無重力の恋
*
十一月の上旬。早朝。場所は矛星の異能訓練場。
私――白夜雪華はいくつかの大きな問題を抱えている。
一つは……。
「すぅー」
息を大きく吸って、無機質な床に向かって手のひらを差し出す。
そっとメガネを押し上げながら、冷静に唱える。
「氷霜術式……定率強化」
次の瞬間、雪結晶のような幾何学模様の術式が組み上がる。
私の足下に、霜を帯びた照準の陣(いわゆる領域)が静かに浮かび上がった。
マナが系統的に流れ、陣の輝きが増していく。
温度低下の閾値、凝縮されたマナの分配、氷結構造の補強——すべての要素に気を配り、最高効率で領域を形作っていく。
「設計完了……」
徐々にせり上がる氷のなめらかな動きを見て、即座に床面に向かってマナを放つ。
「領域構築―――」
極大的なマナの拡散を感じ術式を付与しようとした直後、しかし私は異能照準のバランスを崩して術式を破綻させてしまう。
「はぁ~、また失敗」
問題その一。私は一度も「領域構築」を成功させていない。
奥の更衣スペースで隊服を脱ぎ下着姿になると高校の制服に着替え、メガネをかけ直した。
そして櫛で髪をとかす。
「あーあ。もうこんなに長くなった」
昔は肩に届かなかった短い髪も、あっという間にセミロングになってしまった。
長い髪は邪魔で嫌いなのに。
嫌いなのに、なんで伸ばしてるかって? それは―――そんなことを考えながら乾いた唇にリップクリームを塗っている間に、同じ高校のリカと翠蘭が迎えに来て、私に話しかける。
「おはようございます、雪華さん」
「うん、おはよ」
「朝から精が出ますね」
李翠蘭。彼女はとても綺麗だ。二つお団子が可愛くて、落ち着いていて、頭が良くて、格闘術は統也に引けを取らない。まるで年上のように大人びた彼女を、しかし昔はあまり好きではなかった。
理由を自分なりに内省・分析するに、どちらかといえば平凡な私にとって、華やかで強かな翠蘭は要するにコンプレックスの対象だったのだと思う。でも今は好き。
ちょっと前までは茜にも同じような感情と観念を抱いていた。
天霧茜。統也とコソコソしているのが、ずっとモヤッとしていた。
最初はその程度の感情だったはずなのに、いつの間にか彼女のすべてが気に障るようになっていた。
整った美貌、透き通るような声、どこか気品すら漂う立ち居振る舞い。そしてあの、冷静で余裕に満ちた佇まい。
私とは違う――そう思い知らされるたびに、胸の奥が締め付けられた。
私は感情的になりやすいほうだ。自分では理性的でいたいと思っているのに、つい顔に出てしまう。
けれど、茜は違う。どんな時でも冷静で、迷いがない。統也と並んでいても、そのクールな雰囲気がしっくり馴染んでいるのが悔しかった。
そして何より、彼女は強い。その戦闘力は圧倒的。
なんか、少し異質というか、統也と同じ……根底からレベルが違うような、そんな感じがする。
私の異能『霜』は燃費が悪くて、体術を鍛えてなんとか補っているけれど、それも限界がある。一方で茜は一撃で戦局を変えてしまう。
「結局、敵わないんじゃない?」
そんな心の声がどこかで囁くたび、苦しくなった。
彼女の前では、女としても、異能士としても、私はただの凡庸な存在に思えてしまう。
……それでも。
それでも今は好き。
嫉妬も、悔しさも、全部ひっくるめて、私はようやく彼女を認められるようになった。
あの冷たくて強い彼女を、私はもう嫌いになれない。
「おっはー雪華、今日はどうだった?」
リカが聞いてくる。
「うんおはよ。今日もダメ。マナを照準として術式を付与するところまでは出来るだけど、急激な拡大に術式が置いてかれる。マナコントロールも術式制御も超ムズイ」
リカの隣につきながら私は答える。
「まあ焦んなよ。放課後もやんのか?」
「うーん、来たいかな。リカは平気?」
「あいよ。でも宿題もちゃんとやれよー」
「はいはい。……あと、少し寄っていくね」
そのセリフだけで、二人は頷き理解してくれる。
