sNOw bloom【2】
*
午後六時。コンビニ大通店のドリンク売り場に並んで立っている私たち。
脈打つ体中の熱さを直に感じながら、茜ならこういうとき緊張するのかな、と私は考えた。
私の今日の買い物は決まっている。
統也と同じ野菜ジュース。迷いなくその紙パックを手に取った私に、統也は少し驚いたように言う。
「ん、雪華、今日はもう決まったのか? 別に焦らなくてもいいんだぞ」
「焦ってないよ、大丈夫」
私は彼の方を見ずに、そう返事をする。
好きって言わなきゃ。寮に着いてしまう前に。
ずっと心臓が跳ねている。バクバクとビートしている。あり得ないけれど、統也に聞こえてしまっていたら最悪だ。
店内に流れている「SayMe」の曲・ブロークンハートが私の鼓動音を消してくれていますようにと、願う。
コンビニの外はもちろん真っ暗。コンビニの角を曲がって、いつもなら統也のバイクが置いてあるはずの駐車場を見る。
いや。
野菜ジュースとレンチンしたブリトーを片手に、影の世界に入っていく統也の背中を私は見ている。
高校の制服ブレザーに包まれた広い背中、高い背丈。それを見ているだけで胸がジンジンと痛む。
強く強く、焦がれる。歩いている彼までの五十センチくらいの距離が、ふいに七十センチくらい離れる。
突然、とてつもない寂しさが湧きあがる。
待って。と思い、とっさに手を伸ばしてブレザーの裾をつかんだ。
しまった。でも、今、好きだと言うんだ。
彼が立ち止まる。たっぷりと時間をおいて、ゆっくりと私を振り返る。
―――こうじゃない、という彼の心の声が聞こえたような気がして、私はぞくっとする。
「―――どうした?」
私の中のずっと深い場所が、もう一度、ぞくっと怯えた。
ただただ静かで、優しくて、どこまでも冷たい声。
思わず彼の顔をじっと見つめてしまう。
ニコリともしない、無表情。ものすごく鋭く、強い意志に満ちた、しかし静かな双眸。
結局、何も、言えなかった。
いや、言えるわけがなかった。
何も言うなという、無言の強い拒絶だった。
その瞬間に―――ああ、彼は茜と付き合うんだ、とほぼ天命のように確信した。
*
帰り道の空気は、どこか重圧な旋律に支配されているようだった。
私と統也は隣り合い、大通の賑やかな街の歩道を歩いている。
けれど、さっきから私たちは一言も言葉を交わしていない。
私と彼との距離は、およそ一メートル。
離れすぎないように、でも近づきすぎないように、私は必死で歩幅を調整していた。
他人から見れば、不仲な友人か、喧嘩中の恋人に見えるかもしれない。
統也の歩幅は大きい。
怒っているのかもしれないと思って、そっと彼の顔をうかがった。
でも彼は、いつもの無表情のまま、空を見上げているように見えた。
一方の私は俯いて、自分の影を見つめた。
私はわけも分からず泣きたい衝動にかられる。
彼の拒絶と感じたのは私の勘違いだったんじゃないかと一瞬思う。
でも。
勘違いなわけない。
なぜ私たちはずっと黙って歩き続けているのだろう。
一緒に帰ろうと言ってくれるのはいつも統也からなのに。
なぜあなたは何も言わないんだろう。
なぜあなたはいつも優しいのだろう。
なぜあなたは私の前に現れたのだろう。
なぜあなたは私を助けてくれたのだろう。
なぜあなたは私に戦い方を教えたのだろう。
なぜ私はこんなにもあなたが好きなのだろう。
なぜ。なぜ。なぜ。
なぜ。なぜ。なぜ。なぜ―――。
街灯が薄雪に反射しキラキラしているアスファルト、そこを必死に歩く私の足元がだんだんと滲んでくる。
お願い。統也、お願い。……お願いだから。
もう私は我慢することができない。だめ。
メガネに水滴が落ちたのが分かった。
メガネをどけ、両手でぬぐってもぬぐっても涙が溢れる。
彼に気づかれる前に泣きやまなくちゃ。絶対に。私は必死に涙をこらえる。
でも、分かってる。知ってる。きっと彼は気づく。
そして、なんでもないことのように優しい言葉をかける。ほら―――。
「雪華。どうした?」
ごめん。きっとあなたは悪くないのに。私はなんとか言葉を繋ごうとする。
「ごめん……なんでもないかな。ごめんね……意味わかんないよね……」
立ち止まって、顔を伏せて、私は泣き続けてしまう。もう止めることができない。メガネがびしょ濡れになる。
「謝る必要なんてない。大丈夫だ。オレがそばにいる」
雪華、という統也の悲しげな呟きが聞こえる。
