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秘話 笑顔の向こうに



 ***

 


 二〇二二年十月七日。夜の帳が降りる頃、静まり返った街の片隅にひっそりと立つ喫茶店があった。その扉を押し開けると、かすかに漂うコーヒーの香りと、柔らかな照明が迎えてくれる。


「遅かったね。おかげでナンパされかけたのだけど」


 カウンター席に腰掛けた女性が、低い声でそう告げる。私服姿の天霧茜だ。

 薄手のアイテムをレイヤードし、白のライトアウターで寒さ対策をしているようだ。物理攻撃は防げても寒さは防げないらしい、と内心で思う。

 彼女は常に冷静で、感情を表に出すことは少ない。しかし、今夜はどこか機嫌が悪そうだ。

 それに、彼女の発言には少しばかり誇張が混じっている。茜は男性たちの熱い視線を集めこそすれ、ナンパされることはない。

 気の強そうな猫顔に加え、凛とした雰囲気も相まって、声をかけにくいのかもしれない。


「悪い、少し寄り道をしていた」


 マフラーを直しながら、ゆっくりと席に着いたのは名瀬統也。彼の態度は変わらず落ち着いており、茜の苛立ちを意に介する様子もない。ここで「早く会いたかったのに」などと駄々を捏ねても無駄だと、茜もよく分かっていた。


「で、話って何?」


 カップを手に取り、ひと口コーヒーを啜る。その余韻を味わう間もなく、左手を横に差し出し、素早く防音結界を張る。

 統也もそれに倣い、静かに頷く。


「オレは今後、杏子をけしかける。その時が来れば話すが、周囲は不測の事態だと慌てるだろう。オレを暗殺するか、不穏分子として処理するか、手段の程は分からないが仕掛けてくるように仕向ける」

「盗まれた三つの特別紫紺石によって新たな知性影人シーズが誕生して、雹理勢力が強まる……その前に動くってこと?」


 統也は沈黙で返したが、これは同意を示す。茜は小さく溜息をついた。


「考えなしだとは思ってなかったけどさ……」

「そうなのか?」

「うん。……で、それを私に話してどうするつもり? 何か特別に頼みたいことでもある?」

「いや、別にないな」

「でしょうね」

「ただ、杏子に無策で挑むわけにはいかないと言ってるだけだ」

「下手な小細工は意味ないと思う。それとも、真っ向勝負のために領域の修練でもする? ついでに『固有領域』まで習得して? そうすれば杏子相手にも領域で勝てるかも……なんて」

「それもいいかもな」

「冗談に決まってるでしょ。言っておくけど、どんな異能演算に長けた天才でも、習得に最低五年かかる」


 軽快なトーンだったが、鋭い声色へと様変わりする。領域の極致「固有領域」を習得した数少ない人間の実体験。

 並外れた保有魔力総量だけでなく、結界術の運用にも長けていなければ展開することはできない。領域で押し返す以外、対抗法らしき対抗法が存在しない超高等領域構築だ。

 茜はこの技を凄まじい練度で扱える自負があり、統也が領域を強化したいがために話を持ち掛けたと早合点した。


「安心しろ。そこまで面倒なことはしない」


 茜は腕組みを解き、統也にその真紅あかき瞳を向けた。

 ――何か考えがあるってこと? それに対し、統也は無言で答える。

 ――そうだ、と。


「オフレコで頼むが……新しい技術を開発したい。おまえにはそれを手伝ってほしい」


 茜は華奢で小さい腕時計を一瞥してから結界を解くと、迷うことは何もないとばかりに立ち上がった。

 外では、街灯の淡い光が雨に濡れた路面を照らし、静寂の中に微かな足音だけが響いていた。



 ***



 午後十時頃。静寂に包まれた「矛星ステラ」の訓練施設の一室。貸し切っているが、念のため防音・防視・防熱結界を張り巡らせている。ガラス越しに隣接する研究室で、統也と茜は机を挟んで向かい合っていた。


「分かっていると思うけれど……もう一度言う。領域に対抗できる技術が領域しかない以上、統也に勝ち目はない」


 茜が胸下で腕を組み、冷静な口調で告げる。領域の押し合いが不得手な統也が杏子に勝つためには、領域に頼らない新たな戦術が必要だった。だが、それをどう実現するかが問題だ。


