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茜さす



 統也の正面で佇む軍服姿の雷電凛――否、天霧茜を見やる。


「茜……なのか? 嘘だろ……? だってそれは――」


 あり得ない、そう言いかけて止めたのは統也が他ならぬ可能性について考慮し、帰結する前提を持っていたから。

 青の境界は彼自身の異能領域が演算している。そうして彼は一時的に命を落とし、脳活動が停止した。依ってその演算は――、


「無理なら私はここにいないはずだけれど」

「茜……君は取り返しのつかない事をしているという自覚はあるのか? どうしてこんな所に来た……? 君はもっと評価されるべき人間だろ……。どうしてこんな希望も秩序もない……いや、今からそうなる絶望しかない、真っ暗な世界に来た?」


 茜という女性が、凛の容姿と性質を持っているという驚愕の事実よりも何よりも、彼女がこんな場所まで遥々渡ってきた――概念や不文律を超えて、アレや海を越えて、そうして統也に顔を見せるまでどれほどの苦悩と覚悟があったのか、それを想像して統也は驚き慄いた。

 何故彼女はそうまでして、覚悟さえ麻痺していると言わざるを得ない禁忌を侵すのか。危険を冒すのか。

 困難や危険を乗り越えて行動に移す、という次元じゃない。許容の域を超えている。全て覚悟の上で、あえてしているのであれば彼女は確実に狂っている。


「なぜだぁ……っ!」


 すると彼女は小さく笑い、


「だって、私がいないと……あなたはすぐに挫折するから」

「は――――」


 ――何を、言っているのだろうか、茜は。

 統也は呆然とした瞳で彼女の紅い瞳を見つめる。いや、そうするしかなかった。

 そんなことのために人生を棒に振ったのか、彼女は。理解に苦しむ。

 茜は悲しげな微笑のまま、しかし毅然とした紅い瞳で統也を射抜く。


「統也。何があったのか私に話して」

「無理だ……」

「話せないなら、私を信じて。私が解決する」

「無理だ」

 

 この感じ、命の時とデジャブだな――統也は場違いにもそう思った。


「統也。私を信じて」


 できない。統也は人を信じた結果、大切な人を失った――二人も。

 理緒の力を信じた。命の言葉を信じた。その結果がこれだ。


「もう、信じた。駄目だった……だからもう、諦めた」


 統也は彼女らを信用したのに、彼女らはそうじゃなかった。だから死んでいく。

 その精神の摩耗は統也にとって絶望へと変貌し、そして、


「――挫折するくらいなら誰にでもできる」


 ふいに、茜が口にした統也への反論だったのだろうか。

 それを耳に流し込んだ途端、統也は言い逃れのできない衝撃を、頭頂から雷に打たれたように受ける。

 挫折なら誰にでもできる――? その残酷な一言を食らい、


「茜……お前今、なんて言った?」

「挫折なら、誰にでもできると、そう言った」

「はぁ……!?」


 動揺という感情の揺れを紅い瞳に宿す茜に対し、歯ぎしりを鳴らす統也の呪いのような声が放出された。はぁ、と。

 茜がこの状況で、この混沌の渦中で、ここまで来たのは確かに凄い。人生も、立場も名誉も、安定した未来も、全て捨ててのことだろう。信じられないくらいの精神力と覚悟、不屈の精神、どれも統也には真似できない。その原動力も定かではない。

 しかし、彼女は統也について一ミリたりとも理解できない。統也の絶望も、統也の苦痛も、何も理解できない。

 それなのに、全て理解したような顔して――冗談じゃない。


「挫折が、簡単なわけない!!」


 耐えきれない鬱憤と炎のような激しい怒りが破裂し、それがそのまま口から先へ。

 しかし怒鳴り上げる統也を見ても、茜は表情を揺るがせない。ここで自分が揺るがせてはいけないと思ったのだろう。


「ふざけるな! オレがただ何もせずに挫折しただけだと思ってるのかぁ!? そんなわけないだろぉ、そんな馬鹿な話あるか……っ!」


 喉が悪夢の叫びで涸れ果てる経験を経て、それでもなおも果たされない、届かない、守れないと思い知らされた統也。彼が見ている景色は、絶望でしかない。それ以外なはずがない。


