『forget-me-not』
(後ろですかッ!)
ネメは急ぎめに反転剣のトリガーを引き、見られたくない影人化を果たして、紫の電撃を帯びるのと同時に、軽やかな身のこなしで振り向いた。
それは統也の気配が背後へ移ったという確たる気配を浄眼にて感知したから。マナ経由のレーダー的な探知であり、寸分の狂いもない。
浄眼は情報次元という物理次元と別の次元空間に視界を移すため、彼の気配が後ろに在ったという状況は覆らない。
そうして背後を反転剣で切り裂くがしかし――、
「はッ!?」
――いない!?
「どこ見てんだ」
ネメは振り向いた後すぐ、声がした方に振り向く。そうしてかつての正面を見た時、微かに名瀬統也の影を視認した――気がした。何故、気がしただけなのか。
そう――彼はまず間違いなく、この世に居ない。そう浄眼にて結果が出力される。王の眼でさえ、そう結論付けるのだ。
何故なら、名瀬統也という実体を把握できないからだった。
「――――」
彼の移動速度が速すぎるあまり、その視認という概念に達しない。感覚細胞への刺激も、脳内までの情報伝達をも許さないのだ。
(速すぎる……ッ!!)
ネメは、周囲をぐるぐる回る存在に、否、ネメを周回しつつ点在し、確かに残像だけを残すマナ気配を捉え、驚愕し、佇み、茫然とするしかない。
「なんですッ……これは……! あり得ない……」
マナ気配はマナの流れによる相関的な情報を読み取っているに過ぎないため、これまた情報処理までの脳内の伝達へ拒否が発生し、彼を視認、認識することは叶わない。
感覚を研ぎ澄まし、どこから彼の攻撃が来るか、見切る準備をする。彼の攻撃を反転するにはただの『反転』では事足りないと理解しているからだ。
「いつまでそうやって――!!」
――ネメは、気づいていた。
「名瀬統也ぁ――!!」
――この時点で、既に、気付いていた。
「私の周りをランニングして、楽しいですかぁッ!!」
この速度を持って尚、彼が彼女に攻撃を繰り出さないのは、第零術式『律』の疑似的時間停止で他物体に大きな影響、作用を及ぼすと、その光速度規模の運動量、運動エネルギーの反作用、撃力にて自肉体への強い反動が懸念されるから。
そのリスクを無視し他物体に物理干渉できるのは、空間制御領域を自身のマナ標準で押し広げた、正真正銘の領域構築『時空零域』のみ。
更に彼は、ネメがその『反転』能力を拡張し、静止空間でも跳ね返す性質を保っていることを見抜き、時間を停止しての行動は「移動」のみに絞っている。
「くッ―――!」
――ネメは、疾うに気付いていた。
畳みかけるわけでもない、檻での監禁を狙うわけでもない、しかし回遊を続ける名瀬統也。
「何がしたいんですかぁ!!」
動きが俊敏――恐ろしく速いことに注目しても意味がない。演算が壊れた瞬間に再構築されているかのような――恐ろしく速い第零術式の重複発動によってその時間を停止、戻す、停止、戻すという操作を繰り返している点に着目すべきで、
「これは……もしや『再構築』!!」
ネメは自力の推測で辿り着く――真実に。
「まあそうだろうな」
彼は、ついに起源覚醒を果たした。故に完全な『再構築』を使用可能にし、今や人間の認識できるスピードを遥かに超越した自己修復速度、再構築演算、またマナ消費のロス削減に成功している。
(以前は、一回の有機体再構築につき消費する保有マナに重大な欠陥でもあったのか、回数制限のように肉体の再生には限度があったようですが……それも今や無いに等しいわけですか……!)
