過去【3】
*
「ここは危険だ。離れないと」
マフラーの少年は散々泣きじゃくった私の手を掴み取り、そのまま手を引き倉庫の外へ出る。
私はこの時、初めて男子と手を繋いだ。小さい頃に父親と繋いだことはあるけれど、もう随分と昔の話。
彼の手は大きくて、そして暖かかった。彼の温もりは何よりも安心できて、そして落ち着くことが出来た。
私はこの時すでに彼に恋をしていた。
名も知らない、マフラーをした少年に。命という名前の通り、私の命を助けてくれた英雄に。
その後も私を連れ、祭りの開催されている公園付近まで戻してくれる。
その間彼は一言も、何も言わなかった。
おそらく私を落ち着かせるため、あえて何も言わなかったんだろう。
いわゆるクールタイムとかいうものだ。
関係ないけれど、手を引いてくれているのは彼なのに、私の歩幅に合わせ歩いてくれていたのが印象的。
遅すぎず早すぎず、完璧に私の歩速度に合わせて歩いてくれる。
その瞬間、私の胸元がキュウと締まるような感覚になる。
少年の優しさに再び涙が溢れるが、私は急いで目元の水滴を袖で拭う。
(絶対にダメ。こんなところで泣いちゃ……)
「あ、あの……いつから私が誘拐されてたことに気付いてたんですか?」
私は恐る恐る彼に尋ねる。
私がこの祭りにいたことを知っているということは、私が誘拐されたそのときにはすでにその事を知っていなくてはならない。
「ん? 気づいたのは数十分前だよ」
彼はそんなことを言い始める。
「っえ?」
「少し前、倉庫に怪しげな男達複数と君が連れられているのが見えたから。中に入ってみただけだよ」
てことは、倉庫の付近で初めて私を視認したということ?
でも、それじゃあ……。
「それじゃあどうして、元々私がこの祭りにいたことが分かったんですか?」
「匂いだよ。君からは甘い匂いがした。綿飴かリンゴ飴の香りだと思ってさ」
「……え? でも私、綿飴もリンゴ飴も食べてないですよ?」
「え……。まじで?」
彼はどうしてだろうと口にしながら、考え込んでいる様子だった。
なんで甘い香りがするのか、と。
「まあいいか。そんなことより君、両親は?」
「え、えっと、今日は一人で、その、祭りに来てて……」
「一人で? さすがにそれは危ないよ」
「そ、そうですかね……」
いつも夜の街を一人で出歩いているなんて、今更言えない。
「はあ……まあいいや。とにかく一人で行動するのはこれっきりにした方がいいよ。一応、君を守れるよう善処はするけど、絶対とは言えない」
「ま、守る?」
彼はなんの話をしているのだろう。
「あ、いや、なんでもない。今のは気にしないで……。はあ……」
大きなため息のあと私の手を再び引く。
「ど、どこに行くの?」
「とりあえずもっと倉庫側から離れよう。まだ奴らの仲間がうろついてるかもしれない」
「えっ!? 逃げないと!」
「いや、確実というわけじゃない。あくまで可能性の話だ。……というか、なんで君、あんな危ない奴らに追われてたんだ? 思い出したくないかもしれないけど、何か知ってることや奴らの会話、話してたことがあるならオレに教えてほしい」
どうして私があのような男達に追われる破目になったのか少しの間考えてみたけれど、何も浮かんでこない。
「う、うーん。ごめんなさい。正直わかりません。私は何も悪い事とかしてないし……あ、でも……そう言えば……私を誰かに渡せば一生遊んで暮らせる大金が手に入るって、そう言ってました」
「……え? 大金?」
「は、はい……」
私はゆっくりと頷く。
「そうか……。想像より現状は芳しくないな」
冷静で動じない彼にしては珍しいような深刻そうな表情をする。
「命ちゃん……これから先の人生、君は一人で行動するのを避けたほうがいい。真面目な話、誰かと行動を共にする癖をつけるべきだ」
「え、えっと……わかりました」
「すまない。素直に話すと君が何故狙われているのか皆目見当もつかない。でもだからこそ一人で行動するのは危ない」
「うん……確かにそうかもしれない。で、でも、それは私の問題。あなたがそんなに色々してくれる理由はない……ですよね? どうしてこんなにも私に優しくしてくれるんですか?」
「それは……」
彼がそこまで言った時のこと。
「とうくん、そこで何してるの?」
私たちが向き合って話している左側から唐突に女性の声が聞こえてくる。
私が声の聞こえた方を見ると20代くらいの黒髪ロングの女性が立っていた。
若い。けどそれ以上に美人。スタイルもいい。
脚が長く、女性としては勝ち目がないくらいに綺麗なスレンダー体型。背筋も真っ直ぐ伸びており真面目な雰囲気を持つ。
しかもすごい迫力だ。まるでモデルのよう。
この人は一体……?