「戦って戦って戦って、最後に命を尽くした……! それでもなんにも上手くいかなかったぁぁ! なんにもぉぉぉ!! なんにもぉぉぉ!!」


 まるで世界全部が彼を通せんぼし、彼を馬鹿にするように、全ては失うところへ繋がっているように。運命は、その道は、全ての選択肢を塞いで統也を嘲笑するのだ。

 戦って抗った、記憶通り。全てを尽くして、それこそ(いのち)を尽くして(みこと)を守った。

 なのに。なのに――。


 心より助けたいと思った二人すら失って、どうしてそれでもまだ戦えるなどと言える? 諦めるのが早計だ、挫折は誰にでもできるなどと簡単に吐ける?

 統也と同じだけの経験を得て、統也と同じだけの苦痛を味わって、統也と同じだけの地獄を見て、そうしても同じ言葉を吐けるというのか。


「オレはぁ、なんにもぉぉぉ! なんにも出来ないんだよぉぉぉ!!」 


 無力だ。無能だ。何も果たせないのだ。何も果たさせてくれないのだ。誰も守れないのだ。

 異能を磨き、体術を学び、己を鍛え、そうして統也は最強になった。死という際まで体験し、王として覚醒を果たした今、彼は紛う事なき「最強の異能者」となった。はっきり言えば、青は藍より出でて藍より青しと言えた。だがしかし強くても為せないことが存在するのだ。万能じゃないのだ。全能には程遠いのだ。

 だから統也は諦めるしか――、


「統也」


 脱力し、絶望を体中に巻き付ける統也に、茜は堂々と声をかける。

 頭が痛い。喉が痛い。みっともない本音を柄にもなく大声でさらけ出し、痴態を見せた統也は茜の顔を見上げることもできない。

 そんな惨めで、救いようもない、どうしようもない世界に敗れた敗北者に、挫折した男に、


「挫折は誰にでも出来る」

「はぁ―――?」


 彼女の発したその言葉に信じられない狂気を感じ、統也はついに顔を上げる。反射的な行動だった。

 どうしてわかってくれない。これだけ言っても、叫んでも、茜には何も理解してもらえない。


「オレは――!!」

「――あなたは最強だから。挫折なんて許されないの」


 茜が遮った瞬間、統也の鬱憤は、彼女の紅い瞳の圧倒と、真摯な目力に気圧され雲散した。

 彼女は迷うことなくそう言い切った。挫折なんて許されない――と。



  *



 茜はまるで、摂理だと、公理だと、法則だと、それが絶対的に正しいことであるかのように当然に、当たり前だとそう信じて疑わないようにはっきりと、明らかなる強い意志を持って口にした。


「統也がどれほど辛い思いをしようと、何を見てどんなに苦しんでようと、きっと私には分からない。うわべの理解はしてあげられる。寄り添う事も。でもそれを本当の意味で理解するなんてことは、他人には出来ない。出来っこない」

「――――」


 ああそうだ、と統也は思う。


「けれど、それでも、私には確信していることがある」

「――――」

「統也。あなたは誰にも負けないし、負けちゃ駄目。挫けちゃ駄目。世界はあなたの力を必要としている。理緒さんと命さんは、あなたの戦う姿を望んでいる。二人とも、あなたに挫折して、戦う事を諦めて、なんて言ったの? もう戦わなくていいよってそう言ったの?」


