勝負
*
5月23日(月) 午前7時56分。
オレは定期券を利用することで駅の改札を抜ける。
「あれ、統也くん……。マフラーは?」
地下鉄の改札奥に設置されているベンチに座っていた森嶋命が立ち上がりながら、モデルのような所作でオレの顔を覗き込む。
モデルのような、と直感的には言ったが、科学的な観察論ではただ命の長い髪が揺れただけなのかもしれない。
そしてその腰辺りまでスッと真っ直ぐ伸びている黒髪からは相変わらず謎のいい匂いがする。
彼女はゆるやかで落ち着いたような目をしていて形は美しいという字そのもの。まるで女優のよう。
加えてバランスの整った鼻と、適度なふくらみを持った柔らかそうな唇。
顔だけじゃない。
あまりジロジロと見るわけにはいかないが、彼女の紺の制服スカートから伸びている二本の白くて滑らかな曲線を描く脚は、スタイルが良いことをそのまま象徴している。
歌手の仕事に手を付けていると聞いたが、この容姿ならそのことにも納得がいく。
改めてそう思った。
「あー、マフラーは……」
3日前の金曜、里緒と共に討伐依頼を受けていたとき、彼女を助けるため咄嗟に影目掛けて投げたマフラーだったが、そのまま拾う機会を得ず撤退してしまった。
紺色無地というシンプルで素朴なデザインだったが、オレ的にはかなり気に入っていたものだった。
だが今更あの場に取りに行くわけにもいかず……。
かといって土日で新しいマフラーを買いに行く暇もなく……。
予期せぬCSSの出現を楓さんに知らせるため、異能士協会札幌本部施設・九神塔に出向いたり、楓さんが再発見したという偽造報告書を作成したりで、新しいマフラーを買いに出る時間が取れなかった。
(今日の放課後あたり、新しいのを買いに行くか)
「さすがに暑くて外したんでしょ」
8時に一緒に登校する日課なため、木下栞もいつも通り合流する。
確かに栞の言う通り、季節はもう初夏と言っていい。
が、外気が暑くても体は冷えるのでオレには関係のないことだった。
「いや、そういうわけじゃないんだが……。さすがに北海道でも、ある程度気温は上がるんだな」
てっきり年がら年中寒いのかと。
まあ、そんなつまらない冗談は置いておくとして。
青の境界の内側……すなわちIWでは地球温暖化が急速に進んでいた。
原因は、その「巨大な境界」に囲まれていることで、気流や全湿度、海流に温度ポテンシャル、顕熱、潜熱などといった気温を左右させる要因を複数変動させてしまったことにあった。
元々近年、境界が設立される以前からこの地球温暖化問題は激しく論争の的になり、有害視されてきた。
だが青の境界(EDBS)が設立されてから、その温暖化はさらに加速の一途をたどっているらしい。
世界気象機関(WMO)の開示情報によれば、世界全体の平均気温は僅か三年で推定「3℃」上昇したと考えられている。
一昔前ならば、こんな情報は衛星熱源カメラやサーモグラフィカルセンサーから観測できた。だが今は人工衛星の厳格な規制によりそう簡単にはいかなくなったと言える。
「それはねー。さすがにもう少しすれば暖かい気温になるでしょ。うちも北海道出身じゃないから詳しくは分からんけど」
こうして見ると栞と命の二人が香の言う校内三大美女(?)……であることに納得がいく。
とりわけ女性的魅力に関して言えば、栞も命には負けていないことがよく分かる。
全体的に若干カールしている髪は後ろでポニーテール状に結ばれていて、女子の群れた中にいても後ろ姿ですぐに栞だと認識できる。
また、眼鏡をかけているにもかかわらず、大きく見える冴え冴えとした目は多くの男子が虜になるものだろう。
これはオレだけの視点だろうが、バスケをしていると分かる引き締まった体も彼女の魅力の一つかもしれない。
「というか、香はどうしたんだ?」
駅前からの徒歩距離は基本的に四人で登校する(今は香がいない+栞はたまにバスケ部の朝練)のが習慣になっているため、オレはそう聞いてみる。
「なんか少し遅れるみたいだよ」
命が控えめに教えてくれた。
「そうか」
「あいつはいつものことでしょ。なんだかんだで、時間通りに来る日が週に3回あればいい方よ」
確かにそれは言えている。結構な頻度でギリギリ登校をしてくる。
四人で登校するはずが、結局ほとんど毎日、女子二人に囲まれて男一人で登校しなければならなくなる。
しかも学校屈指の美人に。
別に不快という領域まで嫌な気はしないが、正直女子は里緒と茜で間に合っている。お腹一杯という表現が的を射ているかもしれない。
里緒もこの二人に負けないくらいの美人だし、茜も心を落ち着かせるような澄んだ声音の持ち主。
会ったこともないので茜の容姿は知るわけもないが、里緒の場合は週に何回も会うので当然知っている。
