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1.運命の幕が上がる

 見上げる星々がどれほど遠くとも、私もその(きら)めきに辿り着きたかった。


 水溜まりを踏み、駆けるたびに、跳ね散った泥が裾を汚していく。月も見えない雨夜の中では、どこが森の出口かもわからない。初めて通る森なのだから尚更だ。

こんなことなら素直に街道を通るか、汽車に乗ればよかった。ティアは悔いながら、羽織ったケープの頭を被り直し、木々の上へ跳ねた。

 先ほど魔獣に噛みつかれた二の腕からはまだ血が伝い流れており、熱を持って痛む。()()()()()ならば、小一時間も経てば塞がるはずだ。それよりも――故郷の、学校にいたころの実習では。あんな小型の魔獣は、いくら落ちこぼれの自分でも狙わなかった。そんな取るに足りない生き物に傷を負わされたことが、何よりも恥ずかしい。


 獣耳を持つイヌミー族は、国境を荒らす魔獣を打ち払い、それを素材として国内外へ流通させる一族である。けれど自分は、どれほど努力を重ねてもその務めを果たせなかった。

 だから十七年間生きてきて、悔しいことも情けないことも沢山あったけれど、それでも。

 胸が焼けるように熱いのに、足先だけが氷のように冷えていく。今の惨めさは、その温度差のように体を裂いた。


 いつしか森を抜け、若い麦の広がる農地を駆ける。雨と混じる土の匂いが濃くなり、跳ね上げた泥が靴を重くする。石造りの民家からあたたかな灯が零れるのが見えたけれど、森のそばでは、この手負いの姿を見られたくなかった。

 ふるさとから離れたここではきっと、ヒトしかいないけれど、それでも何に負わされた傷なのか、きっと知られてしまう。

 街の入り口を示す柵を飛び越える。

 ――弾みでフードが頭から滑り落ち、()()()()()頭と、黄金色の髪が雨に晒される。誰も見る者はいなくとも、ティアはまた、その頭にフードを深く被り直した。


 ずっと何者かになりたくて、なれなくて、違う場所であればと願って故郷を飛び出したのに、この様だ。


 街の、花束のように、あるいは星座のように、幾重にも集まる橙の灯りが見える。不意に視界が歪み、足がもつれた。

 夕食を終えて宿場へ向かうのだろうか、馬車の蹄鉄(ていてつ)が雨音に溶ける。それを避けるように、路地裏をどこへともなく迷い走った。ようやく雪の解けるこの季節、雨はまだ冷たく、指先の感覚がどんどんと鈍くなる。

 それでも、雨が幸いしていると思った。夜の街は、店の中からは灯りこそ石畳に零れているけれど、通りに人通りは見えない。このまま、傷が落ち着くまでどこかに隠れて、それから――それから。どこへ行く?

 酒場からは楽器の音と、笑い騒ぐ声が鮮やかに漏れ聞こえる。思ったより傷が深かったのだろうか。それとも走ったせいか。視界が回る。濡れた衣の重みが皮膚に貼りつき、歩こうとするたび、脚を誰かに引き止められているような。小さな段差につまずき、木箱を掴もうとするも叶わず、民家の扉に肩を打ちつけた。



 アストンは、一階からの物音にふと顔を上げ、本に紙を挟んだ。

 カーテンを開けてみるが、雨夜の窓に映るのは、ランプの灯りに照らされた、まだ大人にはなりきれていない顔だけである。窓を開けて覗こうかと思ったが、この雨脚だ。降り込んで、シーツや本を台無しにされてはかなわない。元より、雨音は耳にも入れたくなかった。

 それでも、こんな夜更けに、おまけに雨の日に、この家に人などが訪ねて来るはずはない。物取りであったあらば、店の方に入られては厄介だ。念のために火掻き棒を取り、そっと扉を開けた。

 夜の気配とともに、うるさいほどの雨音と、独特の肌寒さが腕を撫でる。ぞ、と怖気が走るのを振り払い、ランプを掲げて周囲を見渡した。そして、足元に視線が止まる。


 短いブーツ。ズボンと、耳のような飾り布のついた濃紺のケープ。濡れた金の髪が、まだ丸みの残る頬に張り付き、灯りの下で微かに光る。この辺りでは見かけない顔であるから、旅人か。しかし酔っ払いにしては若すぎるうえ、顔色が青白い。

 ――赤。そこでようやく、その右腕に(にじ)む色に気がつき、息を呑んだ。

「おい、あんた。……おい、大丈夫か」



 星も見えない夜だった。

 けれどこの日は確かに、煌めく光に辿り着くための幕が、誰にも知られず上がった日であった。



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