死んだ貧乏令嬢、死神の謎解きで生き返って幸せになるまで
(※25年9月5日の活動報告にイラストを掲載しました)
「ローライン、君は死んだ」
「なんて?」
私、ローライン=エーデルヒは、淑女にあるまじき素っ頓狂な声で問い返した。目を覚ました途端に死亡宣告されたのだから、驚愕するのも当然だろう。
目の前に狼の仮面をかぶった男――女? が、私をまっすぐ見据えている。
「いいわ、落ち着きましょう。まず、あなた不審者ですわね。通報します」
「残念ながら、それは無理だよ。君は幽霊みたいなものだから、生者とは交流ができない。ごらん、自分の体を」
「なんと!」
私は自分の手を上げて、またしても淑女らしからぬ大声を上げた。
目の前に掲げた手の向こうに、狼の仮面が透かして見える。正真正銘、私の体は幽霊のように透けていた。しかも、浮いている。いま、私はふわふわ空中を漂っている。
よく見たら、狼面も宙に浮いていた。
「ちょっと、私ったら死んでるじゃない! 六月に結婚するのよ!? お母様が仕立て直してくださったお下がりの婚礼服、まだ袖を通してないのに……」
「死んだから、婚約破棄だろうね」
「いいえ、彼は死んでる私でもいいって言うかもしれないじゃない!」
咄嗟に反論したが、流石にそれは婚約者であるグレンに期待を寄せすぎている気がする。
私の婚約者グレンは商才豊かな青年で、冷静な切れ者だ。もし私が死んだなら、さっさと次の相手を探すように思う。
――それだけは、婚約破棄だけは、絶対に避けなければならない。
「お相手の嗜好はともかく――二十四時間以内に死の原因を解明したら、復活するよ。頑張り給え」
「えっ……あなた、いったい何者なの? 逆に解明できなかったら……私の魂は消えてしまって、完全に死ぬということ?」
「まあ、そういうことだ」
そういうことらしい。
私、ローライン=エーデルヒは何故か死んだ。
二十四時間以内に私がなぜ死んだかを解明しないと、生き返らずに死が確定するらしい。
私は頭を抱えた。透き通った体では、長い金髪を指がすり抜ける触覚も消えていた。
◇ ◇ ◇
「……つまりあなたは、死神なのね。私が消えるというのは、あなたが私を天国に連れていくの?」
「いや、魂を頭から喰わせてもらうよ」
「えっ……な、生で?」
「生で」
死神が仮面の後ろで舌なめずりしたような気がして、私は身を引いて二の腕をさすった。
どうやら私は、いつの間にか死んだ上に、死神に目をつけられるという二重に最悪な状況になっているようだった。
「いえ、淑女たるもの、落ち込んでる場合じゃなくてよ! とにかく、調べなきゃ。私はなぜ死んだの?」
私は気を取り直して周囲を見回した。
ここは私が両親と住んでいる館の玄関ホール。窓からは夕焼けの光が差し込んでいて、妙に心細い気持ちにさせる。
目を閉じて思い返してみるが、死亡時の記憶は――ない。
最後の記憶は、婚約者のグレンと一緒に紅茶を飲んだこと。
彼は私の家よりも爵位が低い貴族の青年だったが、最近は彼が主導で開発した医薬品の販売で羽振りがいい。
財政の苦しい我が家と、格の欲しい彼の家。私たちの家の思惑はぴったり合致した。あっという間に婚約が結ばれ、今年の六月に成婚の儀を迎える予定だった。
私とグレンは婚約の顔合わせで初めて会話をしたきり、交流は無かった。政略結婚とはいえ、わざわざ冷え切った関係を構築する必要はない。合理的な淑女である私は、「お互いの事、もっと知りましょう」と彼を茶会に誘ったのだ。
思い出してきた。今は春だ。部屋の暖炉の暖かさを覚えている。
私の最期の記憶は、肌寒い春の青空を窓の外に眺めながら、グレンと紅茶を飲んだことだった。
「でも、それからの記憶が全然無いわ……。あの後、何が起きて死んだの?」
必死に記憶を辿ろうとするが、頭の中に靄がかかったように、突然真っ白い霧が現れたように、思い出が不自然に断絶している。
その時、玄関の扉が開いて、誰かが家の中に入ってきた。
茶色の髪に上等な草色の薄手の上着。グレンだった。
「グレン!」
私は思わず叫ぶが、もちろん彼は私に気づかない。彼は無表情に廊下を進み、奥を目指す。
なぜ、彼が私の家族や使用人に断りもなく家にあがっているのだろう。違和感を覚えて、私は彼の後を追った。
そしてグレンが古い螺旋階段を軋ませて辿り着いた先は、私の部屋だった。
「ちょっと待って! そこは私の部屋よ!? 淑女の部屋に入るなんて――」
慌てて大声で止めようとするが、グレンは素早く私の部屋に入ってしまった。私は急いで彼を追いかけようとして――。
バチン!