「ああ。だからオレは、《《領域内でも機能する》》対領域術式を考えた」


 統也はそう言いながら、机上のA4ノート1ページに展開した演算数式をシャーペンで示す。


「作法は『虚空』を還元、といったところか」

「へぇ……面白いね」


 茜が数式に目を通し、興味深げに目を細める。


「純虚数の魔力子マギオン単位を四つ、指向性を持たせ射出。対象領域の一点で『再構築』して虚数iの四乗を誘発し、『虚空』の効果を還元、自動発動させる……ということ?」


 茜は数式や演算式を見事言語化して尋ねる。脳内を覗かれたような発言に、統也は少し驚いたように頷く。

 領域内で肉体から術式を発動すれば、魔力波パターンの干渉によってバグを生じる。ならば術式を、肉体を介さず発動すればいい。

 言わずもがな統也の権能アークは固有術式ではないため、魔力波を生じない。波動干渉、術式機能の不具合は生じない。


「『虚空』は空間初期値に虚数単位を四回掛けてリセットする術式だったよね」

「そうだ」


 端的に言えば「C×i×i×i×i⇒C」という流れを作り、空間を初期値「C」に戻すというもの。


「確かに、成功すれば領域内部で術式を発動できる可能性はあるね」

「問題は、マギオンの変位制御だ。理論上は成立するが、実際には微視的、つまりミクロのレベルで見ると、虚数解のマギオンが定位置に集まらない。四つのマギオンを完全に一致したタイミングと座標で『再構築』するのは不可能に近い」


 統也が指摘すると、茜は静かに考え込んだ。その顔を眺めていると、茜が「何?」と不満そうな顔をしたので慌てて「いやなんでもない」と返した。綺麗だなと思った、これが本心だが心のうちに留めておいた。

 統也は机上のノートパソコンに目を落とす。術式の発動プロセスをシミュレートしていたはずが、どうしても最終計算が破綻する。そう、四つのマギオンを一点に、しかも数マイクロも違わず収束させるのは困難だ。

 彼は深く息を吐き、視線を隣に向ける。


「……一応ボトルネックは判明している。さっきも言ったが『虚数解のマギオンが定位置に集まらない』。このせいで『再構築』が機能しない。おのおの分散した状態を浄眼で記憶すれば『再構築』できるが、それは論外だ。マイクロ単位の、それも何兆通りの状態を記憶することになる」


 彼の言葉を受け、茜は腕を組んだまま無言で画面を見つめた。やがて独り言が、透き通る声で響く。


「単純な話、集まらないなら無理やりにでも《《集める》》仕組みを作ればいいだけ。もっとも、従来の術式理論ではそれは無理なんだけど」


 その後、不意にピコっと鳴り響く。統也のノートパソコン画面右下に現れたメッセージ通知を見て、茜はジトっとした目線を統也に向ける。


「へぇーー、ふーーん」


 送り主は雪華だった。「こんどお出かけしない?」「暇な日時教えて〜」「あ、私は緊急招集がなければ来週ずっと暇!」と立て続けに送られてくる。


「はははーー。随分と仲良しなんだねーー」


 引きつった笑顔を浮かべつつ、抑揚のない声でそう言う。少し怖い。


「そういえば雪子博士とも仲良かったよねぇ。姉妹をたぶらかして楽しい? ねえ、楽しい? 統也? 聞いてる?」

「いや、待てよ……」

「ちょっと? 統也?」

「そうか」


 統也の目が鋭く光る。


「え、話を逸らす気? 男ってなんでこう……」

「――雪子だ」


 統也は天啓のごとくひらめいた。そして口にする、打開をもたらす人物の名を。


「堂々と浮気宣言?」

「違う。だが彼女が、間接的に力を貸してくれる」

「雪子博士? が、どうかしたの」

「ああ。雪子のVAI理論を応用するのはどうだ」


 VAI理論(バーチャル・アフター・イマジナリーナンバー、Virtual After Imaginary number)――虚数術式によって投影された後の付随事象は、実数空間(現実世界)による環境下では通常の物理現象として親和しない、という仮説。日本語では虚数理想環境理論と呼んでいる。茜の「虚数電荷」や理緒の「絶対零度」、旬の「ディラックの海」、他「ヒッグス粒子」「暗黒物質」「第5の力」などの仮想状態を実現するものだ。

 これを応用すれば、簡易的な吸収効果を作り出せる可能性がある。


「……なるほど、それなら可能かもしれない。純虚数のマギオンを次元プリズムにすれば当然、実数空間に親和性を持たない。だからこそ、座標が乱れ、『(マイナス)』を補正する圧縮が生まれる?」


