第5話さらに飛ぶ
目覚めた瞬間、世界が傾いた。
「……え?」
南雲翼は、ホテルの白い天井を見つめながら、しばし現実と夢の境界を探った。
しかし、すぐに感じる異様な胸騒ぎと焦燥感が、これは夢ではないと告げていた。
時計を見た。
5:23。
瞬間、脳が一気に加速する。
彼が今朝出るはずだったフライト、ANA1905便のクルーブリーフィング時刻は7:20。
場所は、北九州空港。
……だが、彼が今いるのは、福岡市・博多駅近くのビジネスホテル。
「まずい……まずいまずいまずい!」
寝巻きのまま飛び起き、ベッドの角に足をぶつけた。
だが、そんなことはどうでもいい。
今、自分は職業パイロットの卵として最大の危機に直面しているのだ。
翼は出張のたび、規定通り福岡市内に宿泊していた。
前夜、搭乗訓練を終えたあとのミーティングで仲間と会食し、ホテルに戻ったのは22時。
スマホのアラームは5時に設定したはずだった——はずだった。
だが、アラームは鳴らなかった。
理由は簡単だった。
(……機内モードにしたままだった!)
前夜、充電を早く済ませようとして通信を切ったまま。
その結果、スマホのアラームアプリが正しく動作しなかった。
「信じられない……こんなミス、ありえない……」
訓練生である自分に、1秒の遅れも許されないことは痛いほど分かっていた。
しかも今朝は、初めて主担当として乗務するANA1905便。
この便は、訓練生にとっての“卒業試験”にあたる重要なフライトでもあった。
間に合わなければ、終わる。
単位どころではない。
ANAという空への道が閉ざされる。
翼はわずか3分で支度を終えた。
顔すら洗わず、Yシャツにネクタイ、黒いスーツ。
パイロットバッグを担ぎ、部屋を飛び出した。
「おはようございます、チェックアウトお願いしますっ!」
カウンターの女性は少し驚いたが、笑顔で応じた。
「早いですね、いいフライトになりますように」
「……はいっ!!」
外に出ると、まだ空は青黒かった。
博多の朝。
世界が起き出す寸前の、静かな時間。
しかし、翼の心は地鳴りのように騒がしかった。
(どうやって北九州まで行く!?)
スマホを取り出し、検索アプリを立ち上げる。
新幹線、バス、在来線……いずれも到着予定は7:30以降。
アウト。
残る選択肢は——
「……タクシーしかない」
彼は博多駅のタクシー乗り場まで全力で走り、空車を見つけて飛び乗った。
「すみません!北九州空港まで、最速でお願いします!!」
運転手は驚いた表情を浮かべた。
「北九州?それって高速で行っても……1時間半はかかるよ」
「お願いします……本当に、命かかってるんです!」
しばし沈黙があった。
だが、男は小さく頷いた。
「分かった。法定速度内で、最大限飛ばす。しっかり掴まってろよ」
——プロだった。
その瞬間、翼の目にかすかな光が差し込んだ。
北九州空港のクルールームに通じる自動ドアが開いた瞬間、南雲翼のスーツの背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
時計は7時18分。
ブリーフィング開始は7時20分。
あと2分。——間に合った。
だが、心はまったく追いついていない。
「はぁっ、はぁっ……!」
脚が震える。足元はまだ福岡のアスファルトを蹴っている錯覚すらあった。
博多からタクシーで飛ばして、奇跡的に1時間35分でここまでたどり着いたのは、まさに運だった。
しかし、本番はここからだ。
—
「……おはようございます、訓練生、南雲です!」
小走りでブリーフィングルームのドアを開け、翼は深く頭を下げた。
室内にいた3人の視線が一斉にこちらを向く。
手前に座るのは、副操縦士・加納洋介。まだ30代前半とおぼしき、スッとした目元の男だ。
隣に控えるのは、チーフパーサーの河合真帆。制服の襟元を整え、無言でうなずく。
そして最奥に座る男——**機長、佐伯誠一(55歳)**の目が、鋭く光っていた。
「南雲訓練生。あと2分遅れていたら、お前を乗せてはいなかった」
その言葉には怒気こそないが、冷たい鋼のような圧があった。
「遅刻」という言葉は使われなかった。しかしその一言に、翼の心はズタズタにされた。
「……申し訳ありません」
翼はもう一度、深々と頭を下げた。
佐伯機長はしばし黙ってから、時計を見て頷いた。
「席につけ。始める」
—
ホワイトボードには、すでにフライトの概要が記されていた。
ANA1905便 北九州 → 成田
使用機材:Boeing 737-800
T/O Fuel:7,620kg
METAR(成田):09012KT 9999 SCT025 18/11 Q1015
佐伯機長の声が淡々と響く。
「北九州はRWY18からの出発、SIDはKAGI 3 DEP。経路はY16→KIKUT→Y22→NAKEDで成田アプローチに入る。所要時間は1時間50分予定」
翼はペンを走らせながら、必死に状況を飲み込んでいく。
心臓はまだ早鐘のように打っているが、言い訳はできない。
「T/O重量は63.2トン。ウィンドは軽度のクロスだが影響なし。成田到着予定時刻は10時10分。R/Wは34Lを予定」
「PAXは満席。チーフ、ブリーフィングを」
河合真帆が静かに立ち上がった。
「本日のPAX数は167名。小さなお子さま連れが7組、車椅子対応が2件。優先搭乗は3名です。クルーは5名、うち新人が1名おります。乱気流予想は福岡上空で中程度、シートベルトサインは早めに出す予定です」
落ち着いた声、無駄のない言葉運び。
制服の胸元にある「SENIOR」のピンバッジが目に入る。
(……プロだ)
翼は思った。
河合のような人々と肩を並べて、空を飛ぶ責任を自分が本当に担えるのか?