「いたッ!!」
思い切り扉から跳ね飛ばされて、私はぶつかった額を抑えた。痛覚はないが、つい生前の癖で叫んでしまった。
「な、なんなの? 見えない壁があるわ」
「中に君の体があるからだね。体を見たら、死因が分かってしまうかもしれない。そんなのはズルじゃないか」
「なによ、それ……まるで遊びみたいに」
「死んだ君が復活しようというのだから、それくらいの制限はあるものだ。ああ、君は家の外にも出られないよ。限られた手がかりの中から正解を見つけ出すのがルールさ」
死神は、人差し指を立てて小首を傾げてみせた。
なんて憎たらしい。私は爪を噛んで、扉と死神を交互に睨みつけた。生き返ったら目に物見せてやる――売られた喧嘩は二倍にして返すのが淑女の嗜みだ。
「でも……寝室に死体があるということは、死んでからほとんど時間が経ってないみたいね。あなたの言う二十四時間以内という制限も、体が腐って戻れなくなるからかしら?」
死神は肩を竦めただけだった。ヒントは出さないということらしい。
私は入れない扉を見つめるのを辞めて、階下へ降りることにした。ふわりと体を翻し、階段を降下して――宙に浮くのは初めてのはずなのに、とても上手に出来た。さすが淑女だわ――炊事場の壁から顔を出した。
壮年の使用人が憂鬱そうな表情で夕餉の準備をしている。昔はもっとたくさんいた使用人も、今は彼女一人だけだ。幽霊になって、彼女の作る新鮮な玉ねぎのスープと魚料理の馨しい香りが感じられないのが残念だ。
しばらく炊事場のあちこちを観察したが、特にヒントが見つけられなかったので、私は壁から顔を引っ込めてリビングに向かった。最後にちらりと炊事場の古い時計を見ると、十九時を示していた。
リビングでは、父が深くソファに座りこみ、疲れた顔でぼんやりと窓の外の新緑を見ていた。母は向かいで私の婚礼服を膝にのせて俯いている。その目の下には暗い隈ができていて、私の知る母よりも十歳は老けて見えた。
それは、普段の生活のせいだけではなく、一人娘を喪った絶望によるものに思われた。私は、もう動いていないはずの心臓を強く掴まれたように感じた。
エーデリヒ家の家計は火の車だった。
祖父母の代から行っていた投資に失敗して、あっという間に資産は激減。使用人を減らし、宝石を売り、服は自分で丁寧に繕い、借金をし、なんとか見栄を保っている状態だった。
私の婚礼服を新しく仕立てる余裕すらなく、母自身が、かつて自分が着た婚礼服を私のために仕立て直してくれている。
しかし、どんなに財産が目減りしようとも、気高さと義務を失ってはならない。それが両親の口癖で、私はそれに倣い、どんなに貧しくなりつつも、誰よりも誇り高い淑女としてあるべく努力をしていた。
そんな折、私が富豪であるグレンと婚約できたことは、願ってもいない僥倖だった。
私は両親のためにも、必ず彼と結婚しなくてはならない。それなのに――。
「……絶対に死んだ理由を見つけて、生き返ってみせるわ」
私は疲弊している両親から無理やり目を逸らし、顔を上げた。そして二人と使用人の様子から、死因パターンを推測してみた。
病死――いや、少なくとも持病はひとつもなかった。
自死――まったく思い当たらない。もし自死なら、両親はショックで臥せっていると思う。
流行り病――無くはないが、それなら両親も使用人も家から離れていそうなものだ。
事故死――あり得る。運が悪いと、人は転んでも死ぬ。
殺人――。
「事故死か、殺人……なのかしら。だって私、淑女としての規則正しい食生活と運動のおかげで、びっくりするくらい健康だったもの」
「回答としては足りないなあ。どうやって死んだか考えてくれたまえ」
死神が他人事みたいにのんびり言うのを無視して、天井を見上げた。
グレンと紅茶を飲んだ直後、私は事故か殺人によって死んだ?