ネメの思案通り、彼は現在、無際限の再生を可能にしていた。脳が焼けても即時再生することでそのデメリットを帳消しにしている。
「なんて厄介な王様!」
(遠距離の間合いに誘導しても、今の彼なら発散式『青玉』を当然のように放ってくるはず。というか、そもそも時間を停止させ、迫ればいいという話で……)
(彼が領域構築をしないのは、私が浄眼による緻密なマナ制御で原子レベルの事象を『反転』しているから。何かしらのエラーが発生することを恐れての読みでしょう)
(逆に正面切って彼と白兵戦を展開すれば、『逆転破壊』を適用することで私の方が何倍も有利に事を進められる!)
ネメの術式干渉『逆転破壊』は異能発動により現出するあらゆる現象の因子を逆転させ衝突、相殺し、その異能効果を破壊することで作為的に中性状態を生み出す。
因子が難解な複合術式は破壊不可。しかれど、単一術式ならばどんなものだろうと強制中和できる。
ネメは思案する。
――異能『境界』は、
収束式:『蒼玉』
虚数域の級数。空間にマイナスを落として圧縮、周りの物体を吸収する技。
発散式:『青玉』
実数域の無限化。空間を無限に発散させ、広げて全ての物を吹き飛ばす技。
前者には蒼玉「星砕き」と蒼玉「星鳴り」の二パターンがあります。
①「星砕き」が、制御した『檻』内部の空間を押し潰し、ブラックホールのように無に帰す。
②「星鳴り」が、固有の『檻』で収束させた虚像空間を球状にして一定速度で放つ。
――速度というベクトルを持たず、また攻撃に方向性がないのは……私が理論上反転不可能なのは①のみです。
――つまり檻の内部に監禁されさえしなければ、無問題。そして檻での拘束は彼が一番苦手としている。師である旬をあやかって身につくのは発散と収束の式のみ。監禁術は名瀬家相伝の領域構築があるが、彼は虐げられていた影響からそれを知らない!
――名瀬統也の実域、虚域。全て無問題!! 反転できる!!
「絶望を見せてあげますよ! 名瀬統也!!」
ネメは自己の想定において精神的優位という兵糧を獲得。それは異能士、影人にとって自己の成功イメージを確定させ、演算の緩みを補完。更により強固なものにする他、ステータスを底上げする要素ともなる。
「――絶望? 絶望なら知ってるさ。もう何度も味わった」
その発言はずっしりと重く、そして鉛のような味を体現し、何よりも、この世界よりも歪んでいる。まるで何もかもを吸い込むブラックホールのように、力強い低音を響かせた。
どこからともなく降り落ちるその覚悟が詰まる声に、ネメは目を見張りながら、
「はッ! また後ろ!!」
素早く体を翻し、手に掴んでいたオリジン武装「反転剣」を振りかぶり――、
「な――ッ!」
――なんと統也は青い『檻』バリアを上空に水平固定し、そこに逆さで起立していた。
高い位置、『檻』の裏側に立つ。これはおそらく足の裏の空間収束に新たな条件を付けくわえ吸着しているため、術式に術式を重ねた状態。
いわゆる重複発動を、あえて見せびらかしネメを防御主体の消極的な戦闘へ誘っている。
ネメはこれを目の当たりにしてもすぐ、平常心を取り戻す。『再構築』を零秒基準で行える規格外の演算速度を手に入れた彼ならば、壊れた術式を異次元の速さで再構成し、幾らでも重複できてしまう……ように見える。見かけ上は。
「ふうっ!!」
ネメは持てる最大速度の斬撃を繰り出していたが、上空にいる彼に、反転剣の切っ先が当たる訳もなく――。すぐさま逆術式にマナを注ぎ、反転の用意を済ませる。
対する統也は、
「収束式『蒼玉』」
その場で落下しながら収束式の濃い蒼を放つ。それは星鳴り。しかしネメは、速度を持つこれを反転できる。
「何を無駄なことを――!!」
そして統也はその余裕顔を見ても無表情のまま、時間を『律』で停止させ、今度はネメの背後へ周る。