その問いが、胸を刺す。
—
「以上。質疑あるか?」
佐伯機長の言葉に、副操縦士の加納が手を挙げた。
「滑走路の使用が変わる可能性についてですが、午前10時頃に風が北に変わる予報があります。場合によっては34Lから16Rへの変更もあり得るかと」
佐伯は頷いた。
「状況次第で、成田アプローチにリクエスト。無理ならゴーアラウンド覚悟で手前で減速しよう」
その会話の中に割って入る勇気は、翼にはなかった。
だが佐伯は、不意に翼の方を向いた。
「南雲、お前の担当は?」
「はいっ。セカンドセクターで、ポジションモニター、出発時のクリアランスとプッシュバック時のATC交信を……」
「違う。今日は最初の飛行セクター、お前に操縦させる」
「え……?」
一瞬、息が止まった。
「俺が出発直後に交代する。管制の対応から最初の上昇まで、お前がやれ。緊張してるだろうが、こういうときに“基礎が出る”。いいか?」
「……はい!」
翼は思わず背筋を正した。
佐伯の目は、若者を試すというより、背中を押しているようだった。
■ 7時50分 北九州空港スポットB17 ■
南雲翼は操縦席に着き、滑走路へ向けてエンジンスタートの準備を始めていた。
目の前のコックピットは光の反射でキラリと輝く計器類と、精密に並ぶスイッチがまるで自分の運命を示す羅針盤のように思えた。
隣席の佐伯機長は落ち着いた表情でモニターをチェックしている。
「翼、今日はお前にT/Oを任せる。特に夜間の最終便で混雑が激しい。無理はするな、しかし確実にな」
翼は深くうなずいた。
「はい、機長」
—
地上管制との交信が始まる。
「ANA1905、北九州スポットB17、プッシュバックとエンジンスタート許可願います」
「ANA1905、了解。プッシュバック許可、スタートも許可します」
プッシュバックが始まると、飛行機の背後からゆっくりと機体が離れ、滑走路に向かって進み出した。
翼はすぐにラジオマイクを手に取り、管制官とやり取りを続ける。
「北九州タワー、ANA1905、滑走路18へのクリアランスをお願いします」
管制からの返答は即座に返ってきた。
「ANA1905、滑走路18へのクリアランスを許可。風は北西10ノット。気象条件良好」
—
翼は手順通りに離陸準備を続けた。
フラップを15度にセットし、エンジンをアイドリングから徐々に推力を上げていく。
外はすでに夜の闇に包まれているが、空港の誘導灯や滑走路灯の光が鮮やかに輝いていた。
「翼、管制からの指示をよく聞け。離陸速度を越えたらすぐに機首を上げろ」
佐伯機長の声は落ち着いているが、重みがあった。
翼はそれを受けて慎重にアクセルを押し込み始めた。
「V1……V2……」
機体が滑走路を滑るように加速する。
「機首上げ!」
翼は慎重に操縦桿を引き上げた。
機体は静かに、しかし確実に空に向かって上昇を始める。
—
だが、外は混雑していた。
管制塔からの指示がひっきりなしに入り、他の飛行機の離着陸も同時に管理されている。
翼はそんな中で、すべての計器を確認し、無線からの声を聞き逃さないよう集中していた。
「ANA1905、右旋回、上昇指示高度5000フィート」
翼はすぐに操縦桿を切り、指定高度へ向けて上昇を続ける。
—
離陸後約15分、翼は初めての夜間航行の醍醐味を味わっていた。
眼下に広がる街の灯りはまるで宝石箱のように瞬き、空は深い藍色に染まっている。
しかし、喜びを感じる暇もなく、翼の耳には河合チーフパーサーの声が響いた。
「翼さん、客席でお子様が泣き出しました。ご配慮をお願いします」
「了解。客室と連絡を取る。少しでも落ち着いてもらえるよう努める」
—
さらに航路上では小さな乱気流が発生し、シートベルトサインが点灯した。
「南雲、乱気流だ。無理に高度を変えるな」
佐伯機長が助言する。
翼は冷静に対応し、安定した飛行を続けた。
—
離陸から1時間20分。成田空港進入前の管制との連携が最も重要な局面となった。
