石化の魔女【2】
*
『件名:急報です』
『名瀬さん。聖境教会、十二柱の一角(暗部「スリッド」の首脳陣)が動き出したようです。本腰という感じではないのでそこは警戒しなくても良いのですが、何かの前兆かもしれないので……一応』
そんな割石雪乃からのメールを確認し、すぐに画面を消す。
「『スリッド』? 聖境の最高司祭・邦光がやたらと円滑に動けていることは知っていたが……この暗部の恩恵か」
だが妙だな。切れ目や隙間を意味する英語は「slit」。「slid」なんて名詞はない。
ならば、全体に濁点―――「スリット」゛ということか?
と、するなら「スリット(切れ目)に点々(縫い目)を付ける」といったところか。
連想されるイメージは……縫い合わせた傷跡。
スリット、つまり切れ目は何かが裂かれた痕。そこに点々、すなわち縫い目が加わることで、「裂かれたものを無理やり繋ぎ止めた痕跡」、もしくは「傷を塞いだ跡」を意味するのではないか。
要するにスリッドは、もともと「何かが壊れていた」「断絶していた」者たち。
しかし教会によって"縫い直され"、裏の道具として再構築された存在。
―――そんなところか。
二時ちょっと過ぎ。藍野は帰宅し、オレは同じカフェで不機嫌気味の水瀬姫奈と合流した。
寒色系の私服(襟付きニットトップスに、ジャガード素材のフレアスカート)を纏い、いつもと変わらないワンサイドアップの髪型をしていた。
「名瀬統也。なに、用事って」
「そんな不服そうな顔をするな。おまえの心理状態、人間性を知っておきたい。今日はそのための良い機会だと考えている」
一部本音を混ぜ、様子を見る。
しかし姫奈は何を思ったかカフェの外を眺めた。
「さっきの女、誰? どうみても一般人に見えたけど?」
「なんのことだ」
少し遊んでみるも睨まれる。
「ふざけてんの。さっきの、あんたとテーブル囲ってた女のこと」
「生憎と知らないな」
「あっそ。試してるのかなんなのか知らないけど、もういいや。で、休日に呼び出して何かと思えば、あんたとデートしろって?」
デートというワードを聞き、一瞬鋭いのか?と考えたが、表情からただの皮肉だと分かった。
「好きに解釈しろ」
「何さそれ。どういうつもり?」
彼女は眉をひそめ視線をこちらに戻す。
「ずいぶん暇なんだね。名瀬家当主代理も」
「その言い方はやめてくれないか。地主だと周りに注目される」
「なら、名瀬統也」
「フルネームはもっとやめろ。立派な個人情報だぞ」
「それは無理な相談。私は人を呼ぶときフルネームで敬意を払うと決めてるからね」
「絶対に嘘だな」
敬意どころか揶揄を払っているだろう。
「なに、私を嘘つき呼ばわりするってわけ?」
ちなみに今日彼女を呼んだのは先程本人に説明した理由だけではない。
明日の茜とのデートの予行演習、あるいは現地の下見も兼ねている。
デートは大切だ。お互いのことをより深く知ることで、交際を深めることができる。
事前に立てられた計画・デートプラン。事前に計画したデートの道筋・デートコース。デートをする際に適しているとされる場所・デートスポット。
初デートは特に、すべてに配慮すべきだとオレは考えている。
「結局行くのか、行かないのか。どっちだ」
すぐに認めるのは癪なのかしばらく返事を滞らせたあと、たっぷりと時間を使い答える。
「奢りなら」
「なるほど。杏子の側近では稼げなかったか」
「そんなことないし……!」
「貧乏なら仕方ない。当主代理のオレが奮発してやろう」
「だから違うって!」
むっとしてそっぽを向く。何故か最近はそっぽを向く女性が多いな、とどうでもいいことが頭をよぎった。
まあ冗談も含まれているが、実際、姫奈と二人で過ごす時間を増やす努力はしている。
これには二つほどの意図があるのだが……。
「もういいよこのカフェ。違うとこ行こ、違うとこ」
「なんだ、意外と行く気満々だな」
「うっさい!」
などと軽口を受けながらも勘定を済ませ、この場を後にした。
*
午後三時。オレたちはバイク二人乗りで移動して、純白の恋パークの正門をくぐった。
