モルフォ蝶
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深夜のロンドン市街。濃い靄が立ち込める夜空の下、ビルの屋上に電光掲示板の淡い光が静かに降り注ぐ。眼下には無数の街灯が霞むように瞬き、遠くにはビッグ・ベンの鐘が夜の静寂を刻んでいる。
風が高層ビルの間を吹き抜け、セシリア・ホワイトのコートの裾と黄金のシニヨンを揺らした。
彼女はスカイブルーの瞳で周囲を一望する。
「ヴェール……位置は?」
ヴェール(Veil)…… 記憶を覆い隠し、真実を見えなくする者。シャルロット・セリーヌのコードネームだ。
直後、チューニレイダーによる同調通信にて、声を受け取る。
『十二時の方向、直線距離10.2メートル』
「了解」
異能士協会の長としての任務。それがセシリアの今宵の役割だった。彼女にはこの異形の存在を駆逐する責務がある。
「もうどこへも逃げられないわ」
彼女の澄んだ声が響くと同時に、闇が蠢いた。漆黒の影が、黒の中から滲み出す。まるで水面に滴るインクのように、人の形が露わになる。
その眼は禍々しく赤く輝き、不吉な闇をその身に纏っている。
「グルル…………」
(異能者を喰らい、己が力とする忌むべき存在)
セシリアはその影人の匂い――魔薫を異能副作用「超嗅覚」で分析する。
(人の遺伝子を食らい、自ら強化した影人……レートは「S-」といったところね)
(影人が日々進化していることは分かっていた……)
(けど、ここまでとは……)
セシリアは余裕の表情を浮かべながら、手を軽く掲げた。瞬間、彼女の周囲に青白い光の蝶が無数に舞い始める。風と共に散る幻想的な輝きは、まるで天上から降る流星のようだった。
『メテオ・ライト』
指先を弾いた刹那、蝶たちは閃光となり、矢のように空間を裂いて影人へと襲いかかる。その光弾が直撃すると、屋上全体が振動し、灼熱の爆裂が影人を飲み込んだ。ビルの縁が崩れ落ち、コンクリートの破片が闇の中へと消えていく。
「グゥ! グラァァァーー!」
それでも影人は咄嗟に身を捻り、闇の塊を矢のように放つ。
(変形手の一種……?)
風を受けながらそれをかわす。しかし、セシリアは一歩も引かない。
指先で蝶型に虚空をなぞり、その位置を押すように、手のひらを突き出す。
すると蒼い光沢を持つ鱗粉――全粒子は風に吹かれながら、一点へと収束する。
極限まで収束したエネルギーよってが完成。優雅に翅を広げる。生を受けたかのように、透き通る輝きが空間を染めていく。
「…………」
そして、モルフォ蝶は彼女の手のひらで二度、三度と羽ばたき、影人を捉えた。
一帯の空気が震え、屋上の気圧が瞬時に変化する。
「散れ」
――『強粒子蝶』
次の瞬間、蝶は閃光のごとき速さで飛翔する。
「グラァァーーーーーーーーー!!」
着弾した刹那、爆縮現象が発生し、爆発的な衝撃波を生み出した。
影人の体は、抗う間もなく重力の特異点へと引き裂かれるように、完全に消滅した。
――プラチナダストと紫紺石だけを残して。
「任務完了。証拠隠滅の後、帰還する。他の異能士にも通達せよ」
『了解、「46」』
セシリアは崩れかけた屋上に佇みながら同調装置の電源を切ると、コートの襟を正してから敬礼をした。
「異能士協会特別陸軍ウィリアム・バッハ二等兵。安らかにお眠りください」
遥か下の街には何事もなかったかのように車のヘッドライトが行き交い、ビッグ・ベンの鐘がまた一つ、静かに響いた。