「『◇』――『蒼玉』」
そして更に右に飛び――、
『蒼玉』
そして更に左へ――、
『蒼玉』
ネメはそのほぼ同時に射出された四つの蒼玉に周囲を取り囲まれたが、それなら上へ逃げればいいだけ――そう考える。
「はッ!! これは――!!」
しかし次の刹那、上を向くネメは、頭上に『檻』が展開されていたことに気付く。
そしてこの行動は統也の仕掛けた心理的な駆け引きに過ぎない。ネメが全ての蒼玉を反転せず上へ回避しようとした事実、これがある解釈へと繋がるのだ。
「やっぱりな」
一つの蒼玉は、ネメの反転防壁の周囲に介在する『逆転破壊』膜の効果を受け、術式干渉され、その後方向を反転され、奥の建物に衝突。衝撃波の伝播で窓ガラスと壁が損壊を受ける。
他方もう三つの蒼玉は――何故かネメのあらゆる面を穿ち、
「ン――――!!」
その勢いを保って、反対側に位置する神社のような建物にネメを叩きつける。その様子はまるで蠅叩きで叩かれた蠅。
「かはッかはッ……!」
ネメは『反転』の術式中和における秘密が一つ、暴かれてしまったという考え、その悲観を切り替え、統也の追撃に備えるため、急ぎ建物外へ飛び降りる。
「『◇』」
その間統也は建物に触れ、瞬間的に再構築を発動したのか、建物の損壊は見る間に再生。発動の間は、対象が霞んだように見え、次の瞬間には損壊の無い状態に戻っている。
「『再構築』」
しかも蒼玉の指向性無視で放つ今の攻撃は、統也にとっても半自爆で、『蒼玉』の虚像を近距離で曲率四方向に放った影響により彼自身が負傷していた。しかし傷は謎の霞で消え、衣服に付着していた血の跡も消える。
千切れた彼の腕、分離していた2体も元の位置に引き寄せられて接触し、肉体全体が再び霞み、靄が発生、次の瞬間には2体が元の状態に戻っているという驚くべき再生性能。
「これが、王の権能……? その真価だとでも……!?」
権能と言うにはあまりに強大で、あまりに精緻で、大胆で。あまりに繊細。
そしてその直後、ネメは言葉を失う。
「…………」
話しかけている最中であったが、またしても名瀬統也が消えた。そうして素早く振り返り、空を確認したとき、彼はいた。
「はぁはぁ……はぁはぁ……」
ネメは虚数術式の肉体再生をしながら、空間に『檻』の足場を展開しその高みに立つ彼を見て、逃げたくなった。その押し負けていると分からせられる蒼い瞳を見て、逃避したくなった。
それは、正しい防衛機制だったと言える。明らかなる危険信号だったと言える。
「――――」
対照的に統也は濁った感情を何も抱いていない状態。雑念は全て茜に浄化され、澄み切っている。
荘厳な雰囲気で、その面構えを見せ、ポケットに手を入れ、精神を落ち着かせ、そうして上空の涼風を味わっている。同時に彼女の反撃についても警戒する意図で距離を取っていた。
そう、今の彼に一切の甘えはない。あるのは、圧倒的なまでの――、
生物としての線引き。
その絶対的な王に、ネメはじわじわと精神を壊されていく。
(術式干渉の「膜」――『逆転破壊』を反転防壁の周りに張ってる。その仕組みも、それを瞬時の『迎撃集中』によりカウンターしている事も、名瀬統也に全て看破された……)
その事実が、統也の導き出した解釈であり、また彼女の戦慄であり、脅威・名瀬統也を脅威と呼べるに足りうる根拠でもある。
ネメが術式を中和できるのは、浄眼で制御した『逆転破壊』を張っているからだがしかし、それらは領域構築本体とは程遠い存在であり、膜の様に薄く張り巡らし体積を減らすことでその表面積の拡大を目的としている。故に異能効果の因子を破壊する瞬間だけ、逆術式の密度が高くなるよう、攻撃を加えられた一点に膜が集中する技術を取り得入れているのだ。
それが『迎撃集中』という本来魔法専用の応用技術。
