家族
*
人を傷つけずに生きることなど不可能だ。人は誰しも、知らず知らずのうちに誰かを傷つけ、そして傷つけられて生きている。
オレだって、杏子だって、茜だってそうだ。まだ傷ついていない者も、いずれ確実に傷を負う時が来る。
オレは間違っていた。
王になるしか、なかった。
十分前のオレなら、この力に飲み込まれていたかもしれない。
杏子をこの手で――その決意を固める前のオレなら。
人はこれを崇高だとか、優美だとか、君主だとか、訳も分からず称えるのだろう。恥ずかしげもなく抽象的な言葉を並べ立て、オレを神聖視する者もいるかもしれない。
あるいは、オレのこの認識を、自意識過剰だと笑う者もいるだろう。
だが、そんなものはどうでもいい。
他人の評価がどれほど高尚だろうが、どれほど下劣だろうが、関係ない。
他人は、所詮他人だ。
オレは杏子を諦めたわけじゃない。
確かに、助けられないと分かっている。そういう意味では諦めているのかもしれない。
だが、だからこそ自分で決めて、自分で行動した。
誰に強制されるわけでもなく、誰のためでもなく、ただ自らの意志で。
それしかないと、気づいたからだ。
百を超える影人を霧散させると、戦いの余波が静けさを取り戻す。
姫奈を残し、森の奥を進んだ先で、オレは杏子を地面に下ろした。杏子が下ろして、とサインを出したからだ。
生体活性遅延魔法によって名ばかりの応急処置は施しているが、衰弱は止められない。
影人化も進行し、もはや人としての細胞や組織を留めることすら困難なほどに。
それでも彼女は、ただ穏やかに微笑んでいた。
「ごめん。ずっとあなたに秘密にしてたことがあったの」
ふと、杏子が言った。彼女の瞳は穏やかで、どこか懐かしさを帯びている。
「なんだ?」
膝を立てて腰を下ろし、彼女を見つめる。
「実はね……統くんに、昔の私のヘアスタイルを『好き』って言わせたの……私なの。ごめんね」
「何を言い出すかと思えば、そんなことか」
「半ば強引だったけど、統くんは私のロングヘアを好きって言ってくれた……。似合ってるって言ってくれた……」
「いいんだ。おかげでロングヘアの美少女に出会えた。三人もな」
森嶋命、霞流理緒、天霧茜……彼女たちは皆、オレの人生を変えてくれた女性たちだ。
だから、杏子に憧れたことを一ミリだって悔いたことはない。それは今も同じ。
「三人? なにそれ……女たらしじゃない」
「ふっ……そうかもな。凛を入れたら四人になる」
「だめよ。あなたは、私のなの」
正直驚いた。杏子がそんなこと言うなんて、想像もしていなかった。
「すまないが、もう少しで茜のになりそうだ」
「――嫌よ」
杏子の声が震えた。
「嫌……? なにがだ」
「嫌なの。絶対に嫌よ、あなたは私の弟。私のなの」
かつての記憶が蘇る。幼い頃、オレや白愛を守るように手を引き、誰よりもオレたちを想っていた姉。
彼女の言葉に込められた愛情は、揺るぎないものだった。
「オレも……オレも……だ。姉さん、あんたが大好きだ。だが……オレは沢山の思想が違う人達を手にかけた。考え方が違うというだけで、殺した。身内だからという理由で、特別に見逃すわけにはいかないんだ」
影人の細胞に浸蝕された彼女の身体は、もはや元に戻せない。今のオレは、その事実を誰よりも理解している。
因果や摂理が拒否していると分かっているからこそ、蛇足な思考をシャットアウトしている。
それでも――まだ間に合うかもしれない。
虚数空間の情報履歴は遡れない。ゆえに外界の虚数情報は『再構築』できない。
だが、今のオレならば―――。
静かに権能を起動し、杏子を助けるために手をかざす。
だが―――。
「やめて。私はやっと……死に場所を見つけたんだから」
オレが伸ばしかけた手を、杏姉はかすれた声で制した。
「……分かるわよね。人間なんてのは生まれつき、どこかで自分を許せない生き物なの。大なり小なりはあっても、みんな、それは同じ」
オレは震える手で『再構築』を発動しかけた手をしまい、その代わりにマフラーを強く掴んだ。
「劣等感かもしれない、容姿かもしれない、性根かもしれない。差別かもしれない、人種かもしれない、弱さかもしれない。――嘘、かもしれない。人は何かしら自分を責め、罪悪感を抱いて生きてる」
静かな声だった。何の未練も、迷いもなく紡がれてゆくセリフだ。
「けれど、それを許せるのは――自分だけ。自分を許せる最良の人は、どこまでいっても自分でしかないわ」
彼女はみるみるうちに衰弱していく。
「辛かったわ……名瀬家を一身に背負って、責任重大な第一派遣の諜報潜入官に任命され……。そういう見えないプレッシャーに堪えられなくて、とうとうドーピングに手を染めてしまった……」
「杏姉……」
「やっと罰せられる。裁かれる。私は今、そういう風に心から救われている」