「ANA1905、成田アプローチコントロール、降下準備を開始せよ」
翼は滑走路や風の情報を再確認し、着陸に備えた。
「ランディングギアを出せ。速度を落として接地に備えろ」
—
ついに滑走路の明かりが見えてきた。
夜の闇に浮かぶ成田空港の灯りは、翼の心に安心感を与えた。
「機長、着陸承認を」
佐伯機長が手を差し伸べる。
翼は全神経を集中し、着陸手順を着実にこなしていった。
—
タイヤが滑走路に触れた瞬間の衝撃。
翼の胸に激しい緊張と安堵が同時に押し寄せた。
「滑走路接地、ブレーキ開始!」
—
飛行機は徐々に速度を落とし、誘導路へ向かう。
機長は笑顔で翼に言った。
「よくやった、南雲。初の離着陸、完璧だ」
翼は、達成感と共に小さく息をついた。
—
スポットに到着後、クルーとCAは簡単なミーティングを終え、成田の夜の街へと繰り出した。
その日のフライトは満席のうえ混雑し、全員が緊張と疲労を抱えていたが、飲み会の笑顔と談笑がその重圧を和らげていた。
河合チーフは笑顔で言った。
「翼さん、今日のフライトは素晴らしかったわ。次も期待しているわよ」
翼は、まだ揺れる心の中で、新たな決意を胸に刻んだ。
「ありがとうございます。これからも、全力でがんばります」
—
(やるしかない)
—
ブリーフィングを終え、出発前の最終確認へ。
金属探知機を抜け、スポットへ向かう連絡バスの中で、翼は再び深呼吸をした。
外の景色は、うっすらと朝の光を宿していた。
滑走路を横目に見ながら、翼は右手をギュッと握る。
今度は、自分が空を担う番だ。
■ 成田市内、居酒屋「つばさ」 ■
「よくやったな、翼」
乾杯のグラスが響き渡る。
河合チーフパーサーのリードで、ANA1905便の乗務クルーたちは初の夜間フライトを終え、成田市内の居酒屋「つばさ」に集まっていた。
店内は飛行機の模型やパイロットの写真が飾られ、まるでクルーたちの第二のホームのような温かさがあった。
—
佐伯機長はビールジョッキを片手に語りかける。
「翼、最初の夜間フライトでよく緊張をコントロールできた。成田は風も強いし、何が起こるかわからないからな」
翼は少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。緊張しましたが、機長の声が頼もしかったので安心できました」
河合チーフも優しいまなざしで頷く。
「みんな最初はそうよ。でも、私たちCAも翼さんの操縦を信じているわ」
—
テーブルを囲むのはクルー8名。
客室乗務員の若い女性たちやベテランの男性CAも交え、仕事の失敗談や面白いエピソードが次々と飛び出す。
「今日は満席でね、トイレが混んで大変だったのよ。泣いてる子供もいて」
「南雲君、あの乱気流の時、機内アナウンスが素早くて助かったよ」
—
和気あいあいとした雰囲気の中、翼は自分の存在がクルーの一員として認められていることを実感し、胸の中に静かな喜びが広がった。
「皆さんのおかげで、ここまで来れました」
そう言うと、皆が翼に温かい拍手を送った。
—
佐伯機長がグラスを掲げる。
「このフライトはお前にとって大きな一歩だ。これからも共に安全な空の旅を作ろう」
「はい!」
—
ふと、隣のテーブルから笑い声が聞こえてきた。
夜の成田は忙しいが、こうした時間こそがクルーたちの絆を深める大切な時間だった。
—
店の外に出ると、静かな夜風が翼の頬を撫でた。
「明日も頑張ろう」
そう自分に言い聞かせて、翼は深く息を吸い込んだ。
空はまだ暗いが、翼の心には新しい光が灯っていた。
■ 翌朝、新日本橋の自宅 ■
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
南雲翼は目を覚ました。昨夜の成田の飲み会の賑やかさと楽しさが思い出される。
だが、すぐに現実に引き戻された。今日はまた新しいフライトが待っている。
—
朝食を取りながら、翼はスマートフォンでスケジュールを確認した。
