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異世界全裸転移 〜眼鏡を取り戻すまで世界を救うとかできませんから!〜

作者: 初野 春

全裸要素は薄いです

 ハッと瞬きをすると、見知らぬ草原に立っていた。

 ――全裸で、一糸纏わず、生まれたままの姿で


「……は?」

 間抜けな声を発し、周囲を見渡せば青々とした草が風に揺れるばかり。

 遠くに花をつけた木がある気もしなくはないが、自分が持つ知識と何となく色合いでそう判断できるくらいだ。

「わ、私の眼鏡は…?」

 そう、生まれてから二十年ちょっとかけてじわじわ落ち続けている視力を補正する大切なそれが私の耳に掛かっていない。世界を隔てるレンズがない。

 鼻当てがどうにも苦手な自分が愛用する、鼻当て一体型で尚且つ非常に軽いアセテート素材の眼鏡はどこにも見当たらないのだ。


 万が一踏んでしまう事を考え、その場に蹲り全裸のままで草をかき分けるも、かき分けてもかき分けてもそれは地面で、虫すらいない事に気が付く。

「マジでここどこ…?」

 眼鏡がない事で余計心細くなって泣きそうな私に、気配が近づいた。

「あらあら、手が汚れてしまうわよ?」

 地面から三ミリほど浮く素足に、てろてろとしたシーツみたいな素材を纏う脚から視線を上げれば、声の主がにっこりと美しく微笑み私を見下ろしているのが分かる。

 私の知る人種では西洋人が近いだろうが、しかしファンタジックな彼女はあまり彫りが深いわけでもない。

 そうだ、異世界系アニメの女神とやらではないのか。自分の知識が閃いた瞬間、女神(仮)は嬉しそうに笑った。

「ふふ、貴女を選んで正解だったわ」

(しかも思考を読まれるのか…)

「ええ、わたくし全知全能…とまではいかないけれど、大抵の事はできてしまうのよ」

 そう言いながら彼女が手を広げれば、そこにぽとりと林檎が空から落ちる。

 どうぞ、と差し出されたそれを黄泉竈食かなと考えれば死んではいないわよと付け足される。

「あの…、私が着てた服が何もないのは」

「申し訳ないけど、脱がせてもらったわ。やっぱり、違う文明の服を着てると怪しまれてしまうのよ…」

 それは異世界系アニメでも見た描写なので分かる、と肯けば満足そうに笑った彼女に、ちなみに羞恥心も一時的に鈍らせているからとも付け加えられて、自分の感覚がおかしくなっている原因があると安心して頷いてからやっと異世界風の服を与えられた。

 着せられた下着はまあ、異世界でもあまり変わらないらしい。そして一枚の布の上部(恐らく)に用意された穴に頭を通せば、自動で苦しくない程度に締まる。布を身体に巻き付けるのは女神自ずから手伝ってくれ、最終的にドレスとワンピースを足して割ったような感じになった。

「あの…、服は本当にありがとうございます。でも、眼鏡は…?」

「眼鏡?」

 これでよし、と満足していた女神はキョトンと首を傾げる。

「こちらに来る前にも掛けていたものなんですが…。あれ、大切なものなんです」

「あ、ああ〜…。そういえば、あったような…?あら、アレってそんなに大切なものだったの…?」

「ええ、あれで視力を補正するので…。今の私の視界は薄ぼやけています」

「まあ、それは大変ね…?」

 女神はピンと来ない様子で首を傾げる。


 まさか、この異世界の人種は視力が落ちないのだろうか。生まれた時から、あるいは事故や病気が原因で視界が閉ざされている人もいないのだろうか。

 どこか夢を見ているようにふわふわと異世界を受け入れていたが、目が悪い人間がいないという前提の世界で生きていくのかもしれないと考えた瞬間、ゾッと怖気が走った。

「本当にごめんなさいね…。貴女の眼鏡は足が悪い人のための杖だったのね?そんなものを奪ってしまうなんて…」

 異世界系アニメの女神とやらは人の理から外れている故に無邪気で罪悪感などないように描写される事が多いが、目の前の女神は長い睫毛を伏せ、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「その…、今から取りに行く?とかって…」

