いラナに目を戻す。花弁の重なりは春の陽を受けて、灯のように揺れていた。
寝て起きればこの街は、どんな色に染まるのだろう。眼前で咲き誇る花たちはきっとその答えを知っている。
胸の奥で跳ねる鼓動は、まだ、明日を追いかけていた。