つまりネメは、同時多数でベクトル反転可能。ただし『術式の中和は一定時間内で一点のみ』という弱点を抱えていたのだ。
「やめだやめ」
茜空という天井よりそう提言する統也は、もはや誰にも止められない――、
「――バケモノですよ……あなたは」
そして何より、ネメの蒼いフィルター越しに見える情報が告げる。彼の身に宿すマナの質も、術式の精度も、桁違いに膨れ上がっている。異能者として磨かれた才能を、十二分に発揮している。
一体全体、何をどうしたらこうなるのか。何をどう改善すれば、こんなバケモノに生まれ変われるのか。
――あの、少しイキっていただけの、そうして少し優れていただけの彼が。王冠を持たなかった彼が。
「怪物にバケモノって言われるのは、なんだか心外だが」
ネメがこのバケモノに打ち勝つには――第零虚域の『銀水爆』『超星爆』が必須レベルと思われた。しかしそのための溜めと時間稼ぎが必要であることや、そもそもネメの浄眼の性能が最高水準に達していない現在、極大の演算力が必須のあの技が使用不可能であることは明白。
その勝利への道の思考中――、
「おい怪物、自分の状態くらい把握したらどうだ?」
そう戦慄かす声が響き渡り、ネメは気づかされた。
「は……!? なんでッ!?」
またしても統也は先の空間から消え、加えて自身の左半身が消失。半ばから千切られるように消えていたのだ。
赤い噴水と痛みに合わせて、支える片脚が消え、体勢を崩すのは一瞬。
「脚が……!!」
――ネメは、気付いていた。
完全に生まれ変わった、覚醒した名瀬家の特級異能者を、その躍動を、止めることは叶わない。
この先繰り広げられたのは、ただの蹂躙。
始終統也がネメを圧倒していたのは、彼女自身がよく理解していた。それでも―――。
*
オレはそのまま『律』で動き周ることで、ヤツの注意を逸らし、マフラーの空間斬撃で彼女の両腕を捥ぐ。
「おのれ名瀬統也……! よくもぉッ!」
「お前の術式中和は、二回同時には反転できない。というよりただの『迎撃集中』。その間に二点の攻撃が出来れば実撃を与えられる」
だが以前よりその時間間隔が短くなっている関係から、二連撃は容易ではない。故に一つの攻撃に二回分の術式を含めればいい。
作法は、一回目の術式が反転で破壊された直後、限りなくゼロに近い時間内に二つ目の術式効果「空間切断」を再構築。
「だから、私が負けるとでも言いたいのですかぁ!」
マフラーの空間切断を再構築で即時重複させ、『迎撃集中』の反転中和を無効化し、のちの空間の斬撃を有効にすることで、彼女の肢体を切り離す。ただひたすらに、彼女を削り続ける。
「ああ――そうだ。負ける」
今のオレは、一人ではないから――。君らが見てるから――。
時間停止という遊戯で翻弄しつつ、耳元で囁くが、
「はッ! 右……! いや、左ッ!!」
ネメは、オレのお遊びの相手を出来るレベルにはないらしく、既に疲労困憊を隠せず、ぜいぜいと息を切らす。
「小癪なッ!!」
それでもなお血眼になってオレの転移先を捉えようとしている。
「お前――肉体も精神も、かなり限界だろ。痩せ我慢すんなよ」
「く……ッ! ……そんなことは、問題ではないんです!」
そう主張し反転剣を振りかざしたので、それを興味なさげにマフラーで吹き飛ばし、すかさず彼女の腹に鋭い蹴りを入れる。ずか、と音が鳴り吐血するネメ。
「通常反転の制御さえ覚束ないようだが?」
そうしてジェット機のように吹き飛ぶ彼女の背後に『律』で移動し、背部への横蹴りで勢いを掻き消しつつ、再生した手足を再び斬り落とす。
「ぁ――ッ」
重力のままに落下し、うつ伏せで倒れた彼女の正面側に『律』で瞬間移動すると、
「私はただ……!! あなたに勝って、雹理様に認めてもらいたいだけッ!!」
「は?」