「できないわ…。 この世界の人達も視力は落ちるわ?でも、魔法で補正してしまうから器具は必要ないのよ」

「魔法…ではそれで」

「貴女が外に働きかける魔法を使う事はできるわ。でも、貴女自身に魔法を使ってしまったら拒絶反応が起こるかもしれないの」

 例えば、失明してしまう危険があるのだと悲しそうに揺れる青い瞳と目が合う。瞳の中で、キラキラと星のように光が瞬いてそれが零れて初めて涙だったと分かる。

「わたくし、貴女のような異世界の人をこちらの事情に巻き込む事にあまり罪悪感は覚えないようになっているの。でも、人から大切なものを奪うのは神の倫理に反するわ…」

 神の倫理とやらは、今までの生活から引き剥がすことを良しとするらしい。大切なものも、家族や友人ではなく、家族から贈られたぬいぐるみや友人と揃いのキーホルダーなど何か物理的に存在するものを指すのかもしれない。

 そこまで考えると、思考を読む女神はそっと私の手を取って何かを握らせる。

「初めて買ってもらった眼鏡…」

 私の眼鏡デビューは中学生に上がる時だった。

 まさに無邪気な子どもが選ぶようなポップな色合いのフレームのそれは新しいものに買い換えたあと眼鏡ケースに仕舞いっぱなしでレンズも嵌ったままだった。

「うわ、酔いそう…」

 当然中学生の頃から視力は更に落ちている。

 レンズを覗き込んでも無い方がマシと思えるくらい酷い視界でとても掛けていられなかったが、それでも眼鏡が手元にあるという安心感を漸く得た。

 それに、眼鏡がないというこの異世界で実物を持っている事はかなり助けになるだろう。発展した技術の恩恵を享受していただけの自分は眼鏡の詳細な素材や造りの説明などできないのだから。


「あ…、そういえば私はなんでこの世界に呼ばれたんですか?」

 ほんの少しだけ心の余裕ができると、そんな疑問も湧く。そのまま問えば、相変わらず薄ぼやけた姿の女神は小首を傾げて顎に指を添える。

「そうねぇ…。このご招待は貴女の世界の神とこちらの世界の神の和平のためのものだから、特別な事は求めてないわ。うちは安全なのでそちらの役立つ人間を連れてきてねって示すのよ」

「…なるほど、私は何らかの技術者だったり職人だったりを招く前座に当たるんですね」

 まあ、二十と少しを一般的な家庭でぬくぬくと育った私に授けられる特別な知識はないし、また、スポーツ分野で目覚しい活躍をしたこともないのだ。不平の抱きようはないだろう。

「私がこの異世界で幸せになる事こそ世界平和に繋がるなら、サポートも受けられるんですよね?」

「まあ、しっかりしたお嬢さんね。もちろんよ、住まいは何度も貴女達異世界の人を受け入れた実績のある村に用意するし、村人達は貴女をもし虐げたら凶作の時代が訪れるとも信じてるわ」

 信じさせているのもまた、この異世界の神である。

「お洋服もお金も持たせてあげられるわ。でも、大事なのは貴女がこの世界の一員として馴染んで幸せを得る事よ。お仕事をして、人と出逢って、貴女は貴女の世界の全てをゆっくり忘れていくの」

 お名前も捨ててね、と囁くように言われて初めて自分の名前を忘れた事に気付く。

 不都合な部分はぼやかされているのだと気付いて、それに抵抗できない事を悟る。

「…眼鏡が手に入ればもうそれでいいです」



 ――人間は、ものをよく見るときに半ば無意識的に眉根を寄せて目を眇める。

 新しく村に訪れて居酒屋の店員になった娘は、決して態度は悪くないのだが、いつも不機嫌そうな顔をしていて覚束無い足取りで叩き付けるようにジョッキや皿を置いていく。

 娘は益を齎す異世界人を喚ぶ前座とはいえ、異世界の知識を求めて狙う者がいないとも限らないという事で異世界から来た事も、行くあてがない事も知らない客達はあの店員はなんなんだと眉を顰める。悲しい事に、異世界から招かれた事を一応知っている居酒屋の主人とその妻も厄介な者が来たという認識だった。

(私だって、もう嫌だよ…。帰りたい…)

