1話 俺空飛びたい
「正直、ここに立ってるのが、いまだに信じられない」
成田空港、第5駐車場の展望デッキ。
朝6時。空はまだ完全には明けきっていない。空気は冷たく、頬に当たる風がピリピリする。
南雲 翼、24歳。
ANAの自社養成パイロットとして、今日から初期訓練が始まる。
スマホのカメラ越しに、ANAのBoeing787を捉えて写真を撮る。
#夢のはじまり
#ANA訓練生
#PilotLife
そんなハッシュタグをつけようとしたけど、投稿ボタンには指が届かなかった。
「……今はまだ、上げる資格ないな」
ポケットにスマホを戻す。
ただ、機体を見ていた。朝焼けに照らされる尾翼。鮮やかなブルーと、アルファベット三文字。
ANA。
あのロゴを背負って飛ぶ未来が、ほんの少し、でも確実に近づいている。
「おーい、翼!」
声の主は父だった。南雲 誠。ANAの元整備士で、定年までこの空港で30年以上勤めた人だ。
見慣れた青い作業ジャンパーを羽織って、ぎこちなく手を振ってきた。
「……なんで来てんだよ」
「お前が飛び立つ日だからに決まってんだろ」
父は照れくさそうに笑う。
でもその目は、どこかで涙を堪えてるみたいだった。
「昔、ここでお前と飛行機見てただろ。あのとき、“大きくなったら、パイロットになる”って言ったのお前だぞ」
「……覚えてるよ」
忘れられるわけがない。
あの日、父が指差したANA機の離陸。
凄まじい轟音とともに、空へ跳ね上がるように飛んでいった。
小学4年だった翼は、立ったまま震えた。
あれに、乗るんじゃない。あれを、操縦するんだ。
そのとき、生まれて初めて“本気でなりたいもの”を見つけた。
それから十数年、航空大学校に進み、試験を受け、ようやくANAに合格した。
でも。
「正直、怖いんだよ」翼はポツリと言った。
「夢って、追いかけてるうちは良い。でも、現実になった瞬間、一気に全部崩れる気がして」
「……」
「もし、無理だったらどうしようって。訓練で落ちて、飛べなかったらって……」
父は何も言わず、展望デッキの手すりに手を置いた。
滑走路を見ながら、ゆっくりと言う。
「怖くていい。むしろ、その怖さがあるなら、お前は大丈夫だ」
「え?」
「整備士やってたとき、何百人ってパイロット見てきた。怖さを持ってるやつは、絶対にミスしない。安全に対する“感覚”が研ぎ澄まされるからな」
「……」
「お前が今感じてるその不安は、強さになる。翼、お前はちゃんと、空を怖がれる人間だ。それが、ANAのパイロットになるための第一歩だ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
不安は消えない。でも、それを“力に変えられる”かもしれないと思えた。
「ありがとう、父さん」
時計の針は6時45分。ANAトレーニングセンターへ向かう時間だ。
翼は父に一礼し、スーツケースを引いて歩き出した。
ANA総合訓練センター。
外観はまるで空港そのもののように近未来的。
自動ドアを抜けると、広いロビーに、同じスーツ姿の青年たちが10人ほど集まっていた。皆、今日からの訓練生だ。
名前も知らない同期たち。
その中の一人が翼に気づき、声をかけてきた。
「君も42期生?」
「はい。南雲って言います」
「俺、上村陽太。よろしく」
ガッチリした体格。元・自衛隊の整備士という経歴の陽太は、見た目に反して柔らかい笑顔を見せた。
「やっとここまで来たけど……多分、ここからが本番だよな」
「うん。そう思う」
初対面でも、妙に通じ合う。
それは、みんなが同じものを背負ってここに来ているからかもしれなかった。
夢と不安と、飛びたいという衝動。
午前8時。
オリエンテーションが始まり、ANAの訓練教官が登壇する。
「皆さん、ようこそANAへ。ここから皆さんは、約2年間、ANAの空のプロフェッショナルとして鍛え上げられます」
会場に緊張が走る。
呼吸音すら聞こえそうな沈黙の中、教官は続けた。
「言っておきます。夢見がちな人間には、向きません。空を舐めてかかる人間は、確実に脱落します。
航空機は一瞬で100人以上の命を奪うことができる“凶器”でもあります。
——あなた方は、今この瞬間から、“命”を預かる覚悟を持ってください」
翼は、その言葉を真っ直ぐに受け止めた。
夢は、もう終わったんだ。
これからは、“責任”の時間が始まる。
「最後に一つ。ANAがパイロットに求める最大の素質は、“誠実さ”です。
技術より、知識より、まず“人間として誠実であるか”。
それが、私たちの空を守る根幹にある考え方です」
拍手が起きることもなく、会場は静かだった。
でも、心の中では何かが確かに始まっていた。
翼は拳を握った。
夢は、見てる間が一番楽しい。
でも、“叶える”って、たぶん、もっとしんどくて、もっと尊い。
この先、何度も打ちのめされるだろう。
同期に負けて、自分に絶望する日もあるだろう。
でも、それでも。自分は、自分を空へ連れていく。
目指すは、ANAの左席。
副操縦士として、乗客の命を預けられる“存在”へ。