「あなたには一生、分かんない感情ですよぉッ!」
地べたを這い、今までにないほど叫び、必死に再生した手だけでにじり寄り、「反転弾」……勝手にそう呼んでいる空気を反転しぶつける技をデコピンの所作にて射出してくる。
オレは首を傾げ、いとも簡単にそれをかわし、徐々に歩み寄る。
「そうか」
そう言ってマフラーを振りかぶり、最後の一撃を入れようとした間際だった。
突如、オレの浄眼が感知した強い違和感。彼女の周囲に取り巻く異能術式の甚だしい密度上昇。
「ん……?」
「真の王は――この私ですッ」
道路に這いつくばるネメは、その蒼き瞳を誇示するように上目にこちらを睨み、その暗示を証明するかの如く、呟いた。
「第零術式――『禍』」
実数零域の術式解放と付帯して瞬間的に反転防壁に凄まじい強化が施される、その推移をオレの浄眼が捉える。
周囲空間に、零域の術式をマナ標準として高密度で構築していく様はまさに「反転の王」と呼べた。
その反転力は凄まじく、途中から浄眼の情報次元に由来する視界さえ跳ね返され、意味を為さないほどだ。
「領域構築『災厄神霊』」
*
――ネメは異能領域のほとんどを『反転』演算に回し、その「難攻不落」を構築した。
「今だけは逃げるが勝ちです」
会話が出来ている所を見るに、可聴周波数のみ反転しない選別式にしたようだ。おそらく電磁波は見えていないだろう。
光波をも反射することは即ち鏡を纏っているも同義であるため、体感は暗闇の中ってとこだな。
「音波以外のあらゆる事象、影響の反転……それで最後か?」
「最後……? 笑わせないでください。これからが始まりですよ」
「いや、何も始まらない。――『天無二日、土無二王』、雹理が来る前にお前を処刑する」
これは最後の通告であり、自身への戒め。
正直オレのマナ残量は、命に蘇生を受け復活した時から少なめではあった。更に言えば、翠蘭と雪華の肉体に対して再構築を行使し残り僅かと言えよう。
若干足りないか……そう思っていると、折よく猛スピードでこの場に接近する気配をオレの浄眼が感知する。
「お待たせ――統也」
その閃光のような女性は、赤い稲妻の尾を引きながら電光石火で屋根を移動し、到着と同時にオレの左に降り立つ。
ライブ会場付近の現場に残存していた、およそ1000体の影人全てを片付け終わった茜が、この場に合流した。
「仕事が早いな」
茜はすぐに、ネメが這いつくばりながらも「無敵」を纏う様態を視認し、
「彼女、どうして動かないの?」
「反転剣に秘蔵してあった紫紺石を先に破壊した。ヤツの可動作は基礎代謝量に依存するレベルまで後退してるはずだ」
「……? 紫紺石を破壊したなら、そも、彼女は死滅するはずだけど……」
「いや、しお……女影らもそうだった。心臓の働きを失ってないのと、そもそも紫紺石やら起源石ってのは、その宝石にデータファイルを凝縮する技術なんだろ。オレにも詳しいことは分からない。保存しているアーカイブみたいなもので、それを失っても出しているタブは消えないってことかもな」
翠蘭が不死身なのは、自身の肉体やマナといった情報をデータ化して起源宝石にバックアップしているからなんだろう。それを何時でも同期できる条件下に置き、虚数術式による回復等、おそらくはそんな具合で不老不死を実現しているはず。
「ふーん……じゃあ本体の息の根を止めれば、終わり?」
「ああ」
影人の肉体が再生できるのは、核から送られる自己の生体情報が源泉だ。虚数術式の演算速度が、肉体の死滅速度を上回るか否かの問題。
しかしコイツのように、格納データの方から破壊された場合はこの限りではない。つまり再生のための糸口は消えた。
そのまま数歩進み、立ち止まる。反撃の手を残している可能性も考慮し、およそ車三台分ほどの直線距離を開けて、