 帰る場所も異世界の神の力で忘れてしまったが、薄らと残る両親の記憶が娘の心を郷愁に駆らせた。

 薄ぼやけた視界で、薄ぼやけた姿達がそれでも娘を迷惑そうな顔で見ている事が伝わる。


 居酒屋の店内は丸テーブルを囲む形に席が幾つもあり、やや無作為に並ぶテーブルとテーブルの間に当然仕切りはない。

 娘にとってはテーブルの区別も付かない上に散らばる椅子を避けて歩く事も難しく料理や酒を運ぶ時は地雷原を歩くような心地だった。

 元いた異世界で酒が合法的に飲める年齢になってから二、三年を重ねたくらいの娘は酒を飲みなれていないのに客に無理やり飲まされる事もあった。

 居酒屋で働くのはもう嫌だと何度も思った。だが、働いて給金を貰わなければ生きていけない。

 娘がいずれこの世界に馴染むために最初から社会に放り込んだ異世界の神は、そもそも元いた異世界ではまだ学生の身分で少しのアルバイト経験しかなかった事は一切考慮していない。

 仕事の見つけ方を知らない娘は、更に視界が悪い事で見知らぬ土地を歩き回る恐怖に打ち勝てず椅子に足を引っかけて料理をぶちまけていた。

「なぁ嬢ちゃんよぉ、なんかアブないクスリでもやってんのかぁ?」

 酒臭い息で娘を揶揄う声が降ってくる。

 娘は元々勝ち気な性格ではない。黙ったままエプロンのポケットから雑巾を取り出して床を拭き始める。

 女神の話では、娘も魔法を使えるらしいがそれを試す時間も娘にはなかった。

 当然、眼鏡の相談をできる人物を探す時間と伝手も。


 娘が異世界に喚ばれて三ヶ月が過ぎた頃、とある噂が村に届いた。

「賢者様はメガネってやつをご所望なんだろ?」

「そうそう、歳食って目が悪くなったんだとさ。普通は魔力で補うもんなのに賢者様はそれが出来ねぇんだと。…どんだけ魔法使えてもここの飯食っても異世界のヒト様はどこまでも異世界のヒト様だよなぁ」

 嘲るというにはどこか呆れたような、諦めたような声音で男が言う。

 異世界人の感覚はきっと娘には一生分からない。

 ともかく、賢者の言う眼鏡がどういったものか分からず困っているらしいという情報を得て、娘は自身の持つ眼鏡を思い出した。


 娘が村に来て初めて買った物は、鍵のかかる小物入れだった。そこへ神から与えられた金銭と眼鏡をしまっていた。

 神の計らいで読める異世界の文字を、文章として理解するために人々の会話を細かく聞き取り、客の捨てた新聞を繰り返し読んだ。

『至急』『探す』『求む』『賢者』『メガネ』と見出しに並ぶ単語を拾って文章を構成する。

 『異世界から訪れし賢者様はメガネを所望す。メガネについて少しでも情報を持つ者は至急王城へ来られたし』というような内容だ。

 もう一度しっかりと小物入れに鍵をかけ、娘は王城へ向かう為に村を出る決意をした。

 世話になった礼をチラシの裏に書き、今まで貰った給金を神から与えられた分を足して全て置いた。……実は、娘の働きがよくないという理由で居酒屋の主人夫婦は満足な給金を与えていなかった。

 パンを二つ買えばもう自由な金はなくなる額だと、主人夫婦は分かっていて娘を働かせていた。職を与えているし、飢えさせているわけではないと神の目からギリギリ逃れられるだけのほんのお情けだったが、それでも安全に眠れる場所に置いてくれ、シャワーを浴びる事も許された事は大変ありがたかったと娘は感謝する。


 そして、主人夫婦や客達はきっと自分が居なくなってもむしろありがたいだろうと思いながら駅のある隣の村に小物入れ一つを抱えて歩いた。

 小物入れの鍵は、首から提げていてもし引っ張られた時を恐れて下着に縫い付けた。どちらにせよ、暴漢に襲われればお終いだが駅には観光で村に訪れたらしい貴族の姿もあって、彼らを意識してか治安は良いものだった。

 隣の村は娘がいた村よりも大きく、山に大きな滝があって人々はそこに宿ると伝えられる神にお目通り願うのだ。

 この異世界の人々は神道に近い感覚で神を信仰しているらしく、そこは日本人の感覚にも何となく合うので賢者として日本人が喚ばれる理由の一端なのだろう。きっと、神道以外の宗教の敬虔な信者なら日本人でも喚ばれないのかもしれない。