オレが茜とのデートスポットとして選んだのは、この「純白の恋パーク」。北海道の人気お土産「純白の恋」で有名な製菓会社が運営するお菓子のテーマパークだ。
ここでは、純白の恋の製造ライン見学やお菓子作り体験、チョコレートの歴史を学ぶことができる多彩なアクティビティが用意されている。また、季節の花々が楽しめる美しいガーデンもあり、家族連れやカップル、友人同士で楽しめる観光スポットとして人気だ。
「えぇー……ここなの?」
『甘い体験、甘い思い出』と書かれた看板。目の前のメルヘンな装飾と、観光客の列に眉をひそめた姫奈が、まるで騙されたような顔をする。
花壇には色とりどりの花が並び、チョコレートの香りがふんわりと鼻をくすぐった。
いかにも"映え"を狙ったような建物の前で立ち止まる姫奈をよそに、オレは淡々と入場チケットを提示する。
「こういう場所、嫌いか」
「嫌いではないけど、子ども向けすぎるっていうか……よくこんなとこ選んだね。意外とポップ志向?」
「カップルや家族にも人気なんだぞ、ここ。場を読む訓練になるし、気楽な環境のほうが本音も出る。何より、甘いものは悪くない」
その一言で、姫奈が怪訝そうにこちらを見た。
「どんな訓練さそれ……てか、名瀬統也って甘党なの?」
「特に嫌いではない」
「うっそ。絶対甘党だこれ」
オレたちは、そのまま敷地内へと足を踏み入れた。
ガイドツアー、クッキー作り体験、マスコットキャラとの写真撮影――それらはすべて、さして重要ではない。
イベントは形だけでいい。肝心なのは、その過程で姫奈の心がどう動くかだ。
ひととおり園内を巡ったあと、カフェスペースに腰を下ろした。午後の時間帯もあって、混雑は落ち着いていた。窓際の席からは庭園が見える。
テーブルにはチョコレートケーキ、イチゴのタルト、ソフトクリーム。運ばれてきたそれらのスイーツに、姫奈が驚く。
「ねえ、それ……全部、名瀬統也の?」
「ああ。糖分は思考と演算を整える」
「やっぱ甘党じゃん。ほんとはこれが目的なんじゃ……」
やれやれといった様子で姫奈は一つのマカロンを手にとり、口元に持っていく。
すると姫奈の頬がわずかに緩む。心なしか表情がさっきより柔らかくなった気がする。
「正直驚いたわー。あんたもっと無味乾燥な舌してるかと思った」
「人を何だと思ってる」
「暗殺マシーン」
「酷い言い草だな」
「間違ってないでしょ」
「一ミリもかすってないな」
「あっそ」
そんな会話の合間。ふと、姫奈の視線が横の三人組に流れた。
男二人に女一人という組み合わせのグループに、吸い込まれるように見入っていた。
何かを思い出すように。思い返すように。
記憶の蓋は意外と簡単に開く。テストや入試のとき、ふとしたことで公式や単語を思い出した経験を、大勢が持っているだろう。それと同じ。
特に、似たような経験、見たような景色、聞いたようなリズム、懐かしいような味。それらが記憶の蓋をもっとも開けやすいことが現代の脳科学でも知られている。記憶喪失の人間の記憶を取り戻すため、思い出の場所に連れて行ったりするのは有名。
姫奈のマカロンを持った手が止まり、その指先にわずかに力がこもっている。
「……ねえ」
その声は、さっきまでの軽口とは違っていた。
まっすぐに見られることを避けるように、彼女は視線をテーブルの縁に落としたまま言う。
「あんたこうやって普通の生活もできるんでしょ? 普通に楽しんで、普通に退屈して、普通にくだらないことして……普通に……普通に生きれる。そうでしょ?」
オレはそれを黙って聞いた。
「だったら、なんで……。なんで私の同期二人を……斬ったの」
空気が少しだけ冷えたように感じた。だがオレは顔色一つ変えずに答える。
「任務の一環だった。と言ってもおまえは納得しないだろうな。だがオレにとってあの状況は感情を挟む余地もない。言ったろ。生きるか死ぬかって時に猶予を与えられるほど、オレの人間性はできてない」
方便ではなく本当にただそれだけのことだ。
「あなたほど強くて……あなたほど人の痛みを理解できる人がどうして……どうしても幸太郎と龍也を殺さないと駄目だったの……?」
乙女のような問い。いや、願いか。
