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10.寂しくないよ、少しだけ

 アストラ・ポラリス、14時。扉の開く音に、アストンは顔を上げる。

 馴染みの――裏通りに店を構える亭主、ダンデだった。手には、馬の手綱。

「せがれのが切れちまってよ。直せるか」

「……急ぎますか」

「いーや。まあでも、来週までには直るといいな。ちっと遠くまで運びに行くからよ」

 改めると、何と言うことはない。金具の周りが裂けているだけである。今のものより頑丈な革はいくつか手元にあるから、それに取り換えればよいだろう。

「じゃあ頼むわ。でも長持ちしちゃあ、商売上がっただろうよ。……いてて」

 カウンターの前に腰かけた拍子に、その顔が歪む。腰をさするダンデは、ちょっと聞いてくれよ、と口を開いた。

「そこの通りで塩の荷馬車が崩れてな、それを俺が積み直してやったのよ。まあ、重いのなんの」

 手綱に手を滑らせれば、所々に引っかかりを感じる。よく握る部分は擦り切れているのだろう。ついでに補強をして、裂け始めている箇所は縫い直した方がよい。金具も緩んでいる部分は打ち直す必要があるだろう。

「そしたら花屋の嬢ちゃんが手伝いに来てよ、花屋だぜ」

 ふと、言葉が思考に割り込む。

 ――花屋。

「袋の角を持つと楽だっつってよ、あっという間に積み直して行っちまって、すっげえの。でも俺とマイクで三つ積んだんだぜ。だからこれは名誉の負傷ってわけよ」

 先日、仕立て屋からの帰路――工具箱を持つと言い張ったときの姿が脳裏に浮かんだ。

 赴く際、何が必要かも分からず、めぼしい工具や部品を一通り箱に詰めてしまった。金属の工具も多く入っていたものだから、復路も手頃な場所で荷持ちを代わろうと思っていたのだ。けれど足取りは軽やかで、まるでバゲットを挿した紙袋でも抱えているように跳ねていたものだから、言い出したとおりにそのまま任せてしまった。

 ――塩の袋。

 しかし、重量のある荷を持ち上げたという部分よりも。角を持つと楽だ、と助言をしながら積み直したという部分の方が、きっとティアであろうと確信をさせた。

 そんなことをぼんやりと考えるうちに、ダンデは前金を置いて行ってしまった。



 夜のとばりが下り始めるにつれ、窓から忍び寄る風は夕餉の香を連れてくる。空に紫雲の流れるこの時間帯が一番、暗澹(あんたん)たる刻だった。

 仕事を終えた馬車が、石畳の上を帰ってゆく。家々に灯りがともり、悠々と空を渡る鳥たちも、各々のねぐらへ戻ってゆく。その光景を視界に入れ、肌寒い風に頬を触れさせながら、店の前の黒板を片付ける――その時が、何よりも。

 けれど。

 時計を見上げる。今日は来るだろうか、と心が急く。

 赤く染まる陽が沈みかけるころ、入り口のベルが来訪を告げる。そうして顔を出したその姿に、寂寥(せきりょう)の念が幾分か、消されていくのだった。

「今日はマルタさんのご飯ないんだけど、来ちゃった」

 胸が緩むのを隠すように、視線を落とす。点けたばかりのランプの灯が丸く、机の上に弧を描いていた。

「……楽しみに、していた」

「そうだよね……?! マルタさんに言っておくね、あっ、何もない日は私も何か作ろうか? 大したものは作れないんだけど、焼いたり煮たりくらいは出来るんだ」

 言葉の行き違いがあったような気がしたけれど、訂正するほどのことでもないように思え、黙ったままでいた。

 ――楽しみに、していた。

 そんな言葉が己の口から出たことに、遅れて驚いた。

 ティアは未だ、代金を払いながら宿に泊まり続けている。旅人であるのだから、きっと、いつかは街を出ていくのだろう。いつか来る日を浮かべれば心の中に鉛が入り、言葉に訂正をしなかったことが正しかったのだと確信を得る。