その彼の声は今までで一番、感情がこもっているように感じた。
初めて見せてくれた感情。それが悲しい響きだということが、私にはとても辛い。辛いよ。
「今は、オレがそばにいる」
私の心がどうしようもなく叫んでいる。
統也。統也。統也。お願いだから、どうか。もう。
どうか、もう。
―――優しくしないで。
その瞬間、私の滲んだ視界の端に、星のような光が見えた。
並木道に沿って連なる無数の灯りは、まるで冬の空に瞬く星を一本の線に結びつけたかのように輝いていた。白や金、淡い青――寒色を基調にした光が、冷えた空気の中で凛とした美しさを放ち、道行く人々の足取りを自然と緩める。
葉を落とした樹木が、まるで光のドレスをまとった貴婦人のように浮かび上がり、建物のガラスにはきらきらと瞬く光が反射して、幻のような景色を作り出していた。
それは、たぶん、数十秒ほどの出来事だったのだと思う。
でも私と統也は一言も発せずに、ただそれらを見つめた。
木々に灯されたイルミネーションは、まるで誰かの願いが結晶になったかのように、美しく、儚く、きらめいている。
私はその光の前に立ち尽くしていた。
人の波、笑い声、繋がれた手、重ねられるぬくもり。周囲にあふれる幸せな光景のどれにも、私は触れられなかった。
見上げた空には、星の代わりに無数のLEDが瞬いている。冷たく、けれど完璧な光――その美しさが、逆に胸を締めつけた。
「……綺麗、なのに……なんで……」
込み上げてくるものを止めきれず、また私の瞳から涙がこぼれ落ちる。
告げられなかった想いが、胸の中で冷たく凍りついていく。
そして私は唐突に、はっきりと気づく。
私たちは同じ場所に立ち、同じ景色を見ながら、別々のものを見ているということに。
統也は―――私を見てなんかいなかったということに。
統也は優しい。誰よりもまっすぐで、冷静で、誰かのために痛みすら抱え込んでしまうほどに優しいけれど。
とても優しくていつも隣を歩いてくれるけれど、統也はいつも私のずっと向こう、ずっとずっと遠くの何かを見ている。
私が統也に望むことはきっと叶わない。
まるで未来が読める超能力者みたいに、今はっきりと確信してしまう。
私たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かる。
それは願いとか、理想とか、主義とか、主張とか、立場とか、身分とか、一族とか、家系とか、そういう低次元のもののせいではなくて。
そんな、ありふれた理屈では語れないもので。
まったく別の"――何か――"である、と。
―――そう、あのとき茜が言った。
『あなたは、少しだけ私に似てるから』
同じとは言わなかった。
決して、交われないからこそ似ていると表現した。
『ここの人間はそれを知らない』
『オレには初め、大きな使命があった』
『境界内世界は、雪華にはどう見える?』
『そうか。ならおまえはこの世界を守れ。それだけでいい』
ようやく分かった。あの言葉の意味が。
茜と統也は、私とは違う世界の住人だったんだ。
歩く速度も、見る景色も、戦う理由も、傷つく場所も――何一つ、同じじゃなかったんだ。
私だけが、きっと夢を見ていた。
まるで、灯りが滲むこのイルミネーションのように。
引力を持たない呪いのように。
あの二人は、私とはもう決定的に、絶対的に、根底から何もかもが違ったんだ。
*
帰り道の夜空には、いつも通り偽物の星が広がっている。
歩道には私と彼の二人分の影が落ちている。
二つの影を見て、その間に圧倒的な溝を感じるようになった。
領域構築ができる前の私と、できた後の私。
統也と茜の心を知る前の私と、知った後の私。
昨日と明日では、私の世界はもう決して同じではない。
私は明日から、今までとは別の世界で生きていく。それでも。
それでも、と私は思う。
電気を消した暗い部屋で、布団にくるまったまま。
涙はとめどなく溢れて、やがて私は声を上げて泣きはじめる。
涙も鼻水も止まらない。もう我慢なんてしない。
子どもみたいに、思い切り、大きな声で泣く。
それでも。
それでも、明日も明後日も、その先も―――私は統也が好き。
やっぱりどうしようもなく、救いようもなく、統也のことが好き。
統也、統也……私はあなたが大好き。
統也だけを思いながら。泣きながら。
私は、そのまま眠りにつく。
―――その週の日曜日、茜と統也の関係に名前がついた。




