人目の忍んで
凍てつくような肌寒い向かい風が音を立てて吹きつけてくる。まるでこの山には近づくなと言わんばかりに――。
身を強張らせながら夜空を見上げてはみるものの、背の高い木々の枝葉が邪魔で星々の眩い輝きは届かない。
行く先に道らしきものは見当たらず、ただ草木が鬱蒼と生い茂った霊峰マハバリ山を眠たい目を擦りながら登っていく。
「父さん、いったいどこまで行くの？ 僕、もう疲れちゃったよ」
既に登り始めてから半時ほどが経過していた。目の前の伸びた草を精一杯かき分け、十二歳になったばかりの少年は駄々をこねた。
周囲は漆黒の暗闇に覆いつくされ、不意に野生の動物が飛び出してきてもおかしくない状況だ。
「もう弱音を吐くのか？ ナファネスク。父さんはお前をそんな弱い子に育てた覚えはないぞ」
数歩前を猛然と登っていく父親に厳しく叱咤された。歳は三十代半ばで、右手に方位磁針を持ち、左手でランタンを照らしていた。
親子の服装は登山用のものではなく、普段から着ているものだった。毛織物で作った上着に使い古した布のズボンで、革製の靴を履いている。
霊峰マハバリ山はそれほど険しくない山とは言っても、人の手が全く入ってない山だ。まだ年端も行かない少年が登るにはとても辛そうに見える。
不意に少年の肩に乗っていた動物が軽やかに頭に飛び移った。
「こら、ハクニャ！ 頭に乗っかったらダメだって言ったのに！」
ナファネスクはムッとした顔で自分の頭を睨みつける。その視線の先には子供の――真紅の毛並みが特徴的な猫科の生物――焔豹がいた。まだ幼いときに家の近くに一匹でいたのを保護したのだ。
子供なだけに焔豹の体は小さく、愛くるしい姿をしている。
ハクニャは悪びれた様子も見せずに舌で片足を舐め始めた。
ナファネスクは「もうっ！」とふくれっ面をした。それから、視線を父親の背中に戻した。
「でも、父さん。この御山は絶対に登っちゃいけないって、村長のユリゴーネルさんが言ってたよ。この事が知られたら、みんなに怒られちゃうよ」
「余計な心配などしなくていい。村の人たちに気付かれないために、わざわざこんな夜更けにやって来たんだ。お前がここで〝禁忌の申し子〟となるためにな」
父親の発した空恐ろしい言葉に背筋が凍りつくような寒々しさを感じた。〝禁忌の申し子〟とは何なのか知りたかったが、怖くて聞けなかった。
その後は特に話すこともなく、二人は霊峰マハバリ山を登り続けた。
時刻は既に深夜を回っている。農村の誰もが眠っている時間帯だ。
ナファネスクは眠気が消し飛ぶほど無我夢中で父親の背中を追い続けた。峻烈な言葉を吐く父親も、心の内では大切な我が子を気遣っているようだ。度々後ろを振り返ってみては迷子になっていないかと確認していた。
少しして、二人はやっとのことで山の中腹に差しかかろうとしていた。さすがにまだ小さい我が子をこれ以上歩き続けさせるのは酷と感じたのだろう。父親は休憩を取った。
ランタンを近くの大木の枝に吊るし、幹を背もたれにして二人は座った。
「なぁ、ナファネスク。この御山には何があると思う？」
短剣とともに腰帯からぶら下げた水筒を手に父親が訊いてきた。いつもの優しい口調だ。
「えーと、御山と言われるほどだから、昔のとても偉大な人のお墓とかかな？」
父親の唐突な問いかけに、ナファネスクはなんとなく思ったことを答えた。
村人たちが決して誰も近づこうとしないのには何かしらの迷信めいた深い理由があるに違いなかった。しかも、この山をとても大事に見守っているようにも感じた。そこから導き出した答えだ。
「残念ながら、違うな」喉を潤した父親は一笑に付した。
「ナファネスク、お前は父さんが盗掘でもするつもりだと思っているのか？」
「そんな、違うよ！」
「ハハハ、別に怒っているわけではない。見方をよっては、この御山には偉人の墓に隠された莫大な財宝に匹敵する価値のものが眠っているのだからな」
父親の言葉はどこか意味深だった。だが、悪いことをするはずがない。父親が尊敬に値する立派な人物なのは言わずもがなだからだ。
（この御山には何があるんだろう？ それに、〝禁忌の申し子〟って……）
ナファネスクはどんなに頭を使っても謎の正体が何一つも思い浮かばないので、考えるのを断念した。その代わりに、父親を真似て自分の水筒を手に取った。
一口飲んで喉の渇きを潤した途端、今までずっと少年の頭に乗っていた焔豹が颯爽と地面に飛び降り、「ミャー」と可愛げな鳴き声を上げた。
「ハクニャ、お前も喉が渇いたの？」
先ほど抱いた苛立ちなど既に消え去っていた。ナファネスクは焔豹の口元に水筒を近づけてやる。すると、嬉しそうに水筒の飲み口をペロペロと舐め始めた。
おおよそ四半時が経過し、二人と一匹は再び霊峰マハバリ山を登り始めた。
