帝国軍の襲来
不意に空腹を満たしたハクニャが警戒心から激しく毛を逆立て、威嚇するようにドアを睨みつけている。もっと言えば、ドアのその遥か先だ。
何だかとても嫌な感覚に襲われた三人は顔を見合わせる。その直後、ユリゴーネルが左手でローブの上から心臓あたりを握りしめ、苦悶の呻き声を上げた。
「ユリゴーネルさん、どうなされたのです? しっかりしてください!」
エゼルベルクが即座に駆け寄って、抱きかかえる。
「うっ……す……すまぬ。け……結界が……破られ……た……」
荒々しい息遣いで途切れ途切れにそれだけ言うと、ユリゴーネルは近くにあった食器を床に落としながらテーブルに突っ伏して気を失った。もしかすると、己が命を賭して張り巡らせた結界だったのかもしれない。
「め、冥邪だ! 冥邪が現れたぞ!」
数分も経たないうちに、村の若い男の喚き声が聞こえてきた。続いて、あちらこちらで叫び声が飛び交った。金切り声を上げる女性の悲鳴やギャーギャーと泣き喚く赤子の声も聞こえてきた。
逃げ惑う村人たちの慌ただしい足音とともに阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れる。静かなのはこの家だけだった。
「クソ! いずれこんな日が来るとは思っていたが――」
ナファネスクを一瞥してから、エゼルベルクは自室に足早に向かった。乱暴にドアを開けて中に入ると、すぐさま出てきた。両方の手に一本ずつ鞘に入った長剣を持っている。
「ナファネスクよ、お前に見せておかなければならないものがある。ユリゴーネルさんがついさっき言っていた獣霊降臨だ。もしものためによく見て、覚えろ!」
「わ、分かった」
エゼルベルクから長剣を渡されながら、ナファネスクは頷いた。
防具を一切身に着けてないのが不安だったが、エゼルベルクはそんなことなどお構いなしに玄関のドアを開け放った。
「さぁ、行くぞ!」
気合の入った声を上げて、勇猛果敢に出ていった父親の後を追う。
ただの農民の子だったはずのナファネスクの人生が今まさに大きく変わろうとしていた。
☆☆☆
「これは……ひでぇ……」
家に出て周囲を一望すると、農村は瞬く間にめちゃめちゃに荒らされていた。そこには冥邪と呼ばれる奇怪千万の姿をした二体の巨大な怪物の姿があった。
身長は大人の男性の五倍くらいはある。猛々しい四本の角を生やし、全身は毛むくじゃらで両腕から大きく反り返った刃を生やしていた。
長くて太い尻尾をズルズルと引きずりながら、二体の冥邪は綺麗に耕した農地を縦横無尽に踏み鳴らし、好き放題に暴れ回っていた。大量の血が滴り落ちる鋭利な刃で村人を次々と切り裂き、捕まえた者は鋭い牙で噛み砕いていく。
さらに村人たちに異変が起きた。冥邪どもの口から吐き出される瘴気を浴びた者は、醜悪な冥邪憑きへと姿を変えていく。まさに凄惨な光景だった。
「あれが冥邪――!?」
言うまでもなかったが、初めて目にする異類異形の怪物の姿に驚くとともに、激しい憤りを覚えた。そのせいで、初めて見るにも拘わらず、冥邪に対して村人たちのような恐怖心は感じなかった。
「絶対に許さねぇ! 今すぐぶった斬ってやる!」
ナファネスクは怒号を上げると、勇ましく長剣を鞘から抜いた。すかさず勢い任せに斃しに向かおうとした。そこへ、何者かがこちらに歩み寄って来る気配を感じ取った。
「いやぁ、ようやく見つけましたよ! お二方」
それほど遠くない距離から喜びに満ちた声が呼びかけてきた。振り向くと、頭の良さそうな顔立ちの若者が立っていた。
歳は二十代前半。邪悪さに満ちた深紅のローブを纏い、左腕に分厚い魔導書を抱えていた。
「目的は達しました。ヴォルガンたちよ、こちらに戻って来なさい」
瘦躯の魔導師は握り拳にした右手を空高く上げた。ほんの一瞬人差し指に嵌めた指輪が光り輝いた。すると、先ほどまでこの農村をむやみやたらと蹂躙し尽くしていた二体の冥邪は急に大人しくなり、若い魔導師の背後にゆっくりと戻っていく。
(あの指輪で冥邪を意のままに操っていたのか?)
ナファネスクの怒れる闘争心は正体不明の魔導師に向けられた。残虐に殺された村人たちの仕返しをしなければ、気が収まらなかった。
「お初にお目にかかります。無疆の獣気の持ち主と噂されるアルメスト王国元王子に《無敗の闘神》の異名を持つエゼルベルク殿」
何事もなかったように痩躯の魔導師は頭を下げた。周囲の惨劇など全く気にしていない。
「アルメスト王国元王子?」
何のことを言っているのか、理解できなかった。
「少年よ、エゼルベルク殿からまだ何も知らされていませんでしたか? これは余計なことを口走りましたかね。僕はバルドレイア帝国の宮廷魔導師で、カシュナータと申します」
「お前の名などはどうでもいい! それにしても、私も相当舐められたものだな。帝国の宮廷魔導師がたった二体の冥邪だけを引き連れて、乗り込んできたってわけか?」
今度はエゼルベルクが口を開いた。憤慨しているのは言葉尻で分かった。
「まぁ、そんなところです。それにしても、あなた方が姿を消してからもう十二年近くになりますか。血眼になって探し回った僕たちの苦労がついに実を結びましたよ。本当に手間をかけさせてくれましたね」
「お前たちがそれだけ使えない者揃いってことだ! 身の程を知れ! お前などさっさと消し去ってくれる!」
瞬く間に攻撃に転じようとした瞬間、遥か上方から何かが襲いかかってきた。




