第4話「夜の滑走路、心の灯」
「ANA259便、北九州行き。羽田最終便、出発は20時55分予定です」
ブリーフィングルームに、緊張が走っていた。
初の実地訓練——それも「本物の便」での「ジャンプシート同乗訓練」。
南雲翼はANA訓練生として、現場での“空の仕事”を初めて体験する日を迎えた。
東京・羽田空港 第2ターミナル。
空はすでに深い藍色。
滑走路からは離陸ラッシュの轟音がひっきりなしに響いてくる。
翼は制服を着て、指定されたスポットへ向かっていた。
搭乗機はBoeing 787-8型機(JA823A)。
フライトはANAの定期便。およそ3時間の夜間飛行、満席200人超。
「おはようございます、訓練生・南雲です。本日、同乗させていただきます」
コックピットで待っていたのは、
40代後半の機長・佐伯慎一
30代前半の副操縦士・中田美咲
二人とも、すでにプロ中のプロの表情だった。
「よう、南雲くん。初めてのフライトか。今日の便は簡単じゃないぞ」
佐伯機長の声は、あくまで穏やかだったが、その裏に“現場の緊張”が滲んでいた。
夜間・混雑・最終便——。
この3条件が揃えば、たとえ訓練生でも「生ぬるい観察者」ではいられない。
実際、羽田の地上は混み合い、プッシュバックの順番待ちが発生。
さらに、地上の整備班からの報告で搭載貨物の重量計算にズレが見つかり、フライトプランの再確認が必要に。
「オーバーウェイトじゃないが、マージン少なめ。フラップ設定、5→10でいこう」
「了解です、フラップ10、V1は146、VRは152」
(情報の洪水だ……)
翼はジャンプシートからそれを必死に記録しながら、“生の空”がどれほど“重くて速いか”を実感していた。
ようやく出発準備が整ったのは21時20分。
地上スタッフからのハンドサインを受け、滑走路へとタキシーが始まる。
「ANA259便、05番スポットよりタキシー開始、ランウェイ16Rをリクエスト」
「16R了解、A6→K→W、W5手前でホールドしてください」
タクシーウェイは混雑し、行き交う航空機の間を縫うように進む。
滑走路端では5機待ち。
夜の灯りが、機体の腹を静かに照らしていた。
そして、滑走路16R。
離陸許可が下りる。
「ANA259便、ランウェイ16R、クリアード・フォー・テイクオフ」
「クリアード・フォー・テイクオフ、259」
轟音とともに、加速が始まる。
翼は、心臓が震えるのを感じていた。
(今、200人の命が……この小さなコックピットに集まってる)
「V1… Rotate…」
美咲副操縦士が機体をそっと引き上げる。
羽田の灯が遠ざかっていく。
地上を離れた瞬間、重力がふっと変わる。
その変化に、翼の目から熱いものが浮かんだ。
巡航に入る頃、機長がふいに話しかけてきた。
「どうだ、これが“本物の空”だ」
翼は思わず答えた。
「……想像より、静かでした」
「そう。静かだけど、全部ここで決まる。計器も、判断も、人間もな」
コックピットに流れる、静寂と信頼の空気。
SNSでは絶対に伝わらない世界。
目の前にあるのは、現場だった。
その後も、揺れや突発対応は何度かあった。
トラブルではなかったが、フライトの中には「訓練所では学べない判断」が山ほどあった。
たとえば、急な気流変化に対してのATCとの交信変更。
乗客への機内アナウンス内容の調整。
到着空港におけるアプローチ変更と連携。
どれも、一瞬で判断しなければならない。
「正解のない現場」だった。
そして、到着は23時38分。
北九州空港の滑走路が、海の上に光っていた。
「ANA259便、滑走路36、クリアード・トゥ・ランド」
「クリアード・トゥ・ランド、259」
静かな降下。
やがて、タイヤがアスファルトを噛み、衝撃とともに滑走が始まる。
機体が減速するたび、翼の胸にこみ上げてくるものがあった。
スポットに入り、ブロックオン。
「エンジン停止。フライトログ、OK。タクシー時間含め、4時間13分」
翼は、深く息を吐いた。
これが、自分の「初めての空」だった。
機長が、ヘッドセットを外しながら言った。
「今日、何を感じた?」
翼は一瞬黙ってから、こう答えた。
「空は、きれいでした。でも……甘くない」
それを聞いて、機長はゆっくりと頷いた。
「その言葉、メモしておけ。今夜の答えは、それでいい」
駐機場に降りたとき、海風が冷たかった。
だけど、心の中に灯った光は、消えなかった。
スマホを手に取り、翼は一言だけ、投稿した。
「甘くない空に恋をした」
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