 偉大なる異世界の神が力をより分けたとされるそれぞれの地に根ざす神々は、一応それぞれ違う力を持つらしい。

「やっと神にお逢いできたんだ。きっと私達の息子は立派に育つさ…」

 貴族の男は、腹が膨らみ始めた妻を人通りから離れたベンチに座らせて肩を抱く。

 妊婦と水の流れは縁起が悪いようにも思えたが、どうやら逞しい滝の流れに乗せてしっかり産まれるように、清涼な水は羊水に、清涼な水を湛える湖は女性の胎になぞらえて赤ん坊が無事お腹の中で育つようにと願われるらしい。

 自分がいつかするだろう結婚も、その先の人生も想像した事のなかった娘は、どうやったらこの異世界に居着けるのだろうと途方に暮れた思いになる。

(…でも、まずは眼鏡だから)

 未だ視界は薄ぼやけていて一歩踏み出す度に恐ろしい。

 列車の形は元いた異世界のものと似ていたので、無事乗り込んで座席に座った。もしかしたら、列車の開発にいつかの賢者が携わったのかもしれない。


 村から王都までは本来とても遠い。だが、村には貴族が訪れるからと途中の駅で特別に魔法を用いて元いた異世界で言うところのワープをする。

 魔法を行使する列車は特別に高いが、事前に調べていた通りの金額を服の内ポケットから支払って問題なく娘は駅へ降り立った。

 人混みから離れて見渡せば、鎧を身に付けた警備の騎士が駅の出口付近に立っている。娘が近付けば、奇妙なものを見る顔をして何用だと問うた。

「…私、賢者様のお求めになるメガネを存じております」

「それは…、真だろうな。賢者様に関する事柄で嘘をつけば、如何な事情があろうと厳しい処罰からは逃れられないぞ」

 騎士は娘が幼い様子だから情けをかけようとしたのかもしれない。だが、娘は真ですと頷いた。

 寿命が長く、ゆっくりと年齢を重ねる異世界の人種基準で考えれば、十代後半から二十代前半程度の娘はまだほとんど子どもの部類だった。

 犯罪組織が攫ってきた子どもを捨て駒として育てる事例は王都でも問題になっていた。だが、今回の賢者様のメガネについては異世界の知識であるため犯罪組織も掴めていないはずだった。

 賢者の前座について知らない騎士は、いざという時は子どもだからきっと絵本か何かで知った賢者様に一目会ってみたかったのだろう、無邪気な嘘なれば無実だろうと庇う心づもりをして結局娘を王城まで連れて行く事とした。何れにせよ、王城で悪しき魔法を行使しようとした瞬間その者は爆ぜるのだからと。

 騎士は街で警らに当たる別の騎士を代わりに呼ぶと、馬車を借りて娘を乗せると自ら馬に跨って王城までの道を進んだ。


 ――王都はとても発展した街だった。

 賢者が齎した建築技術と元々あった建築技術が混ざり合ったのだろう、元いた異世界にどこか似ていてるようで、どこか違う不思議な街並みがカーテンの隙間から窺える。

 馬車にある窓にかかるカーテンを下ろしてからむやみに開けないようにと告げた騎士は、今は馬車を引いてくれている。

 言葉少なだが、騎士はとても優しい人に思える。相変わらず視界が悪く、馬車に乗る時にステップに足の甲をぶつけた私を見かねて魔法で手助けしてくれたのだ。それも、さらっとした感じで礼を言う私に憐憫を含めた声音で問題ないと言い、怪我はないかと気遣いをされてしまった。

 多分、騎士が思う私の目の見え方は重篤なものだろう。

 あっという間に王城へ着き、降りる時も乗る時同様手助けをしてくれ、掴まるといいと腕を差し出してくれた。

 きっとこの異世界の騎士道に則った行為であり、騎士にとっては特別扱いでもないだろうと思いつつも、自分を尊重されたのは初めてだと私の胸は躍っていた。


 騎士が王城に勤める騎士とやり取りをした後、豪華な部屋――恐らく応接室のようなものに連れて行かれ、勧められるまま椅子に座った。

 目の前の机に、メイド服を着た女性がカップや菓子の乗った皿を置く。

 入り口に立つ騎士を思わず見れば、ゆっくりと頷かれる。

 どうやら客人として扱ってもらえるらしい、作法など分からないが何とかカップを片手で持って紅茶を飲むと、豊潤な香りが口に広がる……と表現するのだろうと感じる。きっと元いた異世界では口にする機会のなかったとても高級な茶葉だ。