「あ、杏姉……いいところに来た。っていうかその髪……下ろしたのか?」
「えーっと。確かに今は何もないから髪を下しているけど……それより、いいところに来たとはどういうこと?」
感情を露わにしない真顔で女性は彼に聞く。
きょう姉? ってことは彼のお姉さん?
だとしたら、かなり年差の離れた姉弟に見える。うーん。いや、そうでもないかな。わかんない。とにかく5歳は確実に離れているはず。
しかもすごい。綺麗で、それでいて鋭い声質の持ち主だ。
さらに近くに来れば来るほど分かる。身長も高い。170cmはあるだろう。
きょう姉さんと呼ばれた彼女は一体……何者なの?
するとマフラーの少年は私から手を離し、近づいてきた彼女に何かを耳打ちする。
「……へえ、なるほど。そんなことがあったの」
きょう姉と呼ばれた女性が一瞬私の方に視線を走らせる。
「ああ、対処を頼む」
二人ともひそひそと小声で対話している。
私が地獄耳を持っていなければ話声はおろか会話の内容すら聞くことは叶わなかっただろう。
「分かった。それについては連絡しておくわ。ただし一つ言っておくけど、私には彼女を守ることは出来ない……」
「分かってるよ、杏姉。それはオレがやるつもり。すでに仕込んである」
「あーそういうこと。だからこんなに呪詛の匂いが漂っているのね」
ジュソ……? なんのことだろう。
「そんなに匂うか? すまん。少し雑にやりすぎた」
「それはいいわ……。ただ呪印をつけたくらいでどうするつもりなの?」
まただ。またよく分からない単語。
……ジュイン? なんの話だろうか。
「しばらくの間はあれではったりになるはずだ。奴らも馬鹿じゃないからすぐに襲ってくることはないだろうが、問題はその後だな」
「それはそうね……」
「だが……もうやることは決めてある。あとはオレが命を守る」
「へー……意外ね。随分とあの子に肩入れするのね」
えっ……。今聞こえた。はっきり聞こえた。
彼が私を守るって、そう言ってくれた。
言ってくれたよね。
ジュースだかなんだか、よく分からない単語ばかり話していたけど、私を守ってくれるというその言葉だけは私の海馬にしっかりと刻まれた。
「ああ、あの子はどこかオレと似てるからな。ほっとけないんだよ」
その言葉を受け、お姉さんは再び私を見る。
「とうくんと似てる? 彼女が? ……そうかしら?」
私は目線をそらしたが、そのあともしばらく視線を感じたため、お姉さんが私を見ているのが分かった。
「そのとうくんって呼び方、やめてくれって言ったのに」
「あら、悪かったわね」
「うん、まあ別にいいけど。たださ、外で呼ばれるのは流石に恥ずかしい」
「うーん、じゃあしょうがないからとうくん呼びはやめるわ」
「ああ、そうしてくれ。てか……関係ないけどその髪、似合ってるな。オレ、長い髪が好きだからさ」
そう言いながらお姉さんの腰まで伸びている黒髪を指差す。
確かに、髪が長い。明らかにロングヘアだった。
腰まで伸ばすなんて相当時間がかかったはず。
「ほんと? じゃあ一生これにしようかしら」
そう言いつつ彼女は自分の長い髪に触れる。
「まじで言ってるのか?」
「ええ。だって似合ってるって褒めてくれたし」
まるでデキたてほやほやのカップルみたいな会話をする姉弟だな。そう思った。