安堵にも似たその表情を見て、確信する。
やはり杏姉は、この結末を受け入れ、むしろ望んでいたのだと。
「……そんなこと、誰が望んだ」
「私が。……もう、楽にさせて……」
低く、搾り出すように言う。
「オレは……オレは、杏姉を……」
「うん。知ってる。知ってるわ」
視界が完全に見えなくなったのか、彼女は手探りするように宙を掴む。その手の動きは、まるで無力な子供のようだった。
「統くん……どこ? どこなの……」
杏子の声は今やほとんどか細く、聞き取れないほどだった。
オレはそっと手を伸ばし、彼女の手を握った。
かつて何度も甘え、助けられたその手は、もうひどく冷たくなっている。
「ここにいる」
「ふふ……そっか……」
彼女は少し笑った。
苦しみの中で見せる、柔らかな笑顔。そんな彼女の姿が、胸の奥で重くなっていく。
だが、オレも少し笑うことにした。
理緒には最後まで悲しい顔を見せてしまったからな。
「進む道は違っても、私は弟を誇りに思うわ」
その言葉が、まるで時間を止めるように響いた。
「杏姉。オレの姉さんになってくれて、ありがとう」
彼女の手の温もりが、そっと消えた。
すでに、その瞳が閉じられていた。
オレの餞を最後まで聞いたのか。それは分からない。
だが杏子は、微笑んだままだった。
まるで、すべてを受け入れたかのように。
すべてを許し、許されたかのように。
何ひとつ、やり残したことなどない、と言わんばかりに——。
「……ッ」
珍しく、オレの手は止めどなく震え続けていた。
もう一度、マフラーを強く握りしめる。
「理緒……今回はちゃんと笑って見送ったぞ」
そう言って、オレはゆっくり両目を閉じた。
*
――それから。
杏子との死闘を終えてオレが戻ると、そこには水瀬姫奈が心配顔を浮かべ、待っていた。
「聞きたいことが山のようにあるけど……杏子さんは最期、何か言ってた?」
「おまえに対しては何も」
「そう……」
分かっていたようでそれ以上は深掘りしてこなかった。
「あの……彼女の遺体は?」
「杏子が亡くなった直後、どういうわけか『碧凍』の氷に監禁された」
「えっどういうこと? 空間を凍らせる能力で、自らを凍結させたってこと?」
「ああ。どうやら死後に発動する自己監禁術式を展開していたようだ。影人細胞を植え付けるドーピングの証拠隠滅を図りたいなら抹消したはずだ。何か、遺体を残しておくメリットがあると考えたんだろう」
「なに、そのメリットって」
「さあな。皆目見当もつかない」
「分からないんだ……」
姫奈は「あなたでも分からないことがあるんだ」というニュアンスで言ってくるが、オレにだって分からないことは沢山ある。
たとえば――この、絶対命令の王の能力。
今はだいぶ薄れてきているが、その正体も性質も謎だ。
この王の能力は確かにオレの中に存在している。だが、手を伸ばせばすぐそこにあるはずなのに、指先をすり抜けていくような感覚で、現在は発動できない。
オレが起源の力を「権能」以外の形で顕現させたのは、これが初めて。
きっかけは、おそらく杏子との魔力的接触。
しかし、妙だ。
不可測な事態だったとはいえ、過去にオレは何度も杏子に触れている。
なのに、なぜ今になって起動したのか――その理由が分からない。
「あなた……どこまで分かってたの?」
ふと、姫奈が尋ねてきた。
***
「……あなた、どこまで分かってたの?」
姫奈の声が静かに夜の空気を揺らした。
「何がだ」
統也の声はわずかに力を失っていた。普段の冷静な響きとは違い、どこか遠くを見つめるような、そんな余韻があった。
「あのあと色々考えた。もしかして、私を助けるために……私を仲間に引き入れるために……幸太郎と龍也を先に始末した? とか」
その問いに、統也は答えなかった。
ただ、静かに姫奈の視線を受け止めた。
「あなたが杏子さんに勝ってしまったら、忠誠心の強い彼らはどうせ処刑される末路。だから……」
「どうだろうな」
そのあとすぐに向き直り、歩き出す。
姫奈はその背を眺めた。
その蒼い瞳の奥に何があるのか。どんな景色を映しているのか。
彼の眼差しを追うほどに、姫奈は自分が何も知らないことを思い知らされる。
この人は、いったいどこまで見えているのだろう。
どこまでの未来を、その手に収めようとしているのだろうか。
姫奈は決意する。
――この王についていこう。
この人が見る景色を、私も見たい。
この人が歩む道を、私も共に進みたい。
統也は、姉を喪った。私も、主を喪った。
それでも、彼は前へ進むことを選んだ。
迷いも、後悔も、彼の瞳にはもう映っていない。
だから、彼の隣に立つには、自分も迷ってはいけない。
姫奈はそっと息を吐く。
夜のしじまが、二人の間を包み込んでいた。




