紫紺石
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それからしばらく特筆すべきことは何もなく安定した日々を過ごしていた。
強いて言うならCSSへの対策や、それを見つけた時の対処法、対応策などが公式発表され、異能界隈に浸透していった。というこくらい。
8月3日(木)、14時頃。夏休み最中とはいえ、通常通りオレは異能士学校に行くため、雑木林に隣接する静かな道を歩いていた。
鳥のさえずりや、蝉の鳴き声がわあわあ騒がしい。
木々から透き通る緩やかな、生暖かい夏風も嫌いじゃない。
極度の冷え性かつ寒がりのオレにとって、この気温や湿度は最適環境。永遠に続いてほしいものだ。
オレの首後ろ、正確には項の辺り……中枢神経や脊髄が通り、マナがよく通う器官系付近に装着された装置、チューニレイダーから青い発光の反射を手首越しに確認。
オレは手馴れた手つきで同調装着に電源を入れ、一定の操作をする。
「どうかしたか」
軽く痛みのような音を伴いつつ、彼女……茜の声が耳に届く。いや脳に届く。
『うん。この間の統也の話……あれの成分分析と物体解析の結果』
こういう形のコンタクトは珍しい。
いつもはオレから連絡、同調することが多いからだ。
『数日前に貰った統也からの情報と報告を元に個人的に調べた』
オレがある事実に気づいたのは、女影に遭遇してからだった。
影が死滅する直前、奴らの身体中央部から突然生成される謎の紫色結晶体。通称、紫紺石。
最近は弱点となる核として周知される物と同物体ではないか。玲奈とそう意見が一致した。
ファンタジーで多々扱われる、魔物を倒した際に生じる魔石のような宝石類だとオレや茜は推測していて、以前から何らかの意味があるものではないかと考えてはいた。
だがまさか、あの一族と関係あるとは誰も夢にも思わないだろう。
その紫水晶が何かと繋がることは元より予想していたし、勘案していた。
初めはただの仮説だった。
『結論から述べると、紫紺石の成分は―――――白夜一族が「霜」で顕現させるマナ水晶体、異能クリスタルと同一の結晶でまず間違いないと思う』
「……やはりか」
紫紺石が紫色のクリスタル、宝石アメジストと似ていると知った時から、オレはこれの可能性を想定していたが確証が持てなかった。
『自然界の水晶は一定の模様配列を持っているんだけど、マナを含む異能クリスタルはその特異性からか特別な結晶配列に作り替っていて、より硬質化する仕組み』
「だがそうなると、白夜家が影人を作ってるのか? いや、そういう訳でもない気がする。これだけの論証が立てられる以上、無関係では無いだろうが、白夜一族が創った生命体なら雪子が知らないはずがない」
『私もそう思う。どちらかと言うと逆……むしろ影人の能力の一部を白夜一族が引き継いだという考えはどう?』
「悪くない。いい線いってると思うが」
『でしょ?』
相変わらずの感情のない声。凍てついた澄んだ声。綺麗で透明感のある声。
だがもう聞き慣れ、むしろ心地いいまである。
「だが、だとしても今のオレにはそれを探るだけの権限がない。せめて矛星に所属さえできれば状況も変わるだろうが」
『そこまで焦らなくていいと思うよ。と私が言ってもあなたは聞かないだろうけど』
「ああ、焦燥感を抱くにはまだ早い。おそらく功を焦る時期でも無いだろう。それは分かっているつもりだ。だが、これ以上何も知らない人が死んでいくのを待つことは、悪の所業に等しい。元々オレは善人じゃない。それでもオレはまだ人間性を捨てきれない」
『別にいいんじゃない? 好きにしなよ。……私はただ、あなたの補佐をするだけ。いつも通りに……』
オレの行動を縛らないこのスタンスが嫌いじゃない。
この天霧茜という中尉には何度も救われている。彼女の目立った活躍はないが、今のオレにとっては必要不可欠以上の存在となっている。
「いつもいつも、すまなく思う」
『え? んと……私、統也に何か悪いことされてるっけ?』
「いや、そういう意味じゃないが、いつも負担をかけていると思ってな」
『あ……ね? でも大丈夫、これが仕事だと分かっててやってる。……それより感謝して。謝罪されるより、感謝の言葉を言われる方が嬉しいから』
率直に話すと、後半の内容をどこまで本気で言ってるのかオレには分からない。彼女の声のトーンから察するに冗談を言っている気もする。
「ああ、分かった。今までありがとう」
『いや、それ別れ際のカップルのセリフでしょ?』
