第2話 合格ラインから少し下から届いた手紙
東京・新日本橋。
南雲翼(24)は、築8年の1LDKマンションに一人暮らししている。
通勤ラッシュより少し早い6時45分、ANA総合訓練センターに向けて家を出た。
耳にはワイヤレスイヤホン。流れているのは、YOASOBIの「アドベンチャー」。
歩道橋の上で、スカイツリーの先端を見上げながら、小さくつぶやく。
「今日こそ、絶対着陸決める」
ANAの42期生として訓練が始まって、すでに2か月。
だが、着陸訓練の合格だけは、まだ一度も掴めていない。
ANA総合訓練センター・シミュレータールーム。
自分の番が来るのを、ガラス越しに見守っていた。
同期の上村陽太が操縦している。スムーズなフレア、接地、逆噴射。
「はい、合格」
教官の一言に、陽太は軽くガッツポーズを見せた。
翼は、ちょっとだけ顔をしかめる。
(また陽太は合格か……)
彼は元・自衛隊整備士で、しっかり者。常に2歩先を行っている。
比べてしまう自分が悔しかった。
「次、南雲」
操縦席に座ると、訓練用のB737型シミュレーターのスイッチが入り、成田空港の景色が広がる。
管制音声、エンジン音、機体の微細な揺れ。全てがリアルだ。
「成田34L、最終進入。風速5kt、左斜め前。滑走路視認、問題なし」
「はい……了解」
深呼吸。
手汗を感じながら操縦桿を握る。
着陸は、いわば「空から地上へのラストダンス」。
タイミング、速度、姿勢——全部が完璧に揃って、初めて「合格」にたどり着ける。
「500ft……300ft……」
緊張で肩が上がる。
着地のタイミングが読めない。フレア(機首上げ)を遅らせて——
ガタンッ!
「接地失敗。オーバースピード。やり直し」
教官の声は、怒っていない。ただ、事実だけを突きつけてくる。
「……はい」
手が震えていた。
ダメだ。また“完璧”を目指しすぎて、感覚を置き去りにしている。
昼休み。
陽太とビルの外のベンチで、サンドイッチを食べながら会話する。
「翼、あのさ、完璧狙いすぎなんだよ」
「でも、それが仕事じゃないの?」
「いや、仕事は“安全”だよ。完璧は“理想”。でも現場は、いつだって“現実”で動いてんだ」
陽太の言葉が、妙に刺さった。
「安全を守ったうえで、80点の着地を重ねる方が、よっぽどパイロットとして信頼される」
「……80点でいいのか」
「いや、まずはそこを目指せ。完璧はその先だ」
SNSで“最高”しか求められない時代。
でも、「安全を担う仕事」は、“80点を継続する力”の方が大事なんだ。
翼は自分の中の何かが、少し剥がれ落ちるのを感じた。
午後の訓練。
「もう一度やってみようか、南雲」
教官の声は変わらない。
でも翼の中の何かが、少しだけ変わっていた。
——速度より“安定感”。
——完璧より“人が乗ってる前提”。
機体の動きが、さっきまでとは違った。
硬かった操縦桿が、少し軽くなる。
「フレア、今」
フレアのタイミングは、ほんの少し早めにした。
完璧ではない。でも、着地は静かだった。
「……着地良好。減速操作、OK。合格」
沈黙の後、教官が淡々と伝えた。
その瞬間、翼の口元がわずかに緩んだ。
(……やっと)
帰り道。
夜の総武線快速。窓に映る自分の顔を見つめたまま、スマホを開く。
Instagramに、ANA737の訓練機の写真を載せる。
#訓練中
#初合格
#着陸成功
#まだまだだけど
#空が少し近づいた
投稿を終えて、電車が東京駅を通過した。
少しだけ、今日の夜空が綺麗に見えた気がした。