 統也の言葉をヒントに得た茜の発想は理論的であり、実用化の可能性が高い。『蒼玉』で既に、その空間効果は確認されているからだ。

 次元プリズムとは、マギオン情報体が付与された情報次元をそのまま打ち出す形式やそれ自体を指す。

 統也は平時より冷静沈着で、腕白や無邪気とは程遠いが、目を輝かせた(ように茜には見えた)。


「マギオン虚数解を簡易的な吸収効果で誘導し、合成。微視的な位置エラーを補正。要は、虚数マギオンの動きを『限定的な吸収』によって整える」


 統也は自分の言葉に納得するように二度頷き、すぐさまノパソに向かい、新たなプロセスを組み込む。

 茜もノートにシャーペンでスラスラと数式、演算式を書いていく。見たところ「ディラック方程式」「負のエネルギー解」の類がズラリと並ぶ。

 それから三時間弱、補助し合い、二人で交互に計算を進めた。


「これなら、純虚数のマギオンを一点に収束させられるかも」


 ノートとノパソを見比べ、茜は微かに表情を緩める。


「そうだな……。だが、まだ終わりじゃない」


 あくまで数式上の理論的な処理を終えただけ。ソフトウェアとハードウェアで言う、ソフトウェア。理論と実践の往還は必要不可欠だ。

 しかし統也は不安げに掛け時計を確認する。夜更かしは肌の敵、そんな懸念を内心に抱いた。最低限の心遣いだ。


「茜、もう一時を過ぎてるが……いいのか?」

「ん、別に構わない。統也こそ明日学校は?」

「休めばいい。どうせ異能士権限で有休を取れる」

「それ、ただのサボりだから」

「そうとも言うな」

「そうとしか言わない」

「まあ取りあえず、あと数時間は続く見込みだ。徹夜はほぼ確定だな」

「だから、大丈夫だって。私も手伝うよ、この術式が完成するまで」


 旬譲りなのか、凛譲りなのか、はたまたディアナ譲りなのかは分からないが、そうと決めたら最後まで曲げない性格のようだ。

 分かった、と統也は諦めて休憩を取ることにした。


「けどシャワーは浴びたい。私備え付けのシャワー室借りるけど、統也は?」

「後で入る」

「ん、了解。覗かないでよ」

「当たり前だ。覗くわけないだろ」


 統也は見向きもせず作業に没頭していた。


「覗いてくれてもいいのだけど……」

「どっちだよ」



 ***



 ユニットシャワールーム。シャワー水栓はもちろん、排水や換気設備を備えたスペースがあるのは、訓練施設として当然だろう。

 熱を帯びた湯が茜の細い肩を伝い、滑らかな肌を濡らしていく。指先で黒髪をかき上げながら、彼女はシャワーの下で静かに瞬きをした。


「ふぅー」


 湯気の中、露わになった肢体は気高くも妖艶で、滴る雫が光を反射して煌めく。

 熱い雫が滑る太ももに、彼女の指がゆっくりと這う。しなやかな手つきはどこか無意識的で、それがかえって艶めかしさを際立たせていた。


「……はぁ」


 肌に残る湯の温もりを確かめるように、そっと撫で上げるたび、もし統也に触れられたら――そう考えてしまう自分に、思わず頬が熱くなる。


「私、何を……」


 蒸気の中、黒髪の隙間から覗く紅い瞳が、ひどく濡れて揺れていた。



 ***



 二人は共に水分補給やシャワー、仮眠などを済ませ、再び机に向き合う。


「記憶、射出、収束、『再構築』、そして第五フェーズ『虚空』の誘発。……その後の領域内の様子が知りたい。具体的にはマギオンの密度変化や過渡現象といった要素だ」

「うん。ただ、それは実際に試してみないと分からない」

「ああ、やるしかないな」

「《《やる》》? 何を」


 無表情だが、統也は意味深にガラス越しの訓練室へ目を向ける。


「えぇ……真面目に?」

「……茜、おまえの領域を展開してみてくれ」


 薄々そんなことだろうと察していた上に、それしか方法らしき方法がない。仕方ないと溜息を吐くと、研究室を後にする茜。統也はそれについていく。


「分かった。殺さないように気を付ける」

「お手柔らかに頼む」

「冗談に決まってるでしょ」


 適切な位置に着くと二人は試行錯誤を始めた。

 早速、統也が純虚数マギオンの射出を試みる。しかし大前提、四つのマギオンを同時に放ち一点にて一致させるのは至難の業だった。幾度となく試みるも、三次元座標の微妙なズレが発生し術式が破綻する。


