不幸な人生とは思わない
カサレラは自分がとても不安定な体勢でいることを全身で感じながら、重たい瞼を開けた。
「こ、ここは?」
一瞬記憶がおぼろげになる。
確か、今朝目が覚ました記憶はある。ただ、昨晩の大事件があってからナファネスクと顔を合わせるのが気まずくて河原で顔を洗いに行った。それから――。
ハッと全ての出来事を思い出したカサレラの目が大きく見開かれる。すぐに自分がどういう状況下にいるのかまじまじと見つめた。
全身が思うように動かないと思ったら、外側に引っ張られた状態で両腕と両足には金属製の拘束具が嵌められていた。四つの拘束具から伸びる長くて頑丈な鎖は遥か遠くに突き刺さった太い鉄製の杭に括りつけられている。
足下の周辺には何かを形作っていた陶器の欠片が散らばり、鼻につく血生臭い匂いとともに真っ赤に染まった六芒星の大魔法陣の中央に立たされていることを知った。
「《破滅の聖女》よ、ようやくお目覚めですか?」
その声に聞き覚えがあった。自分をこの場に連れ去った男であり、バルドレイア帝国の宮廷魔導師カシュナータだ。カサレラは憎悪の満ちた眼差しで睨みつけた。
「その耳障りな呼び方は止めてくれない! あたしにはカサレラっていうちゃんとした名前があるんだから! それと、理由はよく分からないけど、あたしが気絶してる間に冥邪天帝を顕現させなかったのは大失敗ね! 絶好の機会を逃したことを悔いるがいいわ!」
「それはどうでしょうかね」
カシュナータに動じた様子はない。
「敢えて目覚めるまで待っていたのはヴェラルドゥンガ様が地上に降り立った際に、あなたの存在を確実に突き止めるためです。どうやらあなたの意識が鮮明なときでないと、冥邪憑きにならない者の証とも言える独特の臭気を出さないようなのですよ。それが果たしてどんな匂いなのか、僕には皆目分かりませんけどね」
カシュナータは薄ら笑いを浮かべながら上を見るように合図した。
カサレラが警戒心を維持したままそっと見上げると、頭上の大空にはまるで何もかもを飲み込んでしまいそうなほど巨大で不気味な緋色の空洞が存在した。これこそが獄淵界へと通じる扉なのは明白だった。
「それにしても、あなたはとても幸運な人ですね。この大陸にごまんといる人間の中で、唯一ヴェラルドゥンガ様の依り代になれるのですから。まさに世界を滅ぼすために生まれてきたと言ってもいいでしょうね」
「ふざけないでよ! 絶対に顕現させやしないんだから! あたしは、呪われた自分の運命に最後まで抗い続けるって決めたの!」
現在置かれている状況に微塵も臆することなく言ってのけた。
こんな風に思えるようになったのは、ひたすらに自分を思ってくれるナファネスクのおかげだった。
一心に愛してくれた向こう見ずな少年が今までの陰鬱な生き方を変えてくれた。その事には心から感謝していた。
今まで生きてきた中で色々と嫌な目に遭わされてきたが、それらを全てひっくるめて不幸な人生だったとは思わないことにした。何物にも代えられない大切な人たちと出会えたのだから。
粗野で少しバカだけど、自分の心に真っ正直なナファネスク。愛くるしいほど可愛げな焔豹のハクニャ。それに、まだ子供の自分を一人の人間として接してくれた、優しくて賢明な騎士のオルデンヴァルトさん。実の母親のように温かく包み込んでくれた宿屋の女主人エスタナさん。
みんながかけ替えのない存在だ。それもこれも、自分が冥邪天帝ヴェラルドゥンガの唯一の依り代でなければ巡り合えなかった。
人の本当の温かみを心で感じながら、カサレラはある事に気付いた。ずっと大事にしていたものが見つからなかった。
「もしかして、探しているものはこれでしょうか?」
カシュナータは右手に隠し持っていた魔道具をあからさまに見せびらかした。滅骸師が神聖魔術を唱えるのに必要不可欠な天晶玉だ。