「ネメ……オレは昔、名瀬家でも追放されるレベルの無能力者だった。……知ってるか? 異能という技術は魔法とは大きく異なり、『配色因子』と『異能領域』という二つが揃って初めて形になる。オレの場合、演算領域は持ってたが、因子が無くてな」
「いきなり、なんの話ですか……」
「無能力者だったオレが、凛の蒼電石という電磁波の影響で檻『蒼』を制御できるようになったのには、ちゃんとした理屈がある、という話だ」
無色な布地に蒼を落とせば、無垢な檻は蒼に染まった。
逆に、蒼の布地に紅を落とせば、その間色に転化するのも道理だ。
「……なにを今更。私は今、反転防壁の最終形態を構築している。いかなる攻撃を何重にしようとも、無駄に響くだけですッ」
そう、コイツにとどめを刺せなかったのは、最終奥義なのだろう反転防壁『災厄神霊』とやらを周囲に決死構築しているから。
それは、術式中和とベクトル反転を『迎撃集中』ではなく普遍化した、ありとあらゆる概念を跳ね返す反転空間。絶対の反転を世界に強制している。
しかし仮の浄眼の環境下とはいえ、かなり無理な強化で、術式や異能演算領域の消耗も尋常じゃない。雹理の救助がなければ、放っておいても数日で死に至るだろう。
「多分、嘘はついてない。今の彼女、帯電による電荷の受理も反転している」
茜は電磁の伝播を読み取るラギアサイトの上位互換、『赫眼』にてその電気的状況を感知した様子。
「ああ、分かっている。一応あれで、雹理が助けにくるのを待っているんだ。その時間稼ぎに全神経を注いでる」
だがネメ、お前は知らないようだな。
「茜、少し魔力を借りてもいいか?」
訊くと彼女は小首を傾げ、
「うん勿論……ただ術式に正味の特質を組み込みたいのなら、統也のマナ回路に私のを直結する必要がある。少しビリッと来るかもしれない。それと……普通にマナで通じるから」
少し怒ったように漏らす彼女を横目に見た。今のオレの意向を全て汲んだ彼女に驚きつつも、承諾と了解の意で頷いたのち、差し出された右手をそっと掴み、互いに握り合う。
いつぞや凛と隣り合い、繋いだあの手の感触と同質のものを感じる。滑らかな柔肌も、伝わる温もりも――同じだ。
「やっぱりな。あれは、茜だったんだろ」
「え……なんの話?」
「いや」
茜の右手と自分の左手を強制リンクし、彼女からマナを分け与えてもらい、また回路を直結することで光励起の補助もしてもらう。そこに媒介はない。
「ん―――」
彼女の予言通り、髄まで痺れるような感電感覚。と同時に、凄まじい電気エネルギーが流れてくる。
正に充電されているような感覚で、茜の壮絶な苦労が、逆境への奮闘が、オレの内に流れてくるように思えた。
「反数の写像は茜に任せる」
「分かった」
「境界――複合『蒼』」
「電界――共役『紅』」
手周りの直列部分から溢れ出し、放電する色彩は彼女の名の通りで、塒を巻くその紅気は明滅する度に外場をオレの術式に侵入させ、違和感なく馴染ませてくる。
「――――」
『統也、大好き』
『好きだよ、統也くん』
『あたしは統也とずっと一緒に居たい。統也のギアとして生きていきたい』
『私にとって統也くんより大事なものはないよ。残念だけど、私は統也くんが大好きなんだ』
理緒、命――すまない。
オレは今、君らを踏み台にして前へ進もうとしている。
確かに君らが好きだったし、大切だった。多分、誰よりも。
自らを孤高と嘯くつもりは毛頭ない。でも自分の心に蓋をして、孤独の意識は変えられなかった。愛されていることを自覚できなかった。
分かっていなかったのはオレだ。
愛を育めなかった。君らと見つめ合えなかった。並べなかった。
どんなに接近しても、心に触れても、どこか独りで、君らのそれを受け入れられなかった。
「好き」という感情……それは紛れもない本心だったと今でも思う。