 ものの距離感が掴みづらいので、カップをソーサーに置く時にカチャン、と少し大きな音を立ててしまったが咎める声は飛んでこなかった。

 フォークなどが置かれなかったので、菓子をつまめば思ったより柔らかくて危うく潰しそうだった。

 手のひらサイズのシュークリームだと判断したそれを、もう一つつまむ。先ほどとは中身が違っていて、元いた異世界の梨に似ている味だと思いながら少しずつ菓子をつまんでいると、扉がノックされた。


 応対した騎士は、部屋に先ほど紅茶や菓子を置いたのとは違う女性を部屋に入れた。

「賢者様にお逢いする時は礼を尽くさなければならないが、きみは子どもだから簡単な挨拶が一つできればいい。…見せてやってくれ」

 騎士が言えば、どうやら先ほどの女性より上の役職らしい、より装飾の付いたメイド服の女性は頷いてからスカートの裾を片方つまんで膝を折る。

 椅子から立ち上がった私が、見よう見まねで膝を折るとよろしゅうございますと微笑んでくれた。

 メイド服やカーテシーも賢者が齎したものなのだろう。かつての賢者の姿をあちこちに見ながら呼ばれるまま騎士に着いて行けば、先ほどの部屋より更に贅を尽くされているのが素人にも分かるほど広く豪華な部屋に招かれた。


 賢者の私室らしく、これまでの沢山の賢者の気配の中を進めば老人がヘッドボードに凭れて座っていた。老人とは言っても、異世界の人種は体内に巡る魔力により老け込む事がないため、元いた世界の五十代から六十代くらいの容貌の男は人が訪れた気配に顔を上げる。