二人の世界が形成されている。
姉と弟。二人だけの世界。
あたかも恋人同士みたいに回り全体がオーラで包まれているかのよう。
仲いいんだろうな。羨ましいな。
純粋にそう思った。
私の胸元が騒がしくなり、締め付けられたように苦しい。
昔の私はこの感情が何かを知らなかった。
のちにこれは嫉妬と呼ばれる感情だと知ったのだけれどね。
へぇ、彼は長い髪が好き。
そう……長い髪が、ね。
私はお姉さんの腰付近まで伸びた長い髪に視線をずらす。
なるほど、私とは真逆だ。
私の髪は短い。いわゆるボブヘアというもの。
――――――――決めた。
髪を伸ばそう。
大変かもしれない。途中で切りたくなるかもしれない。
それでも私はこの時髪を伸ばすと、そう決めた。
私、バカみたいだな。勝手に好きになって勝手に彼の好みに合わせようとか……。
まぁいいか。もういいや。
もう私、彼以外の男の子はどっちみち考えられないし。
この考えは三年経った今も変わることはなかった。
すごいと思うよ、私。こんな一途だったなんて。
三年間も同じ人を好きでいるなんて。それも再会できるかも分からないような人を。
でもダメだなー。
ダメダメだ。
もう私はこんなにも彼に惚れてしまった。
大好きで仕方ない。
彼と過ごすたび、この想いだけが頭を奪っていく。
一緒に生活すればするほど、彼が恋しくなっていく。
どうしようもなく好きというこの想いが膨れあがっていく。
どうしたらいいの。
もう好きで頭がおかしくなりそう。
頭が良くて、誰にも負けないくらい強くて、優しくて、守ってくれる。そして誰よりもかっこいい私の英雄。
責任取ってほしいよ、統也くん。こんなに私の心を占有していくあなたに。
彼と再会するまで、過去、恋を楽しむ女の子の友達にもよく嫉妬した。
統也くんがいなくて不安に感じる時もあった。
彼がいなくて寂しい夜もあった。
三年間、彼に会うまでの間どれだけの負の感情を抱いたことか。
でもなぜだろう、どんな時でもいつも彼が近くにいる気がした。
その感覚が私の負の感情を和らげる。
そんなとき私は気づくと決まって首の後ろを触っていた。意図せず触れているのだ。
でもそうすると、薪に火が付いたように急に安心する。心が安らぐ。
本当に不思議な感覚。
もし私が彼と付き合ったら。この安らぎが、絶対的安心感が常にそばにあるのだろうか。
そんなことになれば、私は快楽の渦に溺れるだろう。
それくらい彼が好きで好きでたまらない。
うん。変わらない。
私は彼にすべてを捧げよう。
彼は私を救ってくれた英雄なのだから。
呪印
……マナを持つ一部の者のみが使える刻印式。通常体に埋め込んだり、物体に付与したりする。呪印は刻印者(印を付けた者)の一定のマナを内包しており、その印を付けられた者や物はどんな遠くへ離れようが感知できる。ただのマーキング作用。呪印は刻印者以外からは視認できないが、マナの気配や呪いの匂いなどは他人でも感知できる。
呪詛
……呪印と同様、他人には視認できないマーキングの一つだが、回転式の歯車のような刻印がほとんど。呪印も呪詛の一種。また、呪詛は異能を一時的に封じるものやマナを溜めておく貯蔵庫、殺意に反応する検知型など、多種多様でとても汎用性が高い。ただしマーキング性能だけなら呪印の方が高水準。




