無重力の恋【3】
*
翌日、午後五時四十分。矛星訓練場に来てからもう何十セットも「領域構築」を起動してるのに、やっぱり一回も上手くいかない。
「華麗に領域を為す私を、統也に見て欲しいな」
私はその後も、何度も何度も何度も。
同じ作業だけを繰り返す。
「こうじゃない」
これじゃダメだ、もっと集中するのよ雪華、と自分を奮い立たせる。
必死にマナを操作する。その操作感はどっしりと重い。
こうじゃない、こうじゃない――まるで呪文みたいに心の中で繰り返す。
そしてその言葉が統也の姿にしっくりと重なることに、私はふと気付いた。
時々こんな瞬間がある。
異能を発動していると、まるで超能力者みたいに何かにはっきりと気付いてしまう、そんな瞬間。
大通のコンビニの脇、誰もいない単車駐輪場、早朝の自由訓練場。
そういうところでスマホを弄っている統也から、私には「こうじゃない」という叫びが聞こえる。
――そんなこと知ってるよ統也。私だって同じだから。
こうじゃないと思ってるのは統也だけじゃないよ。
統也、統也、統也――そう繰り返しながら私は中途半端な操作感で術式にそれを支配され、振り回されるような感覚に陥りながら、脳の異能演算領域にズキンと痛みを伴った。
「こんな乱暴な制御じゃ、いつまでたっても出来るようならないよぉ……」
脳への衝撃で自然と涙が滲んできて、まるで本当に泣いているみたいな気持ちになった。
*
午後七時四十五分。私はコンビニのドリンク売り場の前に立っている。
悲しいことに今日は一人。単車駐輪場の前でしばらく待ってみたのだけれど、統也は現れなかった。
彼は彼で色々と忙しいのだろう。
「何もかもツイていない一日かな」
私は結局また、統也と合法的にオソロにできる野菜ジュースを買ってしまう(オソロって響きがいい)。
コンビニの脇のフェンスに寄りかかり、野菜の風味のある甘い液体を一気に飲み込み、歩き出す。
札幌市北区、川沿いのこの道路、統也と同じ帰り道だ。
「はっ」
しかししばらく歩いていると、奇跡が起こる。
正面に見覚えのある黒いバイクが見えた。
彼のバイクだ!となぜか私は弾かれるように確信し、急いで駆け出す。
ほとんど無意識のうちに、私は河原の段平面へと下り始めていた。
段差を踏み越えて開けた視界の向こうに、彼はいた。
下のベンチに座り込んで、やっぱりスマホをスクロールしながら。
まるで私の心を揺らすかのように風がざーっと吹いてきて、私の水色髪と服を揺らした。
トクッ、トクッ、トクッ、トクッ―――。
その風に呼応するように私の胸は大きな音を立て始めて、私はそれを聞きたくなくてわざと大きな音を立てて斜面を下りる。
「とうやー! そんな所で何してるのー」
「雪華? おまえこそこんな所でどうしたんだ?」
例の論文とやらに集中していたのか、少し驚いたように統也が私に向かって大きな声で返してくれる。
「へへ。統也のバイクが見えたから来ちゃった。いいかな?」
と言いながらも、私は早足で彼に向かう。
こんなのはなんでもないことなのよ、と自分に言い聞かせながら。
「そうか。今日は駐車場で会えなかったから、少しがっかりしていたところだ」
「それってほんとかな」
訝しむ私に、なんでもないことのように答える。
「本当だ」
「え、ほんとにほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんとにほんと? ゼッタイ??」
「そうだと言ってるだろ」
私に会えなくて、がっかりしてくれたんだ。
「んーーーー私も!」
際限ない嬉しさが込み上げてくる。
「おまえに会えたのは素直に嬉しい。誰にも見つからないよう一人で黄昏てただけだが、おまえはオレを見つけてくれた」
私はリュックを降ろしながら、そう話す彼の隣に、ベンチに着座する。
嬉しい? ホント? 心臓がなんだかズキズキする。
しかし。
彼のいる場所に来た時は、いつもだ。
こうじゃない、という言葉が一瞬だけ脳裏をよぎる。
次第に強くなる風が、眼下に広がる川の水面をちらちらと瞬かせている。
そんな風景を眺めながら、私と統也は隣り合って座っている。
鼓動はもうずいぶん静まっていて、彼の肩の高さを間近で感じていられることが、私は素直に嬉しい。
「ねえ、統也は某北大受験するの? やっぱり」
「ああ。茜と翠蘭にしか話していないはずだが……どちらかが話したか」