「……やってみて分かったけど、これって同時に四発の銃弾を撃って、それらを空中で完璧に繋げるのと大した変わらない。できたら神業よ」


 茜が冷静に言い放つ。これはこれとして不可能だ、という意だった。


「それくらいの精度が必要ってことだろ。幸い、オレは《《眼》》に恵まれている」


 それからおよそ六時間が経過した。ぶっ通しの作業。すでに三十四回目の実験だ。

 繰り返されるトライアンドエラー。今度こそ精密に調整され、理論通り術式が発動するはずだ。

 茜は硬い表情を浮かべ、静かに手をかざす。その瞬間、空間が歪み、ルビー色が煌めき、照準が拡がり、圧倒的な魔力が満ちた。


「準備はいい?」


 統也は顎を引き、新型術式を準備する。息を整え、三十四回目の作業――演算を組み立てる。今度は茜の提案した最適化(それぞれをフェーズに分け、領域とのタイミングを調節しながら確実に遂行していく設計)を試していた。


 ――『天帝威光』


 すべてのプロセスにタイムラグはほとんど許されない。統也は四つの純虚数マギオンを、次元プリズム原理により射出。それは指向性を持ち、茜の領域『天帝威光』へと撃ち込まれる。VAI理論の「現実世界の排他性」による吸収効果で、微視的な座標補正。そして『再構築』の瞬間、統也は全神経を集中させた。


「――今だ」


 ―――(アーク)―――


 これで、演算通りならば―――。

 四つの純虚数マギオンが一点に収束し、「i⁴=i×i×i×i=1」が再成。その後自動的に『虚空』の効果が誘発され、領域内部に微小な破綻が生じる。


「……来た」

「成功、か?」


 張り詰めた空間だったが、茜の表情がわずかに驚きと喜びに変わる。


「そうみたい。やるじゃない」


 統也は静かに深呼吸すると茜とハイタッチを交わした。胸の奥に広がる達成感と高揚感が、わずかに彼の口角を持ち上げる。『虚数再成』――領域に対抗するための術式が、今、完成したのだ。


「新術式の完成はした。だが、これだけでは不十分だ」

「領域に綻びが出来上がっただけだしね」

「この破綻の瞬間に『解』を撃ち込んで、領域全体を破壊する。そこまでやって初めて、この技は完成する」


 これもまた実際に試すしか手段はない。


「……ふっ、へへ」


 不意に、柔らかな笑い声が静かな空間を震わせた。

 普段の茜からは想像できない無邪気な笑顔に、統也は一瞬目を見開いた。心臓が早鐘のように打ち始め、思わず息を呑む。


「どうかしたの。時が止まったようになってるけど」


 茜はくすくすと笑いながら、統也を見つめた。


「いや……おまえこそ、どうかしたのか」

「どうも?」


 領域内での、という定義ではおそらく世界初の対領域術式。その先駆者パイオニアとなった彼の偉業達成に、頬を緩めた。

 茜は知っていた、統也は何気に術式開発も得意だ。基礎工程単一加速魔法術式[瞬速]を開発したのも彼だったりする。異能者でありながら魔法を開発した最初の日本人。そうした功績の積み重ねを知る彼女にとって、その瞬間に立ち会えたことは心から喜ばしいことだった。


「おまえがちゃんと笑ってるの、初めて見たかもしれない」

「大げさでしょ。それより、『解』まで合わせでやってみて、それからジャストなタイミングを加味すべき。実践で使うなら、必要。……使うんでしょ? この技」

「当然だ。オレが杏子の領域に勝つには、これしかない」

「うん、手伝うよ」


 茜の言葉に、統也は改めて彼女の存在を感じ取る。二人は再び術式の改良に取り掛かった。

 領域に対抗する新たな手段を、その手で完成させるために―――。




・補足

 マギオン解、という用語を使ってますがこれは二次方程式(異能術式)の解(魔力)であるという意味そのまんまです。虚数術式の解はマギオン虚数解ということになります。

 ちなみに統也の第一術式『解』は解体という意味ではなく、二次方程式(異能術式)を「解」(魔力)まで分解する、という意味の字となってます。


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