視線の先にある、二階の私の部屋に想いを馳せると、不意にグレンとの会話が泡のように脳裏に浮かんできた。
◇ ◇ ◇
「結婚式の段取りの件なら、二人きりで話す必要もないと思うが」
正面に座り、つまらなそうな顔でそう言うグレンに、私はわずかに目の奥に血が昇るのを感じた。
「そうおっしゃらずに。私たち、伴侶になるのですから」
「エーデリヒ家の借金はどれくらいある?」
「………父が管理しておりますので、分かりかねますわ」
「必要な分だけ出すよ。伴侶になるんだからね」
そう呟いて、グレンは紅茶を一口飲んだ。
彼は私に一度も目も合わせず、窓から見える庭の冬薔薇を眺めている。
なんて礼儀のなってない男だろう、とつい呆れてしまう。
「ところで、貴方が望む結婚指輪はどんなものだ? 金剛石か、瑠璃か。何でも好きなものを買えばいい」
「………まあ、お暮らし向きがよろしゅうございますのね」
「だから僕と結婚するんだろ」
淑女の星を自負する私と言えども、さすがに笑顔を凍らせずにはいられなかった。
この婚約に一番執着しているのは、私の両親だった。そして、彼らを幸せにするために、私自身も執着している。今だって、なけなしの薪を惜しみなく暖炉につぎ込んでいる。グレンを歓待するために。
だから、私は決して彼を怒らせてはいけない立場なのだが、それでも――この礼儀知らずの傲慢な青年には、少し叱ってあげる人が必要かもしれないと、思ってしまった。
微笑みを崩さず、薄い皮肉を言葉に乗せる。
「わたくしが望む結婚指輪は、愛する方ご自身に選んで頂くものですわ。わたくしへの愛に相応しいと思うものを、つくろって頂くのが夢ですの」
意訳「貧乏とはいえ上流貴族、質の良いものに囲まれて生きておりましてよ。そんなわたくしのお眼鏡に叶うものを、あなたにあつらえるかしら?」。
グレンは「ふうん」とだけ返した。
「じゃあ、貴方が結婚相手に望むものは?」
「わたくしが結婚相手に望むものは、毎日私を笑わせて頂くことですわ。わたくし、楽しい方が大好きですの。あらゆる戯曲、小説にない面白いお話をうかがいたいわ」
意訳「わたくしは本をたくさん読んでますわよ。あなたに豊かな知性があるなら、ぜひ見せて頂きたいものですわね」。
「医学と商売の話ならできるけどね。作り話が好きな貴方には退屈だろうな」と独り言のように返して、グレンはそれきり黙り込んだ。
その皮肉返しに私がこめかみをひくつかせている間に、私たちの二度目の逢瀬は終わったのだ。
◇ ◇ ◇
「思い出したらムカムカしてきたわ……」
天井を仰いだまま、目を閉じる。