「うん……翠蘭から」
「女子の情報網は光の速さだな」
「……でもそうか、やっぱりそうなんだ」
「というと?」
「統也は頭いいから」
彼は「そんなことはない」とだけ小さく呟いた。
少しの沈黙の後、優しい声で彼が言う。
「雪華は?」
「え、私? 私ね、なーんも決めてない。馬鹿でしょ」
自嘲気味に言いながらも、私は統也になら正直に話せてしまう。
なんだって打ち明けられる気がする。
「そうか? 多分皆そんなものだろ、オレも含めてな」
「え、うそ!? 統也も?」
「もちろんだ」
「なんも決めてない?」
「ああ。進学先しか決めてないな。そのあとの将来の展望は、何一つ決めていないんだ。このせ―――いや、この現状をどうするべきか、とかな」
「全然迷いなんてないみたいに見えるのに。ほらビジョンっていうの? めちゃくちゃ見えてそうなのに」
「まさか。それはないな。いや、迷いはないのかもしれないが……ただ必死に今を生き抜いているだけだ」
今度は統也が自嘲気味になって、続ける。
「迷ってばかりだったんだ、オレは。できることをなんとかやってるだけで、何一つ満足に達成できてない。こう見えても余裕はない方だ」
それを聞いてドキドキしていると、彼は言葉を紡ぎ続けた。
彼自身、何もかもを誰かに吐き出したい気持ちがあったのかもしれない、そんな気がした。
「認める。オレは特級異能者だ」
「え―――っ?」
唐突な告白に、私は刺されたような衝撃を受ける。
「それは世界に六人しかいない稀な存在で、その正体を知る者はほとんどいない。だが、その力を目にした者は決して忘れることはないだろう。たった一撃で都市を崩壊させ、軍隊すら無に帰す。その存在は国家すら震撼させる脅威と成り得る」
「それが、特級異能者……?」
「そうだ」
「でもおかしいよね。そんな話、私は聞いたこともないかな」
「ここの人間はそれを知らない」
私にはそのセリフが、どういう意味なのか一ミリも理解できなかった。
―――ここの人間? 「ここ」とはどこを指すのか。
北海道? 北日本国? それとも……。
「オレには初め、大きな使命があった。内容は誰にも話せない、これから先話していくつもりもない。だがその使命はオレには必要ないものだと、自分で気が付いた。この世界は歪だが、救いがないわけじゃない」
統也は少しこちらをうかがって聞いた。
「境界内世界は、雪華にはどう見える?」
「どうって……青の境界に囲まれてる、安寧を保つ世界? に見えるけど」
「そうか。ならおまえはこの世界を守れ。それだけでいい」
この世界に救いがあっても私は救いようがない。
大事な話をしてるのに。
すぐ隣にいる男の子がこんなことを考えているということ、それを私だけに言ってくれているということが、むしょうに嬉しくてたまらないから。
「……そっか。そうなんだ」
私はチラッと彼の顔に目をやる。
統也の目線はすでに外れ、まっすぐに河の水面を見つめていた。
一瞬、彼がまるで、無力で幼い子どもみたいに見えた。
きっと私たちが思ってるよりこの人はか弱い存在なんだと、わずかに感じた。
ちょっと可愛いな、と思ってしまう。
私はこの人のことが大好きなんだと、今さらながら強く思う。
―――そうだ。一番大切ではっきりしていることは、これだ。
私が彼を好きだということ。
だから私は、彼の言葉からいろんな力を、屈しない勇気をもらえてしまう。
彼がこの世界にいてくれたことを、どこかの誰かに感謝したくてたまらなくなる。
たとえば彼の両親、たとえば神様。
そして私はリュックから進路調査用紙を取り出して、折り始めた。
いつのまにか風はすっかり凪いでいる。丁度いい。
「それ、飛行機か?」
そう聞く彼の顔は、心なしか歪んで見えた。
「うん。……なんでそんな顔なの?」
「いや、少し前に嫌な思い出があってな。手のひらに突き刺さったんだ」
「え、何がかな」
「紙飛行機が、だ」
何それ。
「ふふふっ! めっちゃ意味わかんない!」
できあがった紙飛行機を、私は思いっ切り川に向かって飛ばした。
それは驚くくらい遠くまで真っ直ぐに飛んでいき、途中で急な風に吹き上げられ、空のずっと高いところで闇に紛れて見えなくなった。
できることをなんとかやってるだけ、か。
そっか。そうしていくしかないんだと、それでいいのだと、私ははっきりと思った。