「おっけー、頑張れよー」
リカは両手を頭の後ろで組みながらそう言うと、そのまま玄関に向かう。
それでは私も先に行ってますね、と翠蘭は微笑みながらリカのあとを追った。
私は茜みたいに強くはないし、翠蘭みたいに落ち着てもいない。
先の大輝奪還作戦においても、私はたいして役に立たなかったと自覚している。
だからこそ、なんとしても強くならなきゃいけない。
うん、そう思う。
『おまえにはもう一つ教えておきたい』
一年前、「術式」の扱いにもずいぶん慣れた高二のある日。
私は統也から「領域構築」という術式制御の極致を教えてもらった。
『領域構築? なにそれ』
『異能の照準を拡大し相手ごと巻き込む技だな。対象は照準内にいるため、攻撃は必中になる』
『異能はそのほとんどがスナイパーみたいに精密に照準するもの。それをショットガンみたいに範囲攻撃にするってこと?』
『まあ、簡単に言うとそうだ。実際はそれより厄介だがな』
『統也もソレ出来るの?』
『一応』
話を聞くと、彼の領域構築は『律』や『時空零域』とかいう時間停止の能力らしい。
時間を止める? チートだチート。
最初は嘘だと思ったけど、背中に触れてもらい(ここ重要!)その世界を見た。
すべてが凍ったように止まった世界を。
そう、彼は異能界のチーターだと思う。いや、チートを通り越してもはやバグ。
ずるいよ。さすがにあそこまでになりたいとは言わないけどね。
でも、才能っていうか、うん。神様って勝手だ。
そんなふうに「領域構築」の鍛錬をしているうちに私は高校三年になり、あっという間に時が過ぎた。
「領域構築」ができない――これが私の悩みの一つ。
そして二つめの悩みに、私は今からアタックする。
*
ぽわっと、確かに空気が張り詰め、空間そのものが支配されたように蒼い障壁を生み出す。
「……悪くないな」
彼はそう呟いた。
今は午前七時、私は矛星の自由訓練場の陰に緊張して立っている。さっき端から少しだけ顔を出してみたところ、この訓練場にはいつも通り彼しかいなかった。
彼は毎日ここで異能の鍛錬をしていて、私が朝から「領域構築」の練習をする一因も実は彼にある。
――彼が朝から何かに熱中しているなら、私も何かに熱中していたい。
彼が真剣に異能と向き合っている姿は、それはそれは素敵で、まるで何かの童話に出てくる騎士様みたいだ。
とはいえ、近くでじっと見つめることは恥ずかしくてできないから、今みたいに百メートルくらい離れた位置からしか練習姿は見たことはないけどね。そのうえ盗み見だけどね。
私はなんとなくスカートをぱたぱたと払い、メガネのブリッジをくいっと押し上げ位置を整えてから、深呼吸をした。
よし! 自然にいくよ、自然に。そして訓練場に向かって足を踏み出す。
「雪華か。おはよう」
やっぱり気付かれていたのだろう、彼はノールックで気配を察知すると異能発動を中断し、声をかけてきてくれた。
あーもう、やっぱり好き。落ち着いた深い声。
私はドキドキしながら、それでも平静を装ってゆっくりと歩く。私はただ訓練場の脇を通りかかっただけなのよ、という風に。
そして慎重に返事をする。声が裏返ったりしないように。
「おはよ統也。今日も早いね」
「雪華もな。……領域の練習、行ってきたのか?」
「うん」
「頑張ってて偉いな。毎日継続するというのは簡単に思えて難しい。誰にでもできることじゃない、尊敬する」
「えっ」
思いがけず褒められ、私はびっくりする。
やばい、きっと私は今耳まで赤くなっている。言い訳出来ないくらいに。
「そ、そんなことないかな……。えへへ、じゃ、またね統也!」
不意打ちによる嬉しさと恥ずかしさで、私は慌てて駆けだしてしまう。
「ああ、またな」
彼の優しい声が背中に聞こえた。
問題その二。私は名瀬統也に片想いをしている。
実に、もう一年も。
*
そして問題その三。それは机の上にあるこの紙切れ一枚に集約されている。
現在、午前八時三十五分。教室内、朝のホームルームで、担任の声がぼんやりと耳に入ってくる。