その後のグレンとの会話も盛り上がらず、私はムカムカしたまま紅茶を飲み干し、お開きにしようと席を立って――。
そこから、記憶がない。
「あの時。あの紅茶を飲んで立ち上がった直後に、私はきっと死んだんだわ。となると、あの紅茶に何かが入っていた……?」
そう呟いた時、二階の私の部屋の扉が開く音がした。私は咄嗟に目を開き、急いでリビングから外に出て、階段を見上げる。
部屋から出てきたグレンが、螺旋階段をゆっくりと降りてくる。
その時、グレンが上着のポケットに入れようとした何かが、毛足の長い絨毯の上に音もなく落ち、壁の端に転がっていった。それは、中にわずかな液体が入った、群青色の硝子の小瓶だった。
「あれは、グレンが販売している薬? どうして今、薬を?」
彼の販売している主製品は、咳を止める薬、風邪を治す薬、体力をつける薬、特定の疾病を治す薬と、様々だった。しかし、薬も量を間違えれば毒になる。グレンは医者の資格を取り、薬の成分配合にも細かく指示を出していると聞く。
私はもう流れない血潮が、ざっと冷たく引いていくのを感じた。
――彼なら、人を殺す毒だって作れるはずだ。たとえば、そう、紅茶の中に無味無臭の致死量の毒を仕込むことだって。
「いえ、でも、理由がないわ! お金持ちの彼が、貧乏貴族の婚約者を殺す必要なんてないもの!」
私は爪を噛みながら、湧き上がる疑惑を振り払うために、必死で首を振った。
混乱する私の横を素通りして、グレンはリビングにいる私の両親に軽く声をかけてから玄関に向かった。疲れた様子の両親は、立ち上がりもしなかった。
私は必死にグレンの背に追いすがった。
「待って、グレン! あなた、私の部屋で何をしていたの? 私に、何をしたの……!?」
グレンは玄関の扉を押し開け、館から出て行こうとする。
私の透明な手は彼の体をすり抜け、彼を引き留めることすらできない。しかし、グレンは扉を開けて体を半分外に出た状態で、静止した。玄関の前に誰かが立っている。
その令嬢は、扉の外で立ちすくんでいた。
青い――まるで冬の空をそのまま纏ったような、爽やかな色のシンプルな薄手のドレス。華やかな装飾は控えめなのに、仕立ての良さが一目で分かる。
長いまつ毛の下の瞳を不安そうに揺らした彼女は、玄関の扉を半ば押し開けたグレンを見上げた。
私は彼女を知っている。
私の家と同格の、美術商の貴族の次女だ。持っている土地はさほど広くないものの、海外の美術品を輸入して、社交界で羽振り良く手配して回っている、富豪の家。
私の胸に、得体の知れない冷たいものが広がった。
なぜ彼女が、ここに? なぜそんな目で、私の婚約者を……?
