檻の星空
***
闇に閉ざされた人工衛星映像監視室。
無数のモニターが壁一面に並び、冷たい青白い光を発している。映し出されるのは、一人の青年。先ほどの光景。
――かの王が、『A』と『O』の座標軸の交点にただ一人君臨する、歴史的瞬間。
柳沢邦光は黒革の椅子に深く腰掛け、腕を組んでいた。彼の唇には、かすかな笑みが浮かんでいる。
「はは……まったく、痺れるね。私をここまで心動かす者は他に存在しないよ」
彼の視線の先、モニターには現在の様子が映っていた。名瀬統也が王の力を振るい、その場を支配した瞬間——周囲を呑み込むかのような光の奔流。その圧倒的な威光の余韻が、未だに残像として脳裏に焼き付いている。
——と、その時。
「リアルタイムで見たかい? さっきの」
彼がそう問いかけたのは、部屋に一人でいるはずの状況では不自然だった。
案の定、背後の暗がりから、静かに何かが動いた。
しなやかな足取り。音もなく忍び寄る気配。軽く頷いた。
「どうだシュカ。素晴らしいだろう」
すでに邦光は、気配でその人物――コードネーム「シュカ」だと気づいていた。
「…………」
ゆっくりと、影が闇の中から姿を現す。だが、それはあくまで「輪郭」だけだった。監視室のわずかな光では、その人物の細部は判然としない。
しかし女性だろう。長い髪が揺れ、柔らかく、それでいてどこか、夜行性の獣じみた仕草で彼女は歩み寄る。
「よく分からないけど、さっきの光景は……飽きない」
女の声は淡々としていて、気怠げな響き。その無機質な響きの中に、どこか遊び心を孕んでいる。それが、彼女の本心かどうかは分からない。
邦光は、くくっと喉を鳴らして笑った。
「そうか」
わずかな沈黙。
そして女は、室内に漂う気配を楽しむように、一歩、また一歩と歩く。柔らかな足取りだが、足音はほとんどしない。その動きはまるで——。
邦光の視線が、ゆるくそちらを向く。
すると彼女は、闇の中に佇んだまま、微動だにしない。
邦光の顔をじっと見つめたかと思うと、ふいっとそっぽを向く。関心があるのかないのか分からない態度。完全なる気まぐれだ。
邦光は監視室のモニターの映像を録画に切り替える。
そのときには闇に紛れる女――シュカは、ゆっくりとその場を離れようとしていた。
まるで気まぐれな猫のように――。
***
風を切って走る。姫奈と並んで、茜たちの元へ向かいながら、統也は考えを巡らせていた。
(王の力が発動した理由――それが未だに理解できない)
杏子の影人の細胞部分に触れた瞬間、電気が走った。そして、その直後に統也は迷いなく、本能的に王の力を扱えた。
だが、なぜ杏子だったのか。それが分からない。
(杏子は"使徒"ではない)
(彼女は起源の継承者でもなければ、因子体ですらない。なのに、なぜ彼女を媒介にしてこの力が目覚めたのか)
さらに、杏子は死後、「自己監禁術式」を起動し自ら亡骸を閉じ込めた。
その行為に何か意味があるのか。あれは単なる墓の建築ではない。もっと別の意図があったはずだ。
そして、そもそも統也はなぜ権能以外の力を扱えているのか。
(あの時オレは、理緒と命の顔が脳裏をよぎり、茜を守りたい——ただ、そう強く願った)
瞬間統也は、確かに世界の姿を観測し、異次元のような歪んだ空間を掌握した。そして、権能ではない別の何かを引き出していた。
(……分からないことばかりだ)
「もしかして……何か考えてる?」
横で走る姫奈の声が、思考の深みに沈みかけた統也を現実へ引き戻す。
「いや何も。それより姫奈、スピードを落とすな」
「言われなくても分かってる」
「もっと加速する。ついてこい」
「はいはい……!」
答えを見つけるのは後にしよう。今は――茜たちを救うことが最優先だ。
統也たちは極夜の闇を切り裂くように駆け抜けた。
***
統也と姫奈が三宮家に到着すると、全員が無事だということが判明した。
だが――待ち構えていた仲間たちの視線が一斉に姫奈へと向いた。警戒の色を隠そうともしない。そもそも彼女は、つい先ほどまで敵側にいたのだ。当然の反応だ。
「統也、そいつ誰だよ」
大輝が疲労の色を浮かべながらも問う。舞花や希咲も同様に疑わしげな表情を見せている。
「彼女は杏子の元側近、水瀬姫奈。今はオレたちの味方だ」
「味方?」
雪華が怪訝な顔をする。また女を……という顔だったが、統也は短く息を吐いた。