「次は羽田発、札幌行きか……また新しい空が待っている」
家族が近くにいないことの寂しさも感じるが、この仕事への情熱が彼を支えていた。
—
自宅を出て、駅へ向かう途中、翼は新日本橋の街並みを見渡した。
古いビルと新しい高層ビルが混在するこのエリアは、彼にとって安らぎの場所でもあり、挑戦の場でもある。
—
通勤電車の中、翼は窓の外を見ながら考えた。
「飛行機はただの機械じゃない。そこに乗る人たちの命を預かる、責任重大な存在だ」
この実感が、日々の緊張と努力の原動力となっていた。
—
■ 羽田空港 ■
チェックインカウンターで同僚のCA、川島美咲と軽く会釈を交わす。
「翼さん、今日もよろしくね」
「美咲さん、こちらこそ」
—
搭乗口で、今日のフライトに備え、翼は集中力を高めていく。
機体に乗り込み、コックピットに着席すると、一日の疲れも忘れて飛行準備に没頭した。
—
「ANA1205便、離陸許可待ち」
管制との交信が始まる。翼は冷静に返答した。
「了解、離陸準備完了」
—
滑走路に向かう機体の中で、翼の胸は高鳴っていた。
今後も続くフライトの数々、そのすべてが彼の成長と経験となる。
—
飛行機は滑走路を滑るように加速し、翼は確実に機首を上げた。
夜明け前の空は澄み渡り、翼は新たな一歩を踏み出していた。 札幌到着後「もしもしANAホールディングスの監査室の田辺と申しますこの後成田到着後話したいことがある監査室に来なさい」と監査室の田辺は言った
翼の心の声「俺なんか悪いことしたか?」と心で呟く 翼は田辺に質問する「あっすみません俺なんか悪いことって....しましたっけ?」
田辺はつぶやいた「ここではなすことではない!成田に着いたら話す!」と少しきつい口調であった
翼は冷や汗をかき心で呟く「やっちまったぁぁ.....終わったぁ」心で呟きながらも応答ではいと言った
午後の羽田空港。1205便の帰着からわずか1時間後。
南雲翼は指定されたANA本社ビルの監査室に向かっていた。
「何だろう……」
胸中は複雑だった。監査室とは、フライト後の記録を精査し、問題点がないか調べる場所。
だが、今回の呼び出しはただの定例ではなさそうだと感じていた。
監査室の扉が静かに開き、数名の上司たちが座っているのが見えた。
彼らの顔は真剣そのものだった。
「南雲君、お疲れ様だ。さあ座ってくれ」
監査室責任者の田辺主任は、落ち着いた声で言った。
翼は席に着き、深呼吸をした。
「まず、今回の1205便の飛行記録はおおむね良好であった」
「ですが、いくつかの操縦操作や管制とのやりとりについて細かな確認が必要で、その点について質問させてもらう」
翼は誠実に質問に答え、記録に基づいて詳細を説明した。
「さて、話は本題だ」
田辺主任は書類を広げて続けた。
「君のキャリアに関して、会社として新たな配置を検討している?」
「新たな配置……?」
「はい。これまで君は主に機長候補として訓練を受けてきたが、今後はしばらくの間、副操縦士として経験を積むことになる」
翼の心臓は一瞬、強く打った。
「副操縦士……つまり、いわゆる“2番手”への異動ということでしょうか」
「そうだ。決して降格ではない。会社としては君にじっくりと実務経験を積んでほしいと考えている。副操縦士として、多様な路線や状況で腕を磨くことが不可欠だ」
翼はしばし言葉を失った。
「私は機長を目指して…」
「その気持ちは十分理解している。だが、飛行の安全は何よりも大切だ。焦らず、段階を踏んで成長してほしい」
上司たちは真剣な表情で見つめていた。
翼は自分の感情と向き合った。
「今は戸惑いもあるけれど、与えられた役割を全うして、いつか必ず期待に応えたい」
彼は静かに決意を固めた。
監査室を出た後、翼は空を見上げた。
「副操縦士としての新しいスタートだ。ここからが本当の勝負だ」
冷や汗をかくものの怒られることではないと翼は言った
そして夜空に浮かぶ星のように、翼の心に小さな光が灯った。