「新しい薬は……強すぎるみたいだ」
グレンが彼女に向けて、低く呟く。
その声は、彼が商人として見せる冷静さでありつつも、どこか自分を責める響きを帯びていた。
「配合を変えないと、死に至らしめてしまう」
私の中で何かがざわりと揺れた。
薬。死。青い令嬢。
――まさか……。
「グレン様……私、罪の意識に、これ以上耐えられません……」
滑らかな白い腕を折り曲げて震える両手を握りしめ、うっすらと涙を浮かべる令嬢に、グレンは静かに声をかける。
「あまり気負いすぎないように。これは貴方のせいじゃない。さあ、帰ろう」
そして、グレンは外に出て扉を閉めた。この館から出られない私は、扉の隣に備え付けられた半円窓に震える掌を寄せ、夕陽が空を美しい藤色に染める中、青い花が咲き誇る庭を悠々と去っていく二人の背中を見送った。
私は呆然としたまま、か細い息を吐いた。喉がからからに乾いていて、引き攣った声が口から漏れる。
そう――そういうことだったのね。
グレンが本当に欲しかったのは、私ではなかった。
彼が視線を向けていたのは、青い服の令嬢。あの、滑らかな白い肌の彼女こそが、彼の心を占めていた相手なのだ。
考えてみれば当然だ。
グレンの家にとって必要だったのは「上流貴族との縁」という格。没落しかけた私の家である必要はなかった。むしろ、あの令嬢のように羽振りのよい家と結べば、繁栄も格も一度に手に入る。
――それなのに、私と婚約を続けていたのは、ただ我が家が必死に縋っていたからに過ぎない。
胸の奥に氷のような冷風が吹き抜ける。
そして、幸いにも――災いにも――彼は熱心な商人であり、医師であり、薬師だ。人を治す薬は、過ぎれば死に至らしめられる。どこまで薬を強めれば、どのような症状で人が死ぬのか、彼は知りたかったのではないだろうか。
「殺したほうが得」な私という存在が現れたことで、彼の商人としての、医師としての、薬師としての好奇心が鎌首をもたげたのではないだろうか。
冬空を見ながら飲んだ紅茶の香りが、不意に鼻腔をよみがえる。
――あれこそが、私を殺した凶器だったのだ。
「グレン……。あなたは、私を毒で殺したのね」
彼が私を殺す理由は二つ。
一つは、彼が彼女と結ばれるため。
もう一つは――彼が薬を実験するため。
視界が歪にゆがんだので、唇を噛みしめながら目を閉じる。
私は、青い令嬢と結ばれるために――そして新薬を試すために――命を奪われた。
グレン。
彼が、私を毒で殺した。
そして、青い令嬢はそれを知っている、恐らく共犯者だ。
「分かったわ……私の死因と、犯人が」
「ほう!」
死神が嬉しそうに身を乗り出してくるので、相手に涙を見せないよう、背を向けて上を向く。
泣くものか。
これから共に生きようとしていた、伴侶となる青年に裏切られていたなんて。そんなの、よくある話。戯曲でも小説でも、古来から続く王道のストーリーだ。
そして私は、いくら没落に向かっているとはいえ、建国にまで関わった由緒正しい上流貴族の長女。
最初から最期まで、完璧に、誇り高い淑女でなくてはならない。
「私が死んだ理由は――」
絞り出すように声を震わせた時、私の脳裏に、突如閃く光があった。
先ほど、去っていった二人の背を見送った時、何か……何かを、見た。
それの正体は分からない。ただ、とても重要で、とてつもない違和感を覚えるなにかだ。
私は口をつぐみ、半円窓の外を見て、目を凝らす。
先ほど二人が去っていった館の庭に、青い花が――紫陽花が咲いていた。
「………え? どうして、紫陽花が咲いているの……?」
私は思わず半円窓に強く額をこすりつけた。
私の最期の記憶は、グレンと一緒に紅茶を飲んだ、まだ肌寒い春の昼。三月の初めだった。
だが、目の前には紫陽花が咲いている。
三月に、咲くはずがない。
もし、今が紫陽花の季節、六月だというなら、私は。
「私が死んでから、三か月近く経っている、ということ……?」
勢いよく死神を振り返る。相手は何も言わず、黙って私を見つめている。
私が今まで館の中で目にしたものが、雷光のように脳裏で瞬く。
そうだ、さっきグレンが来ていた服は薄手の上着で、とても三月に着るものではなかった。
令嬢の青い仕立ての良いドレスも、五分袖で、白く柔い腕がむき出しになっていた。
使用人の作っていたスープの新鮮な玉ねぎは、初夏に収穫される。
十九時の夕焼けは、この国の三月にしてはあまりに遅すぎる。
そして、紫陽花。
私は必死に頭を働かせた。
もし、今が六月で、私の死から三か月経っているなら、今日見たものの意味が変わってしまう。
グレンが誰にも止められず、この館の私の寝室に一人で入れたのは、なぜ?