あんたから、あなたへ。それは相手を突っぱねるタイプの姫奈から表れた細やかな無為の変化だろう。
「おまえなら分かているはずだ。あの条件で唯一オレへ攻撃を仕掛けなかった、おまえなら」
はっとなってこちらを見る姫奈。彼女の瞳が潤んでいることは指摘しない。
「そう、おまえは唯一オレへ殺意を向けなかった」
「なに! あの場にいた私だけが利口だったって言いたいわけ……!?」
「そうだ。オレが杏子に勝つことが分かっていたから。全力を出してもオレに敵わないと分かっていたから、おまえだけは全てを諦め、あの場で脱力してたんじゃないのか」
結果だけ見れば、真っ暗な未来を確信し絶望した非力な存在だ。
だが、東瀬幸太郎、永瀬龍也には見えなかったものが姫奈だけには見えていた。
あの先が、見えていた。だから絶望できた。
失礼かもしれないが、その感性と判断力はオレの目には優れた才能として映る。
「この世界は悪意で満ちている。善意なんてものは、手のひらの上に乗るほどの小さな奇跡だ。偉い人間が『正義』だと言えば、それが『正義』になる―――たとえ悪でもな。それがこの腐った世界の歪みだ。その口から放たれる言葉に、重みなんてない。それでも下々はその言葉に膝をつく」
オレは語りながら、何故か自分がこの世界に足を踏み入れる瞬間を思い出していた。
「だがおまえは違った。最も信頼された側近でありながら、名瀬杏子という『絶対』に一歩踏み出そうとした。流れに抗うのはけして簡単じゃない。覚悟の証明と言える。だからこそ―――オレはおまえを尊敬している」
すると馬鹿にされたと思ったのか、姫奈は鼻を鳴らす。
「あんたが私を尊敬? んなバカな。冗談やめてよね。面白くもないし」
「本当だ。オレはおまえの能力や、的確かつ冷静な判断も評価している」
「そう……すみませんね」
薄い藍色の瞳が揺れている。
「何がだ?」
「気を遣わせたならごめんって謝ってやってんの」
「おまえをここまで追い込んだのは紛れもないオレだ。謝るのはこちらの方だが、恨んでないのか」
「……恨む?」
彼女の唇が震えていた。
けれどそれは怒りではなく、迷いに近いのだろうと分かる。
「……あんたを? それとも自分自身を?」
彼女の目が一瞬こちらを見た。だがすぐに逸らされる。
そう、彼女はオレを恨んでいるような態度を取っているが、実際は違う。心理の深層に隠れる彼女の本音は、根強く残る罪悪感に相違ない。
「自分を許せる最良の人は自分。他でもない、杏子がそう言ってた」
人間なんてのは、生まれながらにして、どこか自分を許せない生き物だと。
劣等感。容姿。性格。あるいは過去の嘘や弱さ。
形は違えど、誰もが心のどこかで、自分を責めながら生きている。
「杏子さんが……?」
「罪悪感とは当人が勝手に抱いている意識にすぎない。許すか許さないかは自分次第。許せるのは他人ではなく、自分だけ。彼女はそう残しこの世を去った」
静かな口調を心掛けると、その言葉は彼女の胸に届いた―――かは分からないが姫奈は肩を小さく揺らし、俯いたまま息をついた。
「彼女が彼女を許しても……それでも、私は自分とあんたを許せないよ。私が名瀬統也の立場にいたら、きっとあんなことはしない。……でも、あんたはした。それも躊躇なくね。もうあんな体験はごめん」
彼女は今、感情の発散先を手探りで探している。
しかしその対象は何でも、誰でもいいわけではない。
「なら、阻止すればいい。次はおまえが全力で守れ」
一種の破壊衝動。ストレスの発散。でもそれでは何一つ解決しない。
何も、その感情を理性で抑えろとは言わない。
「……守るって、誰を? 何を?」
「自分自身を。おまえが繋ぐ未来を。そして出来るならオレを。全力で」
「なんで私があんたを守んなきゃいけないのさ」
「オレがおまえを守るからだ。等価交換。おまえもオレを守れ」
「バカみたい」
姫奈は小さく鼻で笑った。
「自分のことだけ守らせて、すっぽかすかもよ、私」
「そうだな」
その視線はオレを試しているような色を含んでいた。
「こんな私を信用できる?」
が、オレは即答する。
「できるさ。おまえは自分が思ってるよりも正しい。オレが現れたあの瞬間、おまえは躊躇した。それが―――答えなんじゃないのか。自分でも分かってるんだろ。本当はどうすべきで、何がしたいのか」