 それでも。ティアは責任感が強いたちであるから、今手を付けている、花暦祭の仕事が終わるまではここにいるのだろう。

「ね、お祭りの日って、露天とか出店があるんでしょ? アストンも何かするの?」

「多少は、祭りに合わせた商品を……」

「そうなんだ! 早くお祭りの日にならないかな」

 声が弾むたび、ティアの周りに、細かな光が散るように思われた。遥かの星から届く光を粉にして振り撒いたような、胸を刺す輝き。

「……まだ、来なくてもいい」

「そっか、一人で準備するの、大変だもんね」

 沢山作るの?と問われるのに頷きながら、またどこか行き違ったように感じた。ティアには、自分の言葉の半分ほども届いていないように思われる。それが悔しいのか、安堵なのか、自分でも判然としなかった。

 手元に視線を落とすと、解いていた最中の革紐がある。手が止まっていたことに気付き、裂け目に(はさみ)の端をかけた。小さな音を立て、古びた糸が切れる。

 微かな沈黙が落ち、不意に、惜しくなった。

「今日は、どうしたんだ」

 話を振ってから、暗に、どうかしなければ来るのが不自然だと告げているように思われた。何かを足した方がよいか、もう少し考えてから口を開けばよかったかと逡巡する上を、ティアの言葉が駆けてゆく。

「あのね、昼間にお花屋さんの近くで荷車が崩れたのを手伝ったんだけど、一緒に直したおじさんが身体を痛めちゃったみたいで。私がもっとてきぱきできたらよかったのになあって落ち込んじゃって……あっ、愚痴を言いたかったんじゃなくてね、来たらちょっと元気になるかなって思って、えっと、変な意味じゃなくってね、」

 カウンター越しに積まれてゆく言葉の数々に、安堵をする。同時に、針目の乱れのように揺れたその言葉を手に取り、一抹のもどかしさを覚えた。

 ――ティアは、自分が役に立てていないと、必要以上に思い込んでいるように思える。

 こうして夕刻、訪れてくれているだけでも。どれほど心を温められているのか、知らないだろう。知らないはずだ。上手く伝えられていないのだから。

 せめて、じいさんは褒めていた、という事実を、どうにか砕いて伝えたかった。どの面を、どういった言葉で形にすればよいのか、何を伝えたいのか、頭の中にある箱から一つずつ当てはめてゆく。

 けれど、これかと思った頃には、ティアは花屋に出た虫の話をしていたものだから、渡し損ねた言葉は喉に詰まってしまった。



 塔の鐘が響き渡る。

 ティアも椅子から降り、帰って行ってしまう。黒板を片付けついでに見送ろうと外へ出れば、暮れなずむ空の端に、夕陽が煌々(こうこう)と輝いていた。


 ――夕暮れって、寂しい感じがしない?


 先日、そう尋ねられた。そうだ。胸に二度空いた穴はきっといつまで経っても、埋まることはない。日暮れが、その穴に風が通る刻であるのは確かだった。

 けれど。

 ティアの、結び損ねた髪の一筋が、横顔にかかる。金糸のように煌めくそれを、細い指先が除ける。ふと視線が合うと、はにかむような微笑みが返された。

「……上手くやっていると、俺は思う」

 先ほどからずっと、後ろ手に抱えていた言葉だった。黄昏色の瞳が瞬き、細められる。

「ありがとう。リース作るのだいぶ上手くなってきたんだ、頑張るね!」

 裾を翻し、石畳に一歩、ブーツの音が軽やかに響く。齟齬があった、と思った瞬間、引き止めていた。引き止めたけれど、絡まった糸を解くほどの言葉を、持ち合わせていなかった。

 困り果ててから、ようやっと。

「……おやすみ」

 言うはずではなかったような、言いたかったような言葉が、代わりに口から出た。

 頬が仄かに熱を持っているけれど、この西日だ。きっと、何も変わった色には見えないだろう。

 微かに、息を吸うほどの間があった。

「おやすみ」

 見下ろせば――今日一番に、ほころんだ顔。

 そして今度こそケープを翻し、ティアは跳ねるように、帰っていった。


 上手く喋れなかった、と思う。けれど同時に、また明日、喋ればよいとも思う。

 顔を上げれば空は、彼女の髪のような金色から、肩にかかるケープの濃紺へと色を替えつつあった。


 自分は、また明日も、この時間を待ちわびる。


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