――毎日のようにそうしていて、私の家族にそうすることを許されていたから?
薬瓶を持っていたのは、なぜ?
――私を殺したのではなく、私を治そうとしていたから?
「新しい薬は強すぎたみたいだ」という言葉の意味は、なに?
――薬瓶の効果が、今まで与えてきた薬よりも効果があったから?
それらの仮説が示すことは、なに?
――私はまだ死んでいない。眠り続けているのでは?
ぱちり、ぱちりと、頭の中でピースが嵌っていく。割れたステンドグラスのような記憶が復元されて、色鮮やかな姿を取り戻す。
そして死神の言葉が、この異形の宣言が、杯から溢れた葡萄酒のように留まることなく零れ出す。
「君は死んだ。百日以内に死の原因を解明しないと、消滅する」
「君は死んだ。五十日以内に死の原因を解明しないと、消滅する」
「君は死んだ。十日以内に死の原因を解明しないと、消滅する」
「君は死んだ。二十四時間以内に死の原因を解明しないと、消滅する」
そうだ。私は何度も、何度も何度も、毎日、この問いをされていた。
そして解明できないまま一日が終わり、そのたびに記憶があいまいになっていった。
百日もすると、自分がどういう状態になっているのか、何日が経過したのか、全く解らなくなってしまっていた。それがこの死神の卑怯な力のせいなのか、私が幽霊としての力を失い始めているせいなのかは分からない。
「待って、待って待って。待ちなさい。百日間、私は眠り続けて、グレンは毎日私に見舞いをして、目を覚ますように……恐らく、衰弱していく身体を回復させる薬を与えてくれた。と、いうこと? な、なぜ!? 私のような、貧乏貴族なんか放っておいても、あの令嬢がいるのに――」
混乱して髪の毛をしきりに梳く私の指に、金髪が不自然にひっかかる。
思わず手を見下ろすと、その左手の薬指には、見覚えのない赤い指輪が嵌められていた。
なに、これ――知らない。こんな高そうな指輪、持っていない。持っていたらすでに売り払っているはず。
夕陽に照らされてきらきらと煌めく紅玉を見つめていると、私の記憶の中に泡のように浮かんでくる言葉があった。それは、聞いたことが無いはずの、不思議な数多の物語。
グレンが眠る私の耳元で語り続けた、百の物語。
「僕の大叔父は、一度生き返ったことがある。足の小指を捻ったら、喉に詰まっていたクルミの殻が飛び出して、目を覚ましたんだ。さっき貴方の足の小指を捻ったけど、残念ながら起きないみたいだ」
「東の国には、壷の中に閉じ込められた巨大な神がいる。解放してあげると、願いを叶えてくれるそうだ。貴方なら何を願う? 僕なら……毎日新しい物語を書いてもらうかな。それを貴方に語るんだ」
「悪魔は惑う死人に魂を賭けたゲームを持ち掛ける。彼らはゲームに関してはフェアだが、たった一つだけ、嘘をつくそうだ。もし悪魔にあったら、この嘘を見抜くことが肝要だよ」
それらは、他愛のない、技巧もない、小さな物語。
私が死ぬ直前に言った皮肉を、「毎日面白い話をして欲しい」という戯言を、彼は律義に守ってくれていたのだ。百日間ずっと、毎日。
私は薬指の指輪を見下ろした。
彼が、私が眠っている間に作って、眠っている私に嵌めてくれた、結婚指輪。
私は淑女として、彼に二倍、謝らなくてはいけない。疑ってしまったことを。
私は淑女として、彼に二倍、感謝を伝えなくてはいけない。私の願いを、叶えてくれたことを。
私は淑女として、彼を二倍、尊敬しなくてはいけない。――私を、救ってくれたことを。
「ひとつ、聞くわ。あなたは、死神?」
狼面の死神は、答えなかった。宙に浮いたまま、私をじっと凝視している。
私は小さく笑った。
「答えられないわよね。だって死神だと答えたら、嘘になるんだもの。あなたの正体は、悪魔。そして嘘をつけない理由は、既にひとつ、嘘をついているから」