「おお…、きみがそうなんだね…」

 老人の濁った目は驚きに見開かれている。

 私のカーテシーと騎士の言葉のあと、震える手で招かれてそばに寄りベッドの横に置かれた椅子に座れば孫にするように優しく頭を撫でられた。

「神の手によってこの世界の人種に似せられていても分かるぞ…。きみが同郷の者だと…。そうか…、だからきみは眼鏡の事が分かると…」

 賢者が同郷と口にした事により、私を連れてきた騎士と部屋に控える騎士達は動揺を見せたが、すぐに気を引き締めるのも気配から伝わる。

「…私は、次の賢者様をお喚びするためにこの世界が平和である事を地球の神に伝える役割を仰せつかりました」

 だから賢者ではないのだ、とどちらかというと騎士に向けて伝える。

「そして、こちらに渡る際に一つ持ってきた物があります」

 それからそう言えば、大変だったね、と目を細めていた賢者がまさかと呟く。

 馬車の中で下着に鍵を縫い付けていた糸は切ってあった。それからずっと手に握っていた鍵で小物入れを解錠する。

 念の為、危険がない事を伝えるために開けるのはここまで連れてきてくれた騎士に任せた。

「…なるほど、これがメガネなのか」

 騎士が小物入れから慎重に取り出した眼鏡を掌に乗せて賢者に差し出す。

「ああ、これこそが眼鏡だ…。まさか実物という資料が手に入るとは…。きみの役割はきっと、これもあったのだろうよ」

 レンズに直接触れないよう気をつけながら賢者の手は眼鏡の輪郭を確かめて頻りに頷き、――それから、ハッと目を見開いた。

「もしかしてきみも…眼鏡を必要としているのではないかい?」

「…はい。今も賢者様がとてもお優しい顔をしていらっしゃる事くらいしか分かりません」

 それも、かなり近付いているからこそで。この薄暗い寝室では騎士が手を貸してくれていなければまともにここまで来られなかっただろう。

「なんて事だ…。さぞかし不安だったろう。きみのためにも早く眼鏡を作ってもらわなければ…」

「お気にかけて頂き、ありがとうございます…。私の持ってきたこの眼鏡がお役に立てれば光栄でございます」

 きっと彼こそが不安に感じているだろうと思いながら、その皺だらけの手に手を重ねた。


 賢者のための老眼鏡と、賢者の前座である娘のための眼鏡は制作に時間を要した。

 その間、娘は王城の客室で面倒を見られた。

 賢者と娘は祖父と孫のように親しくなり、異世界への郷愁を慰め合った。

「…私は、神に願われた通りにこちらで誰かと人生を共にしようと思った事もあるよ。だが…そうだね。恋をした人が結婚式を挙げた日にどうやら恋をする心も失ってしまったようでそれ以来親しい者もいなかったから…きみと出逢えて嬉しいんだ」

 賢者は特別な存在として祀りあげられる故に、個人の話をする相手は限られる。此度の賢者の寂しさを埋められるのは娘だけだった。

 二人の交流の間は、防音の魔法結界が張られ誰にも聞かれないよう配慮されていた。その魔法結界に、騎士がそっと足を踏み入れた。


 娘はこの城で初等教育を受け直しており、教室へ連れて行く騎士は娘を王城へ連れて来たのと同じ騎士だった。異世界からの来訪者を賢者の元へ導いた事で彼は陛下の覚え目出度く娘の護衛騎士の任を与えられていたのだ。

「…賢者様はお優しい方だが、それ故にあの方が安らげるひと時があるのかずっと気にかかっていたんだ」

 娘が年上の者に畏まられると戸惑うために、お互いの立場が確立された後も初めと同じ口調で騎士は話す。

「きみが賢者様の元へ現れてくれて良かった…そう思う」

「私の方こそ…。むしろ、私は自分のことばかりで…」

「きっと賢者様が考えたように、そう導かれる運命だっただけだ。…この世界の民ならば当たり前に与えられるものを、きみにも余すことなく受け取ってほしいと陛下もお考えだ」