 真に目の前で絶望に溺れ、諦めて沈んだ、情けなくて救いようのない男に対し、茜は恥じることもなく、揺らぐことのない言葉を続ける。

 むしろその様子が統也にはどうしようもなく恐ろしかった。残酷なことを平然と言える精神力も、この醜い男にする期待も。


「私はあなたが強い人だということを、知ってる」

「――――」

「私はあなたが、希望を与えられる人だって知ってる。大勢を救える人だって知ってる」

「――――」


 痴態を晒し、無能を晒し、無力感を叫び、絶望を叫び、罪悪感と後悔が入り交じった無秩序で語った男に対し、茜は嘲笑うこともなく、また失望することもなく、屈託のない目のまま台詞を紡ぐ。


「私は全部知ってるから」


 そう言い切るその目に、迷いのような濁りは一切ない。

 彼女の瞳には真摯な紅色だけが存在する。それは彼を心の奥底から信じ、理解する紅色。


 その信じられないほどに強い紅き瞳に、しかし統也は滑稽を隠せない。

 何故なら全ては茜の思い違いでしかない。ただの勘違いで、統也という人間を最強だと買い被った妄言に過ぎない。


「馬鹿だな茜。お前は何も知らないんだ。オレは、なんにもできない無能だ」

「――違う」


 語気を強めて否定を口にする。だが寸分とも違わない。統也は彼女らを救えなかった無能だ。


「だから言ってるだろ。何も違わない。諦めた、全部諦めた。全部救うなんて無理なことだと、初めから薄々気付いていた。両方は無理だって分かってた。あのクルスでさえ分かってた。……オレの掌は小さくて、小さくて、全部零れ落ちるのは当然だった。二者択一の片方さえ残らない……そうと分かっていた」


 そう言って地面に寝かせる命の亡骸を見た。その目には何が映るのか。


「違うでしょう? 彼女らはあなたのそんな悲嘆の材料になるために命を落としたわけじゃない」

「は―――?」


 どこまでも、どこまでも、どこまでも。彼女は統也の諦めを、挫折を否定する。一切認めようとはしない。


「茜にぃ! 理緒と命の……! 死んでいった彼女らの意志が、想いが……! 分かるとでも言いたいのかっ!!」


 激情を蒸した統也は思いっ切り地面を殴りつけて、グロテスクな血を吹きだす。瞬間、起伏する微かな上昇圧力に衝撃波、近辺道路に大規模な罅が入る。


「オレはこの程度の男だ! 無力なくせして二人が気になるとか訳の分からないことを言って、彼女らの好意を利用して甘さに付け込んで、皆巻き込んで、皆死んだ……!」


 これを屑じゃないというなら、なんというのか。

 

「守りたいだのなんだのって言って、結局彼女らを独占していたかっただけだ! それを果たすだけのことは何も出来ない癖に……! オレはその程度の屑だ」


 二人を愛し通せる覚悟もなく、それなのに二人と交わり快楽に溺れたこの無能を。


「いつでも口先ばかりだ! 何ができるわけでもないのにまあ偉そうなんだ! 昔から無能のくせに、悟ったつもりになって達観した気になっていた……! 何様のつもりだ!? 特級異能者ぁ!? こんな屑がよく生きてるよなぁ? さっさと死んじまえまばいいのに!!」


 それでも理緒、命に縋って、彼女らから性欲を貪った。彼女らの好意を好き勝手利用して自分の欲求を満たした。そうして蒙昧な自分のプライドを守ろうとする卑劣。


「分かるか茜? オレは罪人だ。糞野郎のな。何も分からないくせに罪を犯したんだ。なんにも分かってないで。……ああ、当たり前だ当たり前」

「――――」

「オレがこの世界に派遣されるまで、一体どんな人間だったか、お前に分かるか……? そうだな、何をした人間か、茜なら知ってるだろ……?」

「――――」

「この腐った……狂った世界を作り上げた張本人だ……!! 青の『境界』を展開した紛れもない本人だ!!」

「――――」

「この世界のことを知りもしない癖に、因子体(かれら)を差別しないオレは唯一世界を救える存在だと……! こんな大きな世界を救うなんて出来もしないことを宣ってたんだ!!」

「――――」

「差別しないオレは特別。世界を背負っているオレは特別。なんでもできる、人を救えるオレは特別だって心のどこかではそう思っていた! だから平気でここの人を殺せる……ッ!」