私は悪魔を指差し、高らかに告げた。
「こんなくそみたいなゲームはおしまいにしましょう。答えるわ。『私はまだ死んでいない。私の死因は、あなた。私がこの真相に答えられないと、あなたに魂を喰われて死ぬから』――あなたが最初に宣言した『君は死んだ』というのが、私を騙して誤った推理をさせるための嘘よ! この、すっとこどっこいの、ろくでなし!!」
瞬間、悪魔は館中に響き渡るような、地獄から轟くような哄笑をあげた。
「正解!! 随分と淑女らしいじゃないか、ローライン!」
「悪魔風情が私を語るんじゃないわ。時と場合によっては、淑女も手だって出ますのよ!」
私は渾身の力で悪魔に殴りかかった。
グレンが眠っている私に嵌めてくれた指輪が、私の拳に力を与えてくれる気がする。ぼふん、と微かな手ごたえと共に、悪魔の体が霧のように霧散した。
「私の負けだ。まあまあ割のいい賭けだったんだが――君の婚約者は、どうやら本当に『死んでる君でも好き』らしい」
悪魔は黒い霧となって天井に渦巻きながら、愉快そうに声だけで応える。
「たまたま悪魔の宿った古い宝石に、たまたま令嬢が髪のひと房を代償におまじないをした。気が向いた私はその契約に乗ったが、代償が小さすぎたから、契約の成立には手間が発生したんだ。つまり、『君を昏睡状態にして、さらに君が私の謎解きに正解しなければ、魂を喰う』という、悪魔のゲームがね」
「……あの美術商のご令嬢ね」
「彼女の代償がもっと大きいものだったら、私は即座に君の魂を喰えたんだがね。君の勝ち、契約は不履行。まさか最後の一日で逆転されるとはね」
悪魔の声は遠くなり、霧が消えていく。私は左手をぶんぶん振り回しながら、天井に向けて声を張り上げた。
「待ちなさい! この無体は忘れないわよ、絶対倍にして返してみせるから!」
しかし、悪魔は去ってしまった。
私はぜえぜえ肩で息をしていたが、やがて意識が遠のき、ぐらりと体を傾けて床に倒れた。私が目を閉じる前に最後に見たものは、左手の薬指の赤い宝石だった。
◇ ◇ ◇
私が百日ぶりに目を覚ました時、両親も使用人も、グレンも、驚愕に飛び上がり、館をあげてのお祭り騒ぎになった。グレンが毎日薬を与えてくれていたせいか、悪魔の力のせいか、私は痩せてはいたけれど、不思議と体力は落ち切っておらず、一日もすればゆっくりと館を歩くことができるようになった。
その後、グレンや令嬢と話をする機会があった。
美術商の令嬢は、グレンに恋慕するあまり、つい「ローライン嬢ではなく、私をグレンの妻に」というおまじないをしたらしい。もちろん私を殺したいなど露ほども思わず、ただ自分の心を慰めるために行ったことだった。
彼女は自分のおまじないで私が倒れたと思い込み、グレンは医学的にそんなことはあり得ないと慰めていたのだ。
ただ、不幸にも、そのおまじないをかけた道具が、本当に悪魔の憑いた古い宝石だったのだ。
「それは本当に悪魔が憑いていて、持ち主に害を成す可能性もあるものですから、早々に処分された方がよろしいわ。できるだけ叩いて、痛めつけて、悪口を聞かせて、暗い海の底にでも投げ捨てるのがよいでしょう」
と私が悪魔への倍返しの仕返し――いや、アドバイスをすると、令嬢は泣きながら青い顔で何度も頭を下げた。
その後、罪滅ぼしと口止めを兼ねてたくさんの宝飾品や貴重品が私に贈呈されたが、先の悪魔のことを思い出してしまうので、稀覯本一冊だけ頂いて、あとは丁重にお返しした。
さらに驚いたことに、グレンは、私が寝ている間に我が家の借金を完済してくれていた。
結婚指輪も七個作ったらしい。どれが一番私に相応しいか判断がつかず、あらゆる色の宝石であつらえて、眠る私の指に毎日違う指輪を嵌めてくれたらしい。