「いいですか、もうそろそろ決めないと間に合いませんよ。家族とよく相談して書いてきてください」
家族……? なに、雹理っていう大犯罪者にでも相談しろっていうのかな。
視線を落とす。紙には「最終進路希望調査」と記されていた。
これに何を書き込めばよいのか、私は途方に暮れる。
異能士。なりたいものにはなった。でも、なんか違う。そう感じていた。
それに、異能士だけで食っていけるのは隊長クラスからだ。つまり、何かの職に就かなくてはならない。進学か、就職か――私はまだ決められずにいた。
十二時五十分。昼休み中の教室には、いつも通りクラスメイトによる雑音が流れている。受験間近なのに、結構うるさい。端っこで勉強している人もいる。
クラスを観察しながらリカが作ってくれたお弁当を食べる。
私はリカと翠蘭の三人で机を寄せあって昼ご飯を食べていて、二人はさっきから進路について話している。
「統也さん、某北大を受験するみたいですね」
「え、まじ? あいつ勉強もできんの?」
「ええ。逆に何が出来ないんでしょうね」
「サスガを通り越してキモいわーー、まじひくわーー」
統也と聞いて、私はちょっと緊張する。
未来のことはまだ分からないけれど、統也はたぶん大学に受かるんじゃないかと思う。なんとなくそう感じる。
某北大は無理だな……そんなふうに考えると、リカの愛妻弁当(妻ではないけど)の味が急に消えてしまったような気がする。
「雪華さんはどうします?」
ふいに翠蘭に聞かれ、私は言葉に詰まってしまう。
「異能士一択だろ?」
とリカが続けて聞く。うーん……どうだろう……と言葉を濁してしまう。
分からない、自分でも。どうしたいのか。何になりたいのか。異能士で、何を目指しているのか。
「おまえホント、あいつ以外何も考えてないよな。でも一応大学は受けといた方がいいぞ」
と、リカが言う。
「雪華さんはいつも統也さんのことだけですからね。お節介を焼くつもりはありませんが、将来についてはきちんと考えた方が無難ですよ」
翠蘭は見透かしたように諭してくる。
すると急に、ニヒヒとリカがニヤける。
「あいつゼッタイあかねっちを彼女にするよ。それも時間の問題だな」
私は思わず本気で叫んでしまう。
「やだぁ!」
瞬間、ふふっと二人が笑う。私の想いは当然のごとく彼女たちにはバレている。
「いいよもう! 購買で野菜ジュース買ってくるから」
膨れたように言って、私は席を立つ。冗談めかしてはいるけれど、統也が茜を狙ってる説は私には結構こたえる。
このあいだの任務だって、最後なんか顔に胸押し付けられてたし……そう思うと「あーーー!!」と叫びたくなった。
「え! おまえまた野菜ジュース? 二つめじゃんか」
「なんかノド渇くんだもん」
「氷霜の魔女ですからね」
「なんの関係があるのさ」
二人の軽口を受け流し、風が吹き込む廊下を一人で歩きながら、私は壁にいくつも並んだ新聞記事になんとなく目をやる。
載っているのはどれも部活の功績だけれど、端のクリスマスイルミネーションについての記事が私の目を留めた。
『さっぽろホワイトイルミネーション! きらめく街並みにうっとり!』
このイルミは、私も二度ほど見に行った。
札幌の冬を彩る幻想的な光の祭典。場所は大通公園。雪景色と輝くイルミネーションが織りなすロマンチックな雰囲気が魅力的だ。
北海道に来てまだ一年半の統也(それまでどこにいたか不明。たぶん東北?)は、このイルミを見たことがあるのだろうか。いつか一緒に見れたらいいな。初めてだとしたらちょっと感動する眺めだと思うし、二人だけでそんな体験ができたら、私たちの距離もちょっとは縮まるような気がする。
……とまあこんな風に、私の悩みは統也を中心にいつもグルグルする。
いつまでも悩み続けているわけにはいかないんだ、ということだけは分かっている。
だから私は――「領域構築」を成功させたら統也に告白すると、決めているのだ。