「そうなのか?」
『じゃないの? 今までありがとうって、もう別れるみたいに聞こえない?』
「まあな。ところでKは恋人とかいるのか?」
『はい?』
これだけ大人っぽく冷静沈着で、清楚感ある性格なら相当男性からのアプローチもあるだろうと予測できる。
ならば今の彼女に恋人らしき男がいたとしても何ら不思議ではない。
「だから彼氏とかいないのかって」
『いたらどうするの?』
「いや、どうもしない」
ただオレの心の奥がモヤモヤするだけだ。
『ふーん。彼氏くらいいるよ、それは』
そうか。まあ、彼女ほどの人間ならどんな容姿だろうと一定数には好感を持たれるだろうからな。当然の事柄と言えるだろう。
想像していたようにオレの胸は一瞬締まる感覚を味わった。
「どんな人なんだ?」
『そんなこと聞いてどうするの?』
「番としてなんとなく知りたくもなるだろ。Kがどんな人を好きになり、その人とどんな風に過ごすのか」
彼女の恋人がどのような人で、どのような過ごし方をするのか非常に気になる。
お世辞にもオレは恋沙汰には詳しくないが、だからこそ色んな恋模様を知っておきたいとも思う。
『どんな人……一言で表せば、強い……かな。あと、かっこよくてクールで頭がいい。けど本当はすごく優しくて、面白い人』
いや、どんなだ。それは。
一体どんな完璧超人だ。そのような完全体の男がいるなら、是非とも紹介して欲しいものだ。
「そんな人、ほんとにいるのか?」
思わず口に出す。
『うん、いるけど』
オレの脳内に一人の異能者が浮び上がる。
もしかしてKは旬さんのことが好きなのか?
それなら辻褄が合う。いや、だが恋人というのは違うか。
旬の妻は、伏見沙織という伏見一族の女性。オレも会ったことがある。異界術の修行中に麦茶を出してくれるなど親切にしてもらい、よく記憶に残っている。
「そんな人間、旬さんくらいしか思いつかないがな」
『はい、この話終わり。もういいでしょ? それより統也の方は恋人できた?』
ち、上手い具合に話をすり替えやがったな。
「いや? そもそもオレは凛一筋だ」
『そんなに雷電凛のこと好きなの?』
正しくは凛一筋だった、という過去形が適切だろう。
彼女に振られてからは、気持ちを忘れ、やっとそのしがらみからも解放されたところなのだ。
凛にオレの告白を拒否された時は正直驚いた。
自分に酔っていたわけではないし、油断していたわけでもない。
彼女も何度かオレのことを恋愛感情として「好き」と伝えてくれていたし、親友のディアナや師匠の旬さんも公認するほどの関係だった。決して勘違いではなかった。
だが――実際告白すると――結果は、振られた。
オレとは付き合えないと、そう言われたのだ。
それ以来恋はオレにとっては難しい命題となり、俺に立ちはだかる問題へと化した。
打ち明ければ、オレは里緒や命の気持ちに勘づいている。
彼女らがオレを恋愛的に特別視していることも全て分かっている。だが踏み出せない枷となるオレのくだらない未練と、圧倒的な恋愛経験不足のせいで、なんの進展もない。
別にオレも彼女らが異性として好きなわけではない。
もちろんこれから好きになる可能性もあるがな。
「いや、今はもう好きじゃない。それに告白した直後、世界は激しく混乱し、混沌の時代を迎えた。恋どころじゃなかったというのが率直な感想になる」
その混沌とは言わずもがな「影人」のことだ。
絶影災害と呼ばれる災害は4年前の2月、深夜に起こった。呪われた夜ということから呪夜とも言われているほど。
『もう告白したんだ?』
意外といった口ぶり。多分これは素だろう。
「ああ、かなり前にな」
『どうだった?』
告白の結果のことを言っているのだろう。
「さあな。……ここから先が知りたければ有料にする」
『少し何を言っているのか分からないけど、結局どうだったの?』
オレの素晴らしき冗談は見事にかわされ、結果を催促される。
「旬さんにでも聞けば答えてくれそうだが」
『確かに、その手があったね』
旬を里親に持つ彼女なら、直接聞き出すことなど造作もない。
まあ、だから。今ここで隠す理由もない。
「結論から言うなら振られた。初恋にして失恋だ。笑うか?」
『いや、笑わないけど。私って、人の失恋を笑うほど浅はかだと思われてるの?』
「そうじゃないが……笑ってくれた方が楽な気もする」
茜は配慮のある言動ができる良識の持ち主。オレの失恋を笑ったりしないだろうがな。そんなことは分かっていた。