「細かいことは後で説明する。今はまず、ここを離れるのが先だ」
統也の言葉に誰もが一瞬口を噤む。今は問い詰めるよりも、生き延びることが優先事項。
統也は仲間たちの視線を受け流しつつ、前を向く。
脳裏に浮かぶのは、最後に見た杏子の微笑み。統也は無意識に拳を握る。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
「総員、撤退だ」
「了解!!」
皆が声を揃える中、茜だけはその拳に視線を落としていた。
――彼は、人を頼ることに慣れてない。
***
統也、茜、姫奈、翠蘭、希咲、舞花、リカ、雪華、宗次、連貴。全員問題なく離脱を果たす。
戦場と化した三宮邸から数キロ離れた森の奥深くで、結界を張り、彼女たちはひとときの休息を取ることにした。
静寂が広がる。不思議と、誰も声を発することはない。
戦いが終わり、夜の闇がようやく本来の静けさを取り戻していた。
「統也……大丈夫?」
恐る恐る近寄った雪華。彼女は彼を心配し、声を掛ける。
彼女は仮にも統也に恋する乙女。毎日彼を見て、目で追い、毎日心を動かしている少女だ。
彼のちょっとした異変には気付いていた。
態度、仕草、呼吸……細かいものだが、雪華は意中の相手の些細な変化に気付けないほど鈍くはない。
全体的に力んでいて、その割には声に力がない。要は、元気がない。
しかし統也は目を逸らす。
「……一人にしてくれるか」
彼は誰にも聞こえないような声でそう言い残し、足を引きずるようにして人目のつかない場所へ向かった。
崖のように開けた場所に辿り着く。
下には河道があるようだ。水のせせらぎが聞こえてくる。
姉の血に濡れた隊服が、肌に冷たく突き刺さる。彼の心をえぐるように。
その場で座り込んだ統也は、ただじっと夜空を見上げた。
夜空と言えるかは微妙だが、紫の天井に星々が広がる。この『檻』を展開した覇者の粋な計らいだろうか。
杏子がもう、この空を見上げることはない。
その事実だけが、無慈悲なほどに胸を締めつける。
震える手で顔を覆い、ゆっくりと呟いた。
「……杏子は最期、笑ってた」
静かに紡がれた言葉は、夜風にかき消されそうなほど儚い。
「きっと、分かっていたんだろう。オレが勝つと……」
目を閉じると、杏子の笑顔が浮かぶ。
あの明るくも鋭い、カリスマ性を体現した声が、今にも耳元で響きそうで――だが、それはもう決して届かない。
「分かってたさ。あんたがオレを……オレの背中を押してくれてたことくらい……」
膝を抱え込むようにして、統也はそっと唇を噛み締めた。
何度も何度も、同じ痛みが胸が締めつける。だが、涙は流れない。
その時―― 。
そっと、背後から温もりが寄り添った。
優しく、包み込むような抱擁。
ひどく懐かしくて、あたたかい感触だった。
「……茜」
名を呼ぶ前に、彼女の手がそっと統也の頭を撫でた。
力強く、それでいて、壊れ物を扱うような優しさで。
その慈しむような仕草を続ける。
「いいの」
透き通る、声。
それはどこまでも優しく、統也の全てを受け止めるような響きだった。
「もう、頑張らなくていいの。今だけは……何も考えずに、甘えていいの」
統也の肩に額を預けるようにしながら、茜は穏やかに続ける。
「約束したよね」
静かに、しかし迷いのない囁き。
「その罪は、一緒に背負うって」
統也の背中に、茜のぬくもりが染み込んでいく。
その温かさが、ひどく心地よくて、怖かった。
「……大丈夫」
茜の手が、そっと統也の頬に触れた。
そのまま統也の横に正座すると、彼の頭を自分の胸に押し当てる。
統也は何も言わない。ただ、胸元に感じる茜の心音を聞いていた。
規則正しく響く音が、今の彼には唯一の拠り所だった。
茜は、それ以上何も言わず、何も聞かず、ただ彼を抱きしめ続ける。
統也の指先がかすかに震えているのも、彼の背中が小さく上下しているのも、気付いていた。
統也が、涙を流せないことも。
その悲しみをどこへ向ければいいのか分からないことも。
彼の痛みを、誰よりも分かっているからこそ。
今だけは、何も聞かず、何も考えず、彼を包み込み、撫で続ける。
「落ち着いて……大丈夫。あなたは一人じゃない。私が、そばにいるから」
茜はこの腕を離さない。
彼が立ち上がれるようになる、その時まで。