「――――」

「オレの無力も、無知も、無能も、無策も全部が全部、オレの屑を証明してる!! これ以上の証拠がどこにある!? なあ、茜……ッ!!」


 屑で塵で、救いようがない自分。情けなすぎる自分。最低な自分。この世界を作り上げた、張本人。償え切れない罪。

 世界はこの「青の境界」という祝福に救済されたと皆そう考えているだろう。しかしそれは真実ではない。それを、茜と統也は知っている。


「オレは糞野郎だ。どうしようもない屑だ」


 人は絶望を見た時、初めて本性が出るのだ。


「……分かってる、本当は。全部オレのせいだ。この世界がこうなったのも、全部。……オレは、死ねばいい」


 自分の嫌いな部分、呆れる部分、元の世界にいた頃からの憂鬱だったそれを、思う存分この場でぶちまけ晒した統也。

 彼は冷静を纏い、生きた。その彼がこれほど取り乱し、文字通り情けなく叫んだことなど今までに一度も無かった。否、あるはずがない。これほどの精神年齢、達観した視点を持つ男だ。最強の青年だ。

 しかし彼は自分を決して認めない。二人を貶め、そして終いにはそれらを零した事実を、決して許さない。

 そしてそれだけの混濁した想いをぶちまけて、その矢先でも自分のことしか考えていない弱さが何より馬鹿馬鹿しかった。


 まあそんなものだろう――統也は悲観の末思う。

 自分の嫌悪する部分を、最悪な部分を、欠落した部分を叫んだところで、それが改善に繋がる訳でもない。逆だ。それどこか、目立った闇と罪は途方もなく深く、改善しようと贖おうと、そういう気概さえ容易に奪っていくのだ。それは統也に諦めるという感情を生ませ、そうして自死を望むように誘導する。


 ぽっかりと空いた大きな穴は、そのまま名瀬統也という人間が足りない人間であることの何よりの証明だ。QED、そう書き、終わることだ。それと向き合いなお抗う気さえ起きないこともまた、それを裏付ける消極的な要因となる。


 屑で無能で、何も成し遂げられない故に全て失った、腐った青年。何もできやしないのだと自ら言い聞かせ、全てから手を離そうとした青年に、長い黒髪の女性はついに見限り――、


 否。


「そんなことないよ」


 信じられないほど柔らかに、澄んだ声で、そう告げた。

 ――茜は、統也を見限ることはなかった。


「少なくとも私は、統也をそんな風に思ったことは一度もない」

「嘘、だろ……」

「統也がどんな風に自分を卑下しようと、私は私が知ってる統也しか知らない。だから、そんな屑で無能な統也を、私は知らない」

「本気で、言ってるのか……」

「知っているのは、最強の名瀬統也――。優しくて、温かい、私の最愛だけ」



  *



 絶対不可侵の愛に、揺るがない信頼に、統也はかつてない恐怖心を抱く。

 どんな異形の影人と出会っても、どんな強敵と相まみえても、ネメと対峙してもなお生じなかった恐怖という感情が彼を取り巻いた。

 これほど善良で何にも侵されない感情を正面からぶつけられたことが今までで一度もなかったからだろう。


「あなたは屑じゃない。無能じゃない」


 自らを罵倒し、あれだけ醜悪な本心をさらけ出したのに、うちに抱く自身の屑っぷりを告白し、事細かに証明したというのに――。

 茜に八つ当たりし、憂さ晴らしで彼女の気持ちも考えずに「大嫌いだ」と、あれだけの拒絶を提示したというのに――。

 どうして彼女は、優しさ溢れる目で統也を見据えている?