均整のとれた手足。華奢だがしっかとした体。触れたいという衝動に駆られてしまうほどの滑らかな肌。クールな目付きにマッチした睫毛。
里緒のそれらすべてが「かわいい」や「きれい」たる要素の欠片といえる。
「そんなことより、今日の体育さ、なんか合同らしいよ?」
栞に「そんなことより」って言われてるぞ、香。
嫌だったら、早く来い。
「え、そうなの? どことどこが組むのかな」
命も微かに興味を持ったようだ。
「うちのクラスと、とーやのクラスがでしょ。先生、そう言ってたけど。あーでもなんか他の2クラスも入ってくるだとかなんとか」
今日の昼にある体育の授業は、どうやら栞のクラスとオレのクラス+他の2クラスが合同で行うようだ。
「えっ……」
命が放心状態で目を丸くする。
彼女は、そんなにも香のクラスと組むことに緊張してしまうのだろうか。
どうやらここから察するに、香と命の二人は両想いということらしい。
周りから恋愛に疎いと言われているオレでも分かってしまった。
良かったな、香。
そんなことを考えていると、呆けた表情の命を見て、栞が何かを企んだような顔つきをする。
「ははーん。だいじょーぶ! 任せておきなって!」
「ちょっと、栞? 全然大丈夫じゃないよ。何もしなくていいからね?」
命が珍しく焦った様子で栞に念を押す。
「えー。んー、どうしよっかなー♪」
栞は誰よりも楽しそうだ。
どうやら会話的に、香と命をカップリングする作戦を企てているらしい。
オレが左で歩いている栞に耳打ちする。
「体育のとき、香をそっちに行かせればいいのか?」
オレも手伝おうと思い、そう言ってみたが……。
なぜか栞が白けたような、そしてテンションを下げたような顔をする。
まるで嫌いな食べ物を食べているときの顔だ。
「はあ……なんで香が出てくるの?」
栞も命に聞こえないような小さな声で囁いてきた。
「いや、香と命をくっつけるんだろう?」
オレが言うと、数秒間沈黙した後、栞が口を開く。
「はあー。これだから男は……」
呆れたようにそう言われてしまうが、どういうことだ?
(オレは何か間違えたのか?)
「ね、ねえ。二人で隠れて何を話してるの? 私にも教えてよ」
オレと栞がコソコソ小声で話していることが気になったのか命がそう言ってくる。
その際の命の不安そうな表情がとても綺麗で、すべてが可愛らしく見える。
「だーめ。教えない」
悪戯っぽく微笑みながらポニーテールの結ばれた髪を手の甲で払う。
栞、随分と意地の悪そうな言い方するな。
「ねー、どーして? 二人して絶対良くないこと話してたでしょ」
命はそう言いながらいじけたように軽く両頬をふくらませる。
狙ってやってるわけじゃないんだろうが、オレではない他の男子が見たら多分イチコロだろうな。
「いや、別に? そんなことないよね?」
栞が何食わぬ顔で聞いてくる。
いや、オレに振るなよ。
「そう言われても……。結構真面目に咀嚼しようとしたが、栞が言ってることの趣旨が分からなくてな。正直、何の話かも理解できなかった」
これは事実だ。
実は栞が話していることの意味をオレは理解できていなかった。
「ほんとに? でも、やっぱり何か話してたんだよね」
命はそう言いつつも、いじけた表情を継続中だ。
「んーまあ話してたけど、とーやが想像以上のニブチンだと分かっただけ」
やれやれとでも言いそうな雰囲気だ。
「統也くんが……ニブチン……? それって鈍いってことよね? でも何に対して?」
「あーダメだ。みこまで……。ニブチンに囲まれて、うちまでニブチンになりそう……」
栞は困ったというように頭を抱える。
みこ、というのは命の愛称だ。結構前からそう呼ばれてことは知っていた。
「言っておくがオレはかなり敏感なほうだぞ?」
「それ、どの口が言ってるのさー」
そう言われてしまうが、本当にオレはお世辞にも鈍いとは言い難い。
それが恋愛のことになるとそうとは言えないかもしれないが。
「いや本当に結構過敏な方なんだ」
「……過敏って言ってるけど、その過敏とうちの言ってる敏感は別物だからね? わかる?」
「そうなのか? すまん。わからん」
同じじゃないのか。
「異能」と「世間」
……異能は世界一般情報としては開示されておらず、世間では「隠されていた戦闘技術」とし、その具体性を隠蔽しつつ公開している。
つまり世間的には、影人を抑制するために何かしらの手段を用いて一時的に影人を退けた、ということになっている。
異能の存在を知る人間は、政府の一部「影人対策本部」と「異能士協会」、そして異能士や紫紺石鑑定士、代行者(別名:異能士協会暗部)、境界部隊員(または異界術士)のみとなってる(他にもCIAやFBI、公安局影人対策課.etc)。




