東宮と、ある家庭教師
そこは大広間ほどの広さのある部屋だった。
古代中国王朝の皇族を思わせる立派な身なりの少年、東宮遼献が、侍女に支えられつつ大きめの画面の前に立つ青年の講義を受けていた。
それは高校の物理学の初歩程度の内容だったが、どう見ても小学校就学前後の少年が受ける授業の内容は超えているものだった。
「ではここで与えられたX方向にエネルギーをaとするとY方向に向かうエネルギーのベクトルはどの様になるかは……お分かりになるようですね」
講義を行う青年、ダワイラ・マケイは目の前の7歳の少年にいつものことながら驚かされていた。
彼の先任の理科教師からも、少年が類稀なる理解力の持ち主だとは聞いていたが、初歩的な物理学の入口を既にマスターしようとしているその姿には少しの恐怖と安心感を感じていた。
「先生。この時の重力の係数は地球のものを使うのでしょうか、それとも遼州のものを使うのでしょうか」
「そこまで求めてはいませんよ。実際両者の係数は誤差の範囲ですから」
「ですが、それでは正確な値は出せませんよ」
少年の真摯な問いにダワイラは再び胸を突かれた。
遼帝国次期皇帝。東宮とされた少年とは言え、ダワイラもその生活には同情を覚えるしかなかった。
ここは遼帝国の首都、央都から北に1000キロ離れた山岳地帯であり、人は兼州とよんだ。その北離宮で東宮、献は一人勉学の日々を過ごしていた。
帝王学を授ける。現皇帝で遼帝国中興の祖とも言える女帝、遼武の孫はその為にまるで幽閉されているような日々を送っていた。
彼と言葉を交わすのはダワイラを始め家庭教師に任命された学者が十数名。女官と警備の兵は合わせて百人ほどいるが、誰も必要以上の口をきくことを女帝から禁じられていた。
今日も離宮を祖母が訪れているというのに献は十二時からの会食の間、一時間ほど席を共にする他は彼に好意を持つ人物との謁見の予定もなかった。
「ところで殿下」
献の数式がダワイラの正解と一致していることを確認すると、話題を変えてみることにした。
「祖母の……帝のことでしょうか?」
どこまでも察しがいい。ダワイラは笑顔を浮かべたまま献にノートを手渡した。
「こうして同じ離宮にいらっしゃるのに一日顔を合わせるのが一時間。それも今日は甲武国宰相西園寺重基公などの諸外国の方と同席で肉親水入らずの顔合わせも無し。そんな……」
「ダワイラ先生はここに来て何ヶ月になりますか?」
自分の思いを口にしようとして年端も行かぬ少年に宥め賺すかされようとはダワイラも思ってもいなかった。
「殿下……それが遼帝家の流儀だと言うのですか?」
「まあそんなものです。父上のようにはなるなと帝もおっしゃっておりましたから」
少し諦めの境地にでも達したように幼い眉が揺れる。ダワイラは何も言葉も継げづに黙り込んだ。
「先生は子供は子供らしく外で元気に遊べとかおっしゃるんでしょ?それとも友達を作れとおっしゃるのでしょうか?でもどちらも帝のご意志に反することになります。父上が東宮を廃され庶民として宮殿に幽閉されているのはご存知でしょう。私はそうなる訳には行かないんです……」
無理を言っている。ダワイラは少年の引き吊った口元、シワの寄った眉間で少年の言葉の少年らしくない嘘を見抜いていた。
「ですが、殿下を見ていると……」
「言わないでください。先生には辞めて欲しくないんです」
献が背後を気にする素振りを見せることでダワイラは多少、少年の意図がわかった。
背後には女官が一人、護衛の武官が一人。それぞれじっとふたりの様子を眺めていた。武帝の意思は帝王学そのものに現れていた。
十年もすれば彼は古今稀に見る帝王に育つだろう。そのために不要な要素を一切切り捨てる。武帝の意向に沿わない教師は即刻解雇される。ダワイラの前任の理科教師も同じようにして首を切られたのだろう。
「ですが……確か今日の昼食には西園寺卿の他に義娘の康子様もご同席されるとか……」
ちらりとダワイラは少年東宮の様子を伺った。明らかにそこには康子の名を聞いて安心している少年らしい姿があった。
だがそれも一瞬のことだった。再び憂鬱に襲われた少年は静かに口を開く。
「先生は母上の妹君であったと……カグラーヌバ・キラーナがそこにあるとおっしゃるのですか。確かに康子様なら私の境遇を知らずに好きなことをおっしゃるのかもしれません。西園寺の鬼姫と異名を取られる方ですから……」
「甘えるのも殿下には大事なことですよ」
ダワイラの言葉に明らかに社交辞令というような笑みを献は浮かべた。
「ですが帝の機嫌を損ねるだけでしょうね。康子様のお父上、兼州公カグラーヌバ・カバラ将軍は未だ帝の逆鱗に触れて蟄居の身。他国のしかも宰相の跡取りの嫁だから嫌味一つくらいで済むと思いますが……私の境遇が変わるとは思えません」
諦め切った少年の姿にダワイラはただ脱力感だけを感じていた。
「そうですか……ですが殿下。私はいつか殿下にこのような無理を強いている世の中を変えたいと思っています」
「先生……」
献の言葉が終わるまもなく護衛の兵士がダワイラの片腕を掴んだ。
「博士。それ以上は……」
護衛はそう言うとダワイラを強い視線で睨みつける。ダワイラは自分の運命を悟った。
「どうやら私も今日で解雇のようですね」
「先生……」
少年が力なく笑う。ダワイラは護衛の手を振りほどくと教材をまとめて立ち上がった。
「今日まで楽しかったですよ。ただ……あなたを救えなかったことが……」
「博士!」
兵士はそう言うと力強くダワイラの腕を引っ張る。ただ身を任せるようにしてダワイラは兵士に弾き飛ばされ勉学の間の中央に叩きつけられた。
「先生に乱暴するでない!」
献の言葉に兵士は一瞬緊張したがすぐに倒れたダワイラを引っ張り上げて立たせた。静かに眼鏡をかけ直しダワイラは穏やかな視線で少年東宮を見上げた。
「殿下。一言だけ」
兵士に引き立てられながらダワイラは献に笑いかけた。
「何を言うか!」
兵士が銃を突きつけようとするのを献は制して静かに立ち上がった。
「先生……」
生徒と教師。そんな関係を超える何かを感じた兵士が力を弱めた。その様子を察すると静かにダワイラは献に笑いかけた。
「人は……生まれながらに平等であるべきです。それだけは覚えておいてください」
「先生……」
ダワイラの笑顔を見ながら献は静かにうなづく。
「先生。どうかご無事で……」
立ち去るダワイラに献は静かな笑みを送って見送った。