すると緊張状態だった視線はふっと緩み、敗北宣言を呈した。
「……あんた、なんでいつもそんなに冷静なの」
「冷静でいなきゃ、東瀬さんと永瀬龍也の命を背負えないだろ。単にそれだけだ」
「名前……覚えてたの……?」
何を驚いているのか分からないが、時が止まったように目を見開いている。
「覚えてるも何も、オレの家の従者だ。知らないわけないだろ」
チョコレートケーキのフォークを持ちながら、そう言うオレの言葉に、姫奈はしばらく黙っていた。
それでも。
「なるほど。あのとき、あなたの勝ちを願った時点で、私の道は決まってたってわけね」
それでも。彼女はもう、目を逸らしてはいなかった。
*
罪の意識に縛られ前を見られなかった少女が、少なくとも今はオレの話を真っ直ぐ受け止め、前を見ている。
「杏子さん……去年の三月ごろから様子がおかしかったんだよね」
「え?」
唐突な言葉に、思わず息を呑む。
姫奈は少し目を伏せると、どこか遠くを見るような眼差しで、ぽつりと続けた。
「まるで何かに取り憑かれたみたいに言動が荒れて、あの人らしくなかった。そんな毎日が続いた。それに口癖のように言ってた。『すべてを投げ出してしまいたい』って……。あと、急にお酒を飲むようになった。それも大量にね」
「彼女は甘党だ。酒はめったに飲まない」
「うん……だからこそ、ずっと引っかかってて」
その言葉に、オレは一瞬思考を止め記憶を手繰った。
そして、ある時期を境に断絶している彼女の変化に気づき、思わず口にする。
「つまり、そのときか」
姫奈が目を丸くし、首をかしげる。けれど、その瞳に何かがよぎった瞬間すぐに声を上げた。
「……そのときって、まさか―――!」
「ああ。間違いない」
静かに頷きながら、オレは頭の中で点と点を繋いでいく。
「去年の三月。彼女は一時的にこの国を離れた。目的はシベリア。夏まで続いた大規模なシベリア遠征―――セシリア・ホワイトが『影人の秘密があるかもしれない』と声明を出したことで、国際異能士協会本部が動いた」
シベリアだ。彼女はそこで、何かを見た。
否、"見せられた"と表現したほうが正確かもしれない。
そしてその光景が、彼女の信念を根本から塗り替えた。
かつて杏子は、オレや紅葉と同じく「インナー滅亡」ではなく、「自然影人化の原因解明と対策」に尽力していた。
穏健的な諜報潜入官として、情報収集・諜報活動を何よりの使命としていたはずだ。
だが、シベリア遠征を境に、思想が変わった。
影人細胞の移植、つまりドーピングに手を出し始めたのも、おそらくこの頃だろう。
ちょうどオレがこの世界に派遣されたタイミングと重なる。
……いや、待て。
オレは思い出す。
ダークテリトリー進行中、杏子は突然、オレを暗殺しようとしてきた。黒いマントを着て、オリジン武装グングニアで。
それが命令か独断かはともかく、シベリアにいるはずの彼女が、何故ダークテリトリーにいた?
―――やはり何かがおかしい。
「それって―――」
そんな会話の中。ふと、空気の流れが変わった。
「っ……?」
肌に触れる空気の密度が、ありえないほどに重くなった。
甘い香りに包まれたこの空間に確かな殺気が混じったのを、ただ一人、オレだけが察知した。
余計な動きは見せず、静かに席を立つ。
「……どうしたの?」
姫奈の問いに答えず、オレは店の外——―広場を見やる。人の気配。視線の動き。異常な沈黙。
両目に魔力を溜め、浄眼を発動。現実世界から視界が切り替わると輪郭が白黒に染まり、情報が重なって周囲の建築物の構造が露わになる。
その場に潜む"異常"が、明確な形を持って浮かび上がった。
その数、四つ。
「てかさ、いつの間にか人が少なくなってるっていうか、このあたりだけ客一人もいなくない?」
オレはその疑問に対して、答えになってないセリフを返す。
「姫奈、おまえの術式で周囲を拘禁しろ。オレとおまえを囲むように、できるだけ広く」
「は? なんで」
唐突な命令に姫奈は不満げな表情をする。
「いいからやれ。はやく」
次の瞬間―――。