今でも君らが好きだ。今でも君らに会いたい。今でも君らの声が聞きたい。
でも結局、オレの小さな小さな掌では、誰も守れなかった。
だから――すまない。
「ネメ……お前はオレが会ってきた敵の中で、おそらく一番強い。お前が最終奥義を用いるなら、こちらも出し惜しみするつもりはない」
別にネメや影人という異形の存在を怨んではいない。更に言うなら、憎んでもいない。
単に、自分という無力な存在を認めた記念が、ネメ……お前だった。
オレの考えが足りず、全て自分の知識不足、経験不足が招いた惨劇だと分かっている。
だが、その苦境も全て乗り越えた――ある人と共に。その契機の遠因がお前ってだけだ。
「オレ達の花と共に散れ――」
茜の手をしっかりと握り、そのほとぼりを、その電位を擁したまま、反対の手をコイントスのような手印に。
その握り拳を蕾として、親指の溜めを作り、ネメの方に差し出す。
「はッ……! なにを――――ッ!」
他の異能家の人間は、容易にこの技の情報を入手できない。
オレが第零定格出力『霊』や三宮家秘技『糸槍』についての予備知識があったのは旬と、彼が昔仲良かった三宮桜子が不文律を破り教えてくれたからだ。
それらと並ぶ、異能『檻』の極致。「蒼玉」と「青玉」の複合術式。
名瀬家の秘奥義『檻花』
――放つ空間が個々に、花のような千差万別の色を持つことから。また、その空間純度を維持するため、花のように象る空間を構築して押し出すことから。
「一体、何をッ!! 名瀬統也ぁッ!!」
恥ずかしいことに、以前オレが円山で放ったものは空間の調和を為さず、花形さえしていなかったが。
「じゃあな、ネメ。来世は同志であることを願うばかりだ」
この境地に至った名瀬家異能者は、濃い色と淡い色の空間を抱き合わせ合成する『檻花』にて、それぞれ異なる純色の空間を押し放つ。
名瀬家では、その生得的な「空間純度」――押し出せる空間の濃度、密度のようなものは、可視光「赤、橙、黄、緑、水色、青、紫」の順でその空間純度指数が高まると判明している。
赤から紫になるにつれ、2.999次元のような「仮想の三次元」から「実際の三次元」へ極限的に遷移する。
仮想限界である「青色」を超え、実物の境界線を作る、理論上最高純度は「紫色」だが、人間の異能領域で演算可能な上限は「青色」。
故に異能界では、空間の最高純度は「青色」だと知られている。
無論、オレが自身の術式や異能力に依存し、生成可能なのはその「青色」――「蒼」次元のみ。
だが、それを一個上に伸し上げる特殊解が存在する。
これは――他家の人間は愚か、名瀬家でも極わずかしか知らされない、その上界への到達方法。
――茜の「紅」電界、その電磁場で空間精度を補強し、純度を一段階押し上げる。
「『茈』次元」
掌の開花と同時に親指を弾き、五弁花を象ったプリズム状の空間を放つ。
――複素式――
「『勿忘』」
*
彼はそれを放った。目を瞑りたくなるほどの光彩を魅せる紫の空間を、ネメの座標に向け押し出した。
異能領域に則するガウス平面の実装――虚数と実数の性質を併せ持つ「複素数」の術式。今の統也にとって、それの掌握は至難ではない。
完全に生まれ変わり、覚醒した統也。稚拙に言えば、大人になった統也。理想や願望だけの指標で動くことを辞めた彼の横顔が、私には理解できなかった。
けれど別にいい。そう思う。
その矛先を理解できなくとも、彼に寄り添い、彼の破綻を受け止め、一緒に矯めていくのもまた私の役目。私の命の証。
そんな感情面を度外視にしても、きっとそこに、彼は最強として君臨し続けるから。
最強として彼方を目指し続けるから。消えることない罪と痛みを抱き締めて。
「……っ」