「きっと理緒さんも命さんも、同じ風にあなたを見ていたはず。あなたに魅力があるから二人ともあなたを好きになった。それ以外の理由なんてないはずだけど」

「……お前は分かってない。オレの本質を、何一つとして理解しちゃいない。オレのことは、オレが誰よりも理解してるつもりだ……。彼女らはそんな風に思ってない。二人とも今頃オレを怨んでいるはずだ……。天国で、オレを哀れんでいるはずだ……」


 ――瞬間だった。


 バシン――鞭が打たれたような音が一帯に木霊する。


「っ―――!」


 と同時、統也の左頬に焼けたような感覚、しかも瞬時に見えていた景色がスライドし、いつの間にか右側奥の電柱を見つめていた。

 統也は、茜の平手に強くビンタされたのだ。


「いい加減にして――!」


 反射的か声を荒げた茜の、透明な声が響き渡る。

 統也は初めて声を大にした彼女に驚いた。普段感情のない声を発する彼女。しかし今は、誰よりも感情的。驚いてそっちを見た時ようやく、茜の目に大粒の涙が溜まっていることに気付いた。


 統也の卑下の言葉で、彼を大好きな彼女が傷付かなかったはずがない。

 統也の自虐の限りを耳にして、彼女が胸を痛めなかったはずがない。


 統也のことを誰よりも好きな人間が、この宇宙にはもう一人いるのだ。

 理緒、命だけではない――、


「それは、彼女らの生き様を否定する行為。あなたが今、一番してはいけない行為。彼女らはあなたを絶望させたくて死んだと、本気でそう思ってるの? だとしたらあなたは本当に馬鹿。本当に無能」


 それでも、彼女は統也を信じている。たとえこの世界でどんなことが起きようと、彼女は統也を信じている。

 

「私はあなたが好き――。彼女らもそうだった。だから私には分かる。あなたは強くて負けないと、彼女らは信じてる。あなたなら世界を変えると、本気でそう信じてるの。世界の誰よりも。きっと、ずっと――」

「どうして……そんなに……こんな、くだらないオレを……」


 ――こんなに情けなくて、こんなに惨めで、自己の弱さに負けてばかりのオレを、どうしてそこまで信じれる? オレ自身が信じられないオレでさえ、どうして信じれる?

 ――分からない。分からない。一体何が、茜をそうさせる?


「理由なんて一つしかない。私も理緒さんも命さんも、皆……あなたに助けられた。だから誰よりも知ってるの。あなたが温かいこと。あなたが英雄なんだってこと」

「それは……」


「だって、あなたは私の最強――」


 瞬間、夕陽が西の空を茜色に染め、照り映える雲から降りる斜陽が統也をスポットライトのように照らした。


 そして統也は、ようやく気付いた。茜――彼女だけは統也の挫折を絶対に許容しない。

 何度でも何度でも何度でも。立ち上がれと、挫折するなと、全てを救えと、彼女だけは言い続ける。きっとそれが世界の終焉でもおそらく変わらないのだろう。

 彼女だけは如何なる理由があろうとも統也を見捨てないし、絶対に裏切らない。その代わり、何度でも立てと、何度でも頑張れと言う。


「研究所で、自我さえ曖昧になって、ただ暴れ回ることしか考えられなくなった私を、助けにきてくれた」

「いつ……」

「私の角を見て、他の人は皆誰だって鬼と蔑む。どんな人でもそう。けれど統也はこれを見て、特別で可愛いって言ってくれた」

「そんなことが……」

「鬼の証拠だとか、影人と同じだとか言われる赤い瞳を、ルビーみたいで綺麗と言ってくれた」

「いつだ……」

「贋者が本物を超えられないなんて道理はないと、そう言って励ましてくれた」

「いつの話をしてる……」

「私に人間の温かさを、優しさを、素晴らしさ、美しさを教えてくれた」


 知らず知らずのうちに「蒼」が「紅」に与えていたものの多くが今、彼女の口から語られる。

 それらは信じられない程に深く、優しく、彼女の心を埋め尽くし、統也に全幅の信頼として返報される。


「私は死んだ時間に生きていた。生まれてすぐに運命は決まっていた。時計の針は壊れ、それは決して動きだすことはなかった。……変われるわけでもない。(ここ)から出られるわけでもない。天命に定められし贋者としての生涯で、それは変わらないと、実質死んでいた私を――」