 しょせんは賢者を招く前座に過ぎない存在だとずっと思っていたのに、賢者様や騎士は娘だけが持つ存在意義を教えてくれる。

 だからこそ、独り立ちをするために教育に励む。……視力の問題で文字を追うのが困難なため、ほとんど口頭でされた内容を復唱するものだったが。



 とうとう眼鏡が完成した頃、娘は異世界に来てから二つ年を重ねていたかもしれない。

 アセテートに近づけるために異世界のゴムに似た素材をベースに再現されたフレームは柔らかく、だが決して折れない。

 レンズは度を入れるのに大変に苦労したという。そもそもをどういう仕組みかよく分かっていなかったので魔法でどのように再現されたのかも全く分からない。

 ともかく、完成したそれを娘は恐る恐る掲げる。

「…見えます。ああ、あの花はほんのり黄色かったんですね…」

 庭に目をやれば、そこに植わっている低木が見える。くしゃっとした小さな花が、風に揺れた。

 ようやくハッキリ見えた沢山の顔ぶれはホッとしたように、どこか泣きそうに笑っていた。


 とうとう眼鏡を手にした娘はまず、久しぶりに視力を底上げされた事で驚く脳を慣らす所から始めた。

 騎士の髪がぼんやり認識していたより綺麗な銀髪だったので、今更異世界を意識したり。

 その内レンズが見えすぎてしまわない程度に補正をかけられるようになってからは筆記を中心に再び勉強に励んだ。

 元いた異世界の感覚では記号と思える文字をやっと書けるようになり、金銭の計算を覚え、陛下と賢者に新しく付けてもらった名前をすらすらと名乗れるようになり。

 いつまでも王城で世話になっていては自立できないし、いつまで経ってもこの世界に馴染んだと見なされないかもしれないと娘は結局最初に世話になった村に戻る事にした。


 ――居酒屋の主人夫婦は複雑な面持ちで今は異世界から招かれた、賢者の孫のような存在だと公に知らされている娘の頭頂部を見た。

 彼らが、神が招いた存在とはいえ見知らぬ娘に部屋と食事と風呂、そして職を与えた事はとても親切な事だったと王城の生活で成長した娘は深く考えられるようになっていた。

 給金の事も、働きに見合った額を与えられていただけだと今では思う。視力のついては伝えなかったのでやむにやまれぬ事情がある事すら分からなかったのだと。

 自分が、自分のことばかり考えている子どもだったと謝罪したあとご飯を食べて行ってくれと頼まれて食べさせてもらった居酒屋の料理はとても美味しかった。

 きちんと料理の代金を払って居酒屋を出たあと、娘は以前から家具や雑貨類を運び入れていた新しい家に入り、ベッドに寝転がった。

 魔法を用いた指紋認証と声紋認証と顔認証の三つの鍵が掛かる家は、王家から異世界の民への餞別だと無料で頂いてしまった。家賃は必要ないと、払おうとすれば元いた異世界での違法な寄附金と同じ扱いをされ罪人となるとまで言われてしまったので、せめてきちんと税金を納めるように誓った。


 この国の国民として認められるために、定住地を選び、職に就き、人付き合いをこなす日々を送るのだ。

 賢者と同郷の者だと公に知られてしまった今は居酒屋のような人の出入りが激しい店では働けない。

 明日からは隣の村にある貴族のリゾートマンションで洗濯婦として働く事になっていた。

 明日の予定を脳内で確認し、最後に思い出した歯磨きをするために王城で教えてもらった魔法を行使してコップに水を用意し、しっかり歯を磨いたあとは再びベッドに寝転がりそのまま眠りについた。



───────

 娘の朝は飼い猫が腹に乗る重みで始まる。

 元いた異世界の漫画作品の主人公と同じ蜜柑色の毛並みに美しい緑色の瞳の取り合わせの猫は、職場の庭に現れた野良猫だった。少なくとも村には地域猫の取り組みが存在しないらしく、扱いに困っていたのを自分は一人暮らしだしアレルギーもないからと引き取ったのだ。

 あの主人公のように喋りはしないがとても賢い猫は、娘が仕事で夕方まで家を空ける事に態度で理解を示し、可愛らしく鳴いて見送ってくれる。


 しっかりと三重の鍵が掛かっているのを確認してから駅までの道を歩く娘を追い越すのは、学び舎に通う子ども達だ。駆ける足を止めないまま飛んでくる挨拶に、微笑んで返す。

 列車に乗る時は、雇い主に貰った通行手形のようなものを見せる事で料金が雇い主に付く仕組みを有り難く利用して職場に向かう。

 貴族のリゾートマンションは元いた異世界の団地にも似ていて、但し貴族仕様の住棟は一つ一つが立派で中庭をCの字に囲む。住棟郡に左右を挟まれて建つビルの中には娯楽を楽しむフロアや食事やお酒を楽しむフロアなどがあり、豪華客船をも思い出させた。

 奥様方がお茶会を楽しむ広いお庭の端、陽当たりが良すぎてしまう一画に洗濯物は踊る。

「まあ、こうして見ているとお洗濯も気持ちいいものねぇ」

 日傘を差す従者を連れた奥様はふと、白いシーツの波に楽しそうに目を細める。

 美しい指先を包むグローブも、昨日洗濯婦が丁寧に洗ったのでレースに解れはなく真っ白だ。

 美しいものを身に纏う事が許される身分の貴婦人は、いつもありがとうねと頭を下げて立ち尽くしていた洗濯婦に声をかけるとゆったりとした足取りで去って行った。

 貴族達は基本的に平民を見下すほどではないが、あまりかまけるのも品のないことと定めているために声を掛ける事も少ない。

 気まぐれのように時折、自分達貴い立場の者のために働く者に感謝の言葉を告げるくらいで、決して優遇はしない。そんな距離感がいっそ気持ちがいいと娘は思っていた。

 美しいドレスを着てお茶会に招かれるなんて事はなく、ただ支給された白いブラウスと赤いスカートにエプロンを着けた姿で洗濯物を広げる。それが、自分の身の丈に合っていると。

「あら、可愛らしい兎さんね」

「ええ、つぶらな瞳が愛らしいわ。私も子どもの頃こういうぬいぐるみを持っていたのを思い出すの」

 職場の人間関係も程よいものだ。

 娘が元いた異世界でも平民に当たる身分だったと知ると砕けた口調で接してくれるようになったし、眼鏡についても自分達が覗き込んでもただの硝子にしか見えないレンズが娘が掛けると輪郭を歪めるのを見ると不思議そうに首を傾げつつ何となく大事な物だと理解してくれている。