『任務に成功したら、その後いくらでも笑ってあげるし軽蔑してあげるけど、今はあなたのすべきことを成して』
「ああ、分かっている」
さり気なくオレのモチベーションを高めてくれているようだ。
オレはそっと自分のマフラーを直す。
疲れている時、ストレスが溜まっている時、暇な時など。オレがマフラーに触れるのは仕草の癖だ。
特に意味がなくても触れてその感触を楽しむ時さえある。
『……だから、深夜にギアの里緒さんと戯れ合っている暇は無いの』
急にそんなことを言われるが。
ん? ……ああ、あの時の話か。
ひとつ心当たりがある。
「あれは別にじゃれあってない」
『そう? 私には戯れる男女の会話に聞こえたんだけど』
「完全に誤解だろ。ギアである里緒には恋愛感情もない。ていうか、いつの話してるんだ?」
おそらく、ひと月ほど前にチューニレイダーの同調を繋いだままオレと里緒が繰り広げた会話の話をしている。
円山、川沿いの空き地。影人化した黒羽大輝に群がる影を一掃した後の事だったか。あまり覚えてないが。
『私も含めて女性って根に持つ人が多いから。統也も覚えておいて損はない』
「いや、身に覚えがない」
一体オレは彼女に、何を根に持たせてしまったのか。
『命さんに対しても?』
「Kこそどうしてそんなことを聞く? オレの恋愛事情に興味でもあるのか?」
『うん、割とね』
案外素直だった。
「命は確かに大切だ。だがそれは友人としての方向性だ。オレは彼女に対して特別な感情は持っていない。オレが……強い姉を持って生まれてしまったその日から、魅力を感じる女性が定まってしまったからな」
『強い姉……碧い閃光?』
「ああ」
昔のオレは、姉に対して恋に近い感情を抱いた。今思えばそれは曖昧な感情で、恋というにはあまりに不確定な印象だったのかもしれない。
そう。あれはただの憧れ、尊敬の念だった。今はそう思う。
しかし、オレが杏姉。最強の姉、名瀬杏子に憧れたその日から、オレの恋愛対象は決まった枠組みのようになってしまった。
杏姉のように黒髪が長いから。
杏姉のように強いから。
杏姉のように綺麗だから。
そのような女性だから、オレは相手を魅力的に感じる。
凛の黒髪に惚れたのは本当だ。だが、そのきっかけは別の部分にある。
翠蘭のように強い女性に惹かれるのも本当だ。だが、その根底にあるのは杏姉だ。
里緒や命を綺麗で可憐だと思うのも事実だ。だが、その面影が何かしら姉と似ているからという理由でしかないとしたら。
オレは歩きながら、大きくため息を吐く。
インナーワールドを仕切る異能最高責任者、中立の「風間家」。
『風間章』
特殊能力、異能教育の全管轄を牛耳る「白夜家」。
『白夜雹理』
資金に投資など、異能関係の経済社会を操る「功刀家」。
『功刀舞彩』
異能に関する裁判、司法を司り、多大な異能権力を有する「伏見家」。
『伏見玲奈』。
国会でいう所の立法権を持つ、影人関連の技術的開発を進める「三宮家」。
『三宮拓真』。
異能状況を基本統率し、執行、遂行するための攻撃を任されている「名瀬家」。
『名瀬杏子』。
『お偉い身内がいるのも難儀なものね』
「まあな。この間だって、国内で1番強いと分かっているオレの姉が到着するより前に、黒羽の審査議会を開こうと画策していた」
だからやたらと開始するまでの時間が早く、全権力者を集わせるに至らなかった。
オレの姉が来れば全ては彼女に権力が渡る。いつもの事だ。
誰も最強の彼女を止めることができない以上は、彼女には刃向かえないという道理。
そういった姉譲りの戦力圧制の方法をオレも真似しようとして、『檻』の第零監獄術式「律」など使ってしまったが。あれは失敗だったか。
実力あるエリートの三宮拓真に決闘で対抗するには、オレの特殊異能『檻』を使用発動するのは必須。
しかしあの場で、『檻』を使用してオレの正体が名瀬一族だと暴かれるのは避けたかった。
結果的に仕方なくあの術式……『檻』のマナ変換、監獄術式の最大工程を使ったが。
第零術式と呼ばれる異能術式はどれも、計り知れないほどに強力。
ひと月前に見せた、あれもオレの切り札。格好を付けて必殺奥義なんて呼んでもいい代物。
―――「律」――あれは本来、あのような場面で使う術式じゃない。
そんなくだらないことを云々考えていると、道の交差する部分、ある人とばったり出くわす。
異学への通り道なので特段珍しいというわけではないが。
「お、翠蘭?」
オレはその女子組の中の先頭に声をかける。
「あっ統也さん?」