そして毎日、本や客人、異国の商人から様々な話を仕入れては、眠っている私に聞かせていた。
その中の一つに、悪魔の嘘を見破るきっかけとなるものがあったのだから、私は彼に救われたと言っていいだろう。いや――彼を慕う令嬢のせいでこの悪魔に憑かれたのだから、彼のせいで死にかけて、彼のおかげで救われた、と言っては可哀想だろうか。
それにしても、と私は新緑の庭をゆっくり歩きながら、隣のグレンを見上げた。
「悪魔に憑かれて百日も眠っていたわたくしを、どうして見捨てなかったの? あなたにとっては、得なんてないじゃない」
そう言うと、グレンは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、それから顔色を蒼白にして、噛みしめるように私に言って聞かせた。
「得とか損とか、何を言ってるんだ? 僕は貴方の伴侶なんだ。なんでもしてあげたいと思うのは当然じゃないか」
「……ごめんなさい、意外だわ。うちの借金も返してくださって、しかも私の約束を守るために、毎日お話もしてくださるなんて。とても、意外で……」
「金の価値は人によって違う。僕にとって、金で解決できるものは、愛情の証明にならない」
愛情。
愛情、とおっしゃった?
「わ、わたくしのことを? 愛してくださってるの?」
「は? 当然だろう。なぜ?」
「わたくしはあなたに嫌われてると思っていたわ。だって、冬はあんなに感じが悪かったじゃない。わたくしに目も合わせずに」
「当たり前だろ! エーデリヒ家のローライン嬢だぞ!? 社交界の憧れの的、清貧の百合じゃないか。ずっと焦がれていた人と二人きりなんて、緊張しない方がどうかしてる!」
清貧の百合……。
聞いたことがない。
資産が無くなっていく中でも見栄を張り、社交界で誰よりも凛とした淑女であろうと居続けた私に、そんな不本意な二つ名がついていたなんて。
グレンは茶会の時のように目を逸らし、黙り込んだ。まさか、それが不機嫌でも傲慢でもなく、ただ緊張と羞恥によるものだったとは。
「百日間、毎日わたくしに話しかけていたなら、もう少し慣れて頂いても良いのでは……」
「百日間、貴方は眠っていたから……起きてる時とは全然違う。獣は目が合ったら襲い掛かって来るんだ」
「この淑女の塊を指して獣とのたまうのは、あなたくらいでしてよ」
これがあの、画期的な医薬品で人々を救いながら、市場を荒らしまわっている遣り手の姿とは思えなかった。思っていることと言っていることとやっていることがそれぞれバラバラで、でもその芯は確かに強い、私への愛情だった。
やはり、お互いのことをもっとしっかり知るべきだ。私たちは伴侶になるのだから。
私は六月の鮮やかな緑の木漏れ日を見上げて、久々に心からの笑顔を浮かべた。
それから、成婚の儀を待たず、私は結婚指輪を身に着けて過ごすことにした。
七つもあるものだから、曜日ごとに違う色の指輪をつけている。
急に懐事情の良くなった成金のように見えるかもしれないが、こればかりは仕方がない。死を待つだけの昏睡状態の婚約者に、目を醒ますことを信じて七つも結婚指輪を作った未来の夫に、態度で示さなくては。
そのためなら、たとえ二つ名が成金の百合となっても構わない。
私はグレンを、少なくともこの国で一番幸せな男にしなければならない。
もらった愛情は倍にして返す、それが国一番の淑女たるローライン=エーデリヒの矜持なのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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