私はその激しい光波と、空間に割れ目を生み出す非スペクトル色、燦爛たる紫を遮るよう小手を翳す。太陽光を直視した時のような感覚にやられ、眼球が麻痺してしまいそう。
伏見旬から一度だけ聞いたことがある。名瀬家には、真に洗練された『境界』を扱う人間にしか伝授されない秘密奥義があると。そして「蒼」の更に上があると。かつての親友が、それを単独で演算した偉才だったらしい。会得難易度は最上級で、旬でさえ防御できないという技。
『んー、なんだろ。当たったら絶望する技ナンバーワン。アレは世界自体を押してるって感じで、防げる防げないとかそういう話じゃないんだよねー』
その攻撃に音や実像はない。実存する物体でもない。ただ空間を押し出したという結果だけが残る。現実世界そのものを削る。
その最高純度を持ってすれば、これを前に不可侵な概念など存在せず、対象は絶対に抉られる。
『雷電家と名瀬家が仲いい理由……「異能共役性」。あまりに複雑な機構で、俺も理解してないんだけど……役に立つ日、来るかもね。愛しのダーリンのためだ。茜は覚えときな』
お調子声でそう言われたのを今でも覚えている。
『「檻花」または「境花」って言って……「蒼玉」の収縮効果を「青玉」の吹き飛ばし効果で相殺し生まれる仮想の花弁型空間を放つ。射線上の全てが、世界丸々消滅する最強の遠距離攻撃。……統也の場合は――』
――“勿忘草”というムラサキ科の青い花にちなむ、至高の一撃。
その花言葉は「真実の愛」。
共同演算は終わった。もう手を繋いでいる必要はない。けれども繋ぎ合う手の力は弱まるどころかよりいっそ強まり、彼に「絶対に離さない」と告げられているように感じた。
そこからくる温もりが私に安心をくれる。幸福をくれる。
「統也」
意味もなく呼ぶと彼は、
「茜」
意味もなく呼び返してくれた。
在りし日とは違い、今は「私」だと判別してくれる人がいるから――。
暗黒の中、手探りで前に進めるかなんて分からない。この世界がどうなるかも、誰にも分からないこと。きっと永らく闇を彷徨うことになる。
それでも、私は彼と歩んでいく。誰にも、この共役を否定させない。
「この先もずっと、オレの隣にいてくれるか?」
彼と進むのは、それ自体が茨の道。過酷な試練の連続。
名前のない感情が右手から伝わってくる。それは、覚悟かもしれない。
二人で道を模索していくしかない。手を取り合ってその茨道を越えていくしかない。その命尽きるまで。
「当たり前のことを質問しないで。約束したでしょ――二人で歩こうって」
言うと、心做しか彼の表情は緩んだ気がした。
「――――」
そうして花形の極光はネメに直撃し、波打つ空間を為し、けれども静寂なままに振る舞い、彼女へ確たる死をもたらした。
*
オレはその静けさに耐えられず、何も考えずに彼女の手を引き、海抜が高めの位置で立ち止まる。そこで西の地平線を眺めた。
「綺麗だね……」
「ああ……君もな」
遥々渡って駆けつけてくれた君に、どん底から救ってくれた君に、オレは人生をかけて寄り添う。
こんなどうしようもない存在を見捨てず傍にいてくれた。折れた自分に必要な言葉、全てを言ってくれた。最後まで見限らず、奮い立たせてくれた。
「ありがとう、茜」
*
世界で一番嬉しいくらい、素敵な「ありがとう」をくれた。
私が今一番欲しい言葉、なりたい気持ち。
凝縮した想いがそこに込められていた気がした。
「ううん、こちらこそ」
すると彼は隠すように、誤魔化すように、ゆっくりと顔を上げ、限界まで赤く染まった空を見上げた。
その陽は沈み始め、今から極夜が訪れることを示唆する。
「耳を、塞いでてくれないか」
残照を眺める統也の頬には、一筋の水が流れ落ちるが、私は見なかったことにした。
未練の水滴は顎を伝い、その色をきらきらと反射しながら、落ちた。
「さよなら……理緒、命。オレは―――、――――」