 そんな同僚は、次はこれもよろしくねとハンカチの詰まった籠を机に置いて自分の作業に戻る。

 貴族の衣服は繰り返し洗濯をして何度も身に付けるという平民の価値観前提では作られていないため、洗うのは雑貨類やシーツが主だ。


 任せられたハンカチの枚数を確認したあと、引き続きとあるご令嬢愛しの兎のぬいぐるみをふわふわになるように魔法を用いながら丁寧に洗い、乾かしているとまさに持ち主のご令嬢がやって来た。

「ミミちゃんのこと、ちゃんと洗って下さったのでしょうね?」

 ついこの間までお転婆に駆けていたご令嬢は近いうちに弟が生まれて姉になるので、すっかりおすまし口調ながら、そわそわと兎のぬいぐるみを見ている。

 話す許可を出されていないため、代わりににっこり微笑んで頷いてから娘は恭しく差し出す。

「ふぅん…。とってもふわふわにしてくれたのね。…お礼を言うわ、ありがとう」

 嬉しそうに兎のぬいぐるみを抱いたご令嬢のお言葉のあと、彼女が許可を出す事を失念している事を把握しているメイドに目線で発言を許可されたため、やっと言葉を返すのだった。


 やはり人間、働きに感謝の言葉を貰うと嬉しいものだ。

 浮かれる思いのまま食材を買い込み、自宅の鍵を開けた娘は出迎えに来た飼い猫の愛らしさにますます表情を綻ばせる。

「…あれ、手紙?」

 そして、ダイニングテーブルの上に乗る紙の小鳥に首を傾げた。

 この家は王家に与えられたものなので、魔法の防御結界も王宮の人間の魔力は弾かない。その事で無防備に開いた手紙には、――娘の浮かれていた心を地に落とすような事が書いてあった。


 いつかの日のように王城へ向かう馬車の窓からは、変わらず美しい街並みが窺える。

 最早姿を隠す必要のなくなった娘の膝の上には籠があり、彼女の飼い猫が大人しく座っている。

 娘がこうして王城へ向かう事となった要因となる手紙の内容は賢者危篤の報せだった。

 今はまだ王城の一部の者にしか知られていないその事を伝えられた事実に娘は喜びと、複雑な感情で表情を暗くする。

(…でも、この世界で初めて心から人として慕った人の最期を看取れるのは幸いな事)

 これまでの賢者は若い内に必要な知識を齎したあとは賢者として敬われる事のない日々を求めて王城を離れていたので、此度の賢者のように終生を王城で過ごす賢者は初だった。


 此度の賢者は最期まで人々に自分の持つ何かを与えたいと、人と関わっていたいと望み、そうして同じ世界から来た娘と出逢った。

「私の命はきみが幸せになり、新たな賢者を喚ぶ手筈が整えば終わるものだ…」

 それは神の意志だから娘が気にする事はないと賢者は伝える。

 老眼鏡が完成した後の賢者は、若い頃に手にした本を惜しむように読み返し終えるとそれら全てをあらゆる人々に分け与えた。

「私はこの世界で幸せである事を約束します。賢者様の来世もきっと幸の多い人生である事を…」

 賢者から頂いた本を胸に、娘は微笑んだ。

 笑顔で送ってくれという賢者の最期の頼みを誰もが叶えようとし、その笑顔は涙混じりだが悲しいばかりのものではなかった。



「…きみはいま、幸せか」

 いつかのように娘を王城へ連れて来た騎士は問う。

「はい。…きっと、人生が終わる時に不足なかったと思うにはまだ足りませんが、それを満たすものがこの国にあると私は強く確信しています」

 元いた異世界を懐かしむ事はやはりあっても、今は帰れない遠い故郷だと胸の奥に眠っている。

 何より愛しい飼い猫を置いては何処へも行かないつもりだ。

 先ほどまで賢者の暖かな手に撫でられて心地良さそうに喉を鳴らしていた飼い猫は、今度は騎士がそっと伸ばした手に頭を寄せてひとつだけ鳴いた。

 明日も、その先も、娘の日々は続く。

 変わらない日常はいつか、誰かと出逢って少し変わるのかもしれない。それは誰にも……神々にすらも予測できない未来の話だった。

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