東宮苦悶
「お婆さま……帝が亡くなられた……」
突然の報を聞いた献は手にしていたペンを落とした。お付の女官の言葉を何度となく口の中で繰り返している。
「はい、五分ほど前に護衛の兵から報告がありました」
「殿下……」
数学の女性教師の言葉に献は黙って落としたペンを拾い上げる。
「帝は強硬過ぎた……東モスレムもイスラム教徒、北天の社会主義勢力、そして東海の分離主義者。敵ばかり作ればその先にあるのは……」
それは七歳の子供の言葉ではなかった。献自身もその分析が子供に似合わないものであることは分かっていた。そして同時に献には子供を演じるような余裕はこの国には無いことも十分わかっていた。
「犯人は陛下とその乗っていた車と同時に人体発火を行ったようです」
「手段はどうでもいいのです。それより父上は……」
「まだわかりません。軍部がどう動くかも……」
女官の心配そうな顔も当然だということも献は知っていた。彼に謁見した軍人達も自分のような幼帝を掲げる趣味はなさそうだった。
「ガルシア・ゴンザレスですか……仕掛けたのは」
「そんな推測でものを言うのは危険ですよ」
女性教師の言葉を献はゆっくりとたしなめる。だが、彼も最初に祖母の暗殺を企てる人物として思い出したのはその名前だった。
平民将軍と呼ばれチヤホヤされているゴンザレスだが、献の印象は野蛮なだけの無教養な男というものだった。案内したのがゴンザレスの政敵だったカグラーヌバ・バラダだとしてもその下品な振る舞いは献に嫌悪感を持たせるには十分だった。
「央都へ行かねばなりませんね」
「ただ……陛下が亡くなられた今……央都へ行かれるのは……」
女官の言葉に献はじっと手を握り締める。そこに廊下を駆けてくる靴音が響いた。
「殿下!」
それはバラダだった。白いものが交じるヒゲをいじりながらなんとか息を整えると献のそばにまで来た。
「お祖父様……やはりゴンザレスの手のものが?」
「いや、犯人の素性はまだ……ただこの機会にあの男が動くのは間違いないでしょう」
「内戦ですか……」
バラダの言葉に献は大きく息をした。
祖母の即位まで遼は軍閥割拠の半内乱状態だった。最大の軍閥、兼州軍閥カグラーヌバ家の支持を得た二人の子持ちの女帝が即位することになった。それがムジャンタ・ラスバと名乗っていた時代の寡婦、遼武だった。長男の太子、遼霊に娘を嫁にやり外戚として権力を握るつもりだったバラダだったが、そんな女帝の才能に次第に引き込まれていくことになった。
すっかり武に降り、娘もその長子に嫁にやったカグラーヌバ・バラダだが、その態度の豹変は特に軍部に反帝勢力の台頭を許すこととなった。
その中心に祭り上げられたのがガルシア・ゴンザレスだった。
貧農の息子に生まれ、軍の給仕班の下働きから頭角を現したその異形の将軍はカグラーヌバ家と対立関係にある南都軍閥および東海軍閥の支持を背景に央都で一大勢力を成すに至っていた。
「ゴンザレス将軍……」
献は息を呑む。何度か兼州離宮を訪ねたその肥満体型の将軍に対しては献は恐怖しか感じなかった。
「まだ誰の差金かはわかりません。推測でものを言うのは……」
そう言ってみたものの献はゴンザレス将軍が犯人だという確信が持っていた。
「あの給仕上がりがでかい顔をするのは間違いないでしょうな。なんとも不愉快極まりないですがね」
バラダの言葉に侍女達は啜り泣き始めた。
「私は……余は央都に入れるのでしょうか?即位には央都入城が必要だと思うのですが」
「今は動かないほうがいいでしょう。武帝が暗殺された場所からして兼州にも犯人、まあ十中八九ゴンザレスの息のかかったものがいるでしょうから。それこそ奴の思惑通りになってしまいます」
「思惑通りとは?」
思わず武はバラダに尋ねていた。
「殿下の暗殺です。奴は完全に朝廷を手中に収めることを目指すでしょう。恐らくは殿下のお命を狙うこともあろうかと……」
「余の命まで……」
献は息を飲んだ。死に対する恐怖を今この瞬間生まれて初めて感じることになった。
「離宮にいらっしゃる限り奴の好きにはさせません。殿下こそが遼朝の正統であることは間違いないのですから」
「南都の背後には地球が、東海の後ろには甲武がついているはずですが……」
いつも祖母から聞かされていた国内事情をバラダに話しかけた。バラダは虚しく首を横に振った。
「他国に頼るのは感心しませんな。南都も東海もゴンザレスの機嫌を損ねることはしないでしょう。南都のオーギュスト・ブルゴーニュ。東海の花山院直永もどちらもゴンザレスを失脚させるような真似はしないでしょう。恐らくは今頃ゴンザレスの周りで自分達の頭を押さえつけていた重しが取れたと悦に入っていることでしょう」
「帝は重しですか」
バラダの言葉にラスコーはゆっくりと呟いた。
「そうです、立派な重しでした。これからはそれに抑えられていた災厄がこの国を覆うことでしょう……」
預言者めいたバラダに献は静かに視線を落とした。