 壮絶な過去の片鱗を口にして、茜は母性を隠さず彼に言い続ける。恋慕を優に超えた、絶対なる信頼、絶対なる愛を持って、


「死んでいた時間を、冷めきっていた私を、統也が甘く溶かして、蘇生した。私を優しく人間にしてくれたあの日、あの時、私がどれほどの幸せに包まれ、人の温かさを実感したのか、きっと統也にも分かってない」


 長い黒髪を理緒と同じ仕草で耳にかけ、


「私は信じてる。たとえ誰かがあなたを無能と罵っても、たとえ大切な人があなたを裏切っても。たとえ世界の誰もが統也を裏切って、誰も、統也自身も自分を信じられなくなったとしても――私は永遠にあなたを信じてる」


 言って、二歩、茜が綺麗な挙措で間合いを詰め、統也と同じ高さになるよう膝を折り、脱帽する。

 手の届く距離で両手を伸ばし、茜は俯いている統也の顎を持ち上げ、彼の額に自らの額をぶつける。無抵抗の統也は為す術なく彼女と額を合わせる。

 おでこから互いの熱が互いに伝わる。目の前に、僅か数センチ先にいる茜は統也に、 


「――あなたが、私の最強だってことを」


 額に温かな感触が伝わり続ける。熱が広がり、統也の胸の内に理解不能な感情が膨らむ。それは彼が今までに真に抱いたことのない感情だった。

 それは、

 それは、

 それは――、


「私は、あなたの味方だから。統也のことを絶対に見捨てない。ずっとずっとそばにいる。だから、そんなに悲しそうな顔しないで。ほら顔を上げて、前を向いて」


 立つことを許せなかった足に血が通い、脳内を不快に埋め尽くしていたノイズが晴れる感覚だった。


「たった二人の少女さえ守ることが出来なかった。なのにオレは、のうのうと生き延びた」


 皆死んだ。手が届かなかった。皆死なせた。考えが足りなかった。


「私がそばにいる。もう一人で背負わせない。もう一人で苦しませない。これからは必ず私が隣にいるから。仮にあなたが世界からどんなに憎まれようと、心無い言葉で傷つけられようと、茨の冠を被せられようと、私はあなただけの味方だから。……あなたが何かを背負うと言うなら、私も一緒に背負うから」


 崩れ落ちる何かも、呆れるくらいした絶望も、彼女の愛の前ではむしろ軽く響いた。

 統也の内心が浄化されていく感覚に、彼自身が一番戸惑いを隠せない。

 この世界に、これほどの深い愛が存在していていいものなのか。

 彼女の言葉は、帰納でも演繹でもなく疾うに証明されていた。彼女が自分の安全も、地位も名誉も全てをかなぐり捨てて、遥々渡り、統也の元に駆け付けた。それが紛れもない――彼女の答えだった。


「もっと自分に自信を持って……もっと自分を愛して。あなたは私を檻から出してくれた……救ってくれた。たった一人の英雄なんだから」

「――――」


 理緒も命も、そして茜も同様を口にする。自分の英雄だと。


「私はあなたが大好きだけど、甘やかす気はない。ごめんね。だから残酷でもこう言う。――さあ、立って。私と一緒に戦って」


 凄いと思った。統也は自分が生きている世界がひどく矮小なものに映るほどに、彼女は悠然とし、また彼を無条件で信用している。そこには正真正銘の愛と呼べるとてつもない恐ろしい感情が聳えていた。


「私と一緒に前へ進もう。一緒に歩こう。私の隣を、ずっとずっと一緒に歩いて。それだけでいいの」

「オレで、いいのか?」


 弱気に聞くと、茜は大きめのかぶりを振る。彼女のロングが左右に揺れる。


「統也じゃないと、だめなの」

「――――」

「統也じゃなきゃ意味ない。……あなたの言うことならなんでも聞く。聞きたいの。あなたのためならなんだってする。あなたじゃないとだめ。あなたがいい。あなたが好きなの」

