裏の計画、表の顔
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翌日。早朝の矛星施設内。仄暗い照明が青白く光を落とし、壁際に立つ二つの影を長く伸ばしていた。
オレと茜。冷たい壁にもたれかかりながら、低く抑えた声で言葉を交わす。静けさに溶け込むように、しかし意味のある会話を続けていると、不意に足音が近づいてきた。
視線を向けると、女性隊員二人。オレを見つけるなり、ひそひそと囁き合い始めた。
「ねえ、ほら、手振んなよ! 憧れの名瀬先輩だよ?」
「えー、なんで。恥ずかしいって……」
声を潜めているつもりなのだろうが、やり取りは丸聞こえだ。
渋々といった様子で、片方が小さく手を振ってくる。
ん? よく分からないが、訝しみながら軽く手を振り返すと、
「きゃあっ! 手振り返してくれた! 振り返してくれたよお!」
抑えきれないといった様子で、二人が小さく跳ねる。まるで何かのファンサービスでも受けたかのような反応に、オレはただ瞬きをした。
なんだこれは……。
「……随分と人気みたいね」
横から聞こえたのは、やけに低い声。茜は腕を組み、何か言いたげな眼差しをこちらに向けている。どこか不機嫌そうだ。
「そういえば最近の一般人の影人化。何件か不自然なものがあるらしい」
オレは早急に話題を変更。
「のようね。統也、何か知ってる?」
茜は腕を組んだまま、どこか考え込むように視線を落とす。
「いや、生憎と何も。ただ昨日、秀成の敷地に影人が数体現れた」
オレはポケットに手を突っ込んだまま、淡々と告げた。
「うん、聞いた。あなたが倒したんでしょう? 討伐に十秒かからなかったとか。矛星の上が騒いでた」
「オレは……」
「無関係じゃないと思ってる?」
茜が続きを言い、オレは静かに頷いた。
「影人化したのは、どうやら秀成の生徒らしい。いつ、どこで、どうやって影人化したのかは不明だ。ただ昨日の流れから考えるに、やはり偶然とは思えない」
影人化が無作為に発症する現象、つまり一般人の自然影人化は、人目のない場所でのみ確認されている。これまで雑踏の中での自然発症は一例もない。
だが今回のケースはその法則から外れている。
「……つまり、何かが起こっている、と?」
「そう考えるのが妥当だな。とはいえ、鎌足や雹理の仕掛けならもっと計算された手段を選ぶ。それに、もし彼らの手によるものならオレが事前に気付かないはずがないからな」
「ってことは、別の勢力?」
「それどころか、単独の事件かもしれない」
オレの言葉に、茜はわずかに眉を寄せた。
「不安定な団体の暴走……とか?」
「その可能性も否定できない」
オレは壁から軽く身を離し、茜に向き直る。
「とにかく情報がない。脅威か、そうじゃないかさえ不明なままだ。おまえにはそれを調べてほしい。あと……それと別件で、ある人物の能力調査もお願いしたい」
その言葉に、茜の瞳が微かに揺れた。
「え、ちょっと待って。不自然な影人化について調べるのは構わないよ。けど、特定の人物の能力を探れと? 私はもうダイヤデータにアクセスできない。探偵ごっこでもしろって?」
「ああ。名探偵茜の調査力を信じてるからな」
まあこれは冗談だ。そこまで深く調べてもらうつもりはないし、そもそもそんなに都合よく情報は集まらないだろう。
その人物がどんな異能者で、どんな戦闘スタイルなのか。それが知れればベストだ。
オレの軽い調子に、茜は小さく肩をすくめた。
「……調べる相手による」
「茜ならもう分かってるんじゃないのか」
あえて間を作ると、「早く言ってよ」という目をされた。
「セシリアだ。セシリア・ホワイト」
その名を聞いた瞬間、茜の表情筋がわずかに硬くなる。
「もう《《対策》》を始めるの?」
「遅かれ早かれ調べることになる。早いほうがいいだけだ」
「ふぅん……」
釈然としない顔付きかとも思ったが、どちらかというと不服そうなものだった。
「どうした?」
「べっつに。また女を調べなきゃいけないのか、って思っただけ」
茜は頬を膨らませ、そっぽを向いた。
可愛いな。素直にそう思う。
「でも、調査結果はタダじゃないから」
「おまえに借りを作るのは慣れてる」
「なら、相応の支払いを期待しておく」
茜の唇がわずかに吊り上がる。何か企んでいるようだ。
彼女が去ろうと壁から身を離したので、声をかけた。
「あと、茜」
オレが言葉を続けようとしたが、茜はすぐにこちらの表情の変化を察したように首を傾げる。
「何?」
「……いざとなったら、協力してくれるか」
あえて具体的な内容を避け、漠然とした問いを投げかける。
その問いに答えを返す茜の表情は予想以上に重く、確かな決意が感じられた。
「当たり前でしょう。私はあなたとなら、どこへでも堕ちていける。なんだってやる」
オレにとっては思い切った打診だったが、茜はそれを迷うことなくすんなりと受け入れた。
その反応に少し驚きつつも、どこか安堵感を覚える自分がいた。
「…………」
思わず、感謝の言葉が口をついて出そうになる。だが、そんな安っぽい言葉では足りないと感じて、その言葉は飲み込む。
そう、ただの感謝なんて彼女は求めていない。
オレはポケットから手を出し、マフラーを軽く直した。
「それじゃあ頼んだぞ、名探偵」
「誰が名探偵さ……まったく、人使いが荒い。誰に似たのか……」
茜は踵を返し、長い髪をさらりと払う。
静かな廊下に響くのは、彼女のハイヒールの靴音だけだった。