「だがオレは―――」


 そうして再び諦めを口にしようとしても、茜はそれを許さない。


「大丈夫。私がいるから――ずっとずっと。だから立って。ほら――」


 ――いやだが、彼女と共に戦えば、また大切な人を失うかもしれない。今度は茜を。


「もう誰も失いたくない。独りになりたくない……」

「私がずっとそばにいるから。独りにさせないから」

「オレは大切な人を、もう失いたくない。茜を……失いたくない」

「大丈夫。私は強いからすぐには死なない。失わない。……知ってるでしょ? 私はあなたと並ぶ強さを持っている。極論、無敵」

「オレは……」

「もう言い訳は考えなくていい。何度でも言う。さあ、立って――蒼の王」


 彼の中に渦巻く絶望も無力感も全て、彼女は受け止めてくれた。そうして全てを受け入れてくれた。

 統也はゆっくりと立ち上がる。否、そうするしかなかった。そうして自分より身長が低い彼女を見つめた。


 自分でも信じられない自分を、信じてくれる人がいるのならば。

 名瀬統也、彼はもう一度戦ってもいいのだろうか。抗っても、いいのだろうか。


「それでも、無能で無力で、何もできない自分のことを許せないというのなら、生まれ変わればいい」

「何を……」 

「人は変われる、生まれ変われる――そう言ってくれたのはあなたでしょう?」


 この時に、統也は微かな光を見た。それは酷く曖昧で再認識など出来ない可能性。そして記憶の欠片。その言葉は茜に言ったものではない。かつての統也が凛に対して言ったはずの言葉だ。


「君は、まさか――……」

「私が過去と決別し、生まれ変わったように、統也もまた生まれ変わればいい。情けない過去の自分が嫌なら、今、生まれ変わればいい」

「――――」

「他の人があなたを信じなくなっても、置いていっても」


 その青年に凛の贋者は微笑み、地面に落ちていた黒いマフラーを拾い、砂埃を払うと、器用な手つきで彼の首に巻き直す。


「私はあなたの最強。そしてあなたは……私の最強!」


 彼自身が紛れもない最強でも、周囲には、最弱しかなかった。

 言いたくはない。認めたくはない。けど、理緒も命も枷でしかなかった。彼が最強となるための、足枷になっていたことは誰にも否めない。


「――――」

「もう、独りで抱えなくていい。全部、二人で支え合っていけばいい。誰にも否定させない。私もあなたも、互いの『最強』なんだから」


 これほどの親愛と、これほどの慈愛を受けて、立てないなどとどうして言えるか。それこそ屑のすることだ。

 人は変われる。生まれ変われる。どんな無力に打たれた人間でも、やり直せる。


「見せてよ。生まれ変わった統也。生まれ変わった最強」


 茜の紅い双眸と目線を通じて温もりを交換する統也は、そのマフラーの布地にやんわり触れて、


「茜……大嫌いって言って……すまなかった」

「別に。本気なら傷つくけど。それより……謝るより、感謝してほしいかな」

「ああ……ありがとう茜。隣で見ていてくれ。オレの始まりと、終わりを。そしてオレが茜の最強として在るその最期まで」

「うん」


 彼女は小さくしっかり頷くと、左手首に身に着ける腕時計レーダーのマップを提示し、速やかにネメの座標を教えた。統也は静かに顎を引く。


「――――」


 ――オレは茜を見てる。理緒と命がオレを見てる。だからもう、膝は折らない。挫折しない。

 過去も未来も、そして現在も、たとえどんなに醜くもがいても、今は隣にきみがいるから。


「オレは――何度でも立つ。三人のためなら、何度でも」


 ――見ててくれ、理緒、命。生まれ変わるオレを。



 赤が跨いだ、青の境界を。

 最強が手を取り合って、紡ぐ未来を。



 茜が射した――蒼の王を。



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