08 三澄翼、本気で口説きに来る
冷や汗で掌が汗ばんでいるのを感じながら、震えを必死にこらえつつ、私はコップを手に取る。ジュースを飲んで落ち着こうと、そう思って、でも汗で滑ってしまって。コップを持ち上げると落としそうで、手を伸ばしたらいいものの動けなくなってしまった私は、冷えたガラスの側面に手を添えて涼んでいるだけの人になってしまった。
でもこれはこれで気持ちいいからアリだな、というしょうもない思考のお陰で少しずつ落ち着きを取り戻してきた、その時。
添えられた右手の手の甲に、少しだけ暖かい何かが――そう、具体的には翼の掌が、重ねられた。
「もしかして照れてる? ……いま、手、震えてたよね。可愛い」
「――っ!!」
私は直感した。
ひとつは、冗談抜きで本気で口説かれているということ。もうひとつは、……翼は、ただの一秒でも油断できないほど、他人の言動に敏感であるということ。
話し合いの時、みんなが翼に注目していた中で、私は他の面々よりも彼から注意を逸らすのがほんの少し遅れた。それに彼は気が付いたのだ。……この男、もしかしたら強敵なのかもしれない。
あと心臓が痛い。端的に言おう、私は今、この男にときめいている。ときめいてはいけない相手に、ときめいてしまっている。だって顔がかっこいいから。意外と面倒見がいい一面を知ってしまったから。手を、重ねられているから。可愛いとか言うから。理由なんて、いくらでも思い付く。
とにかく手を振り払わないと、と思い、私はコップが倒れないよう細心の注意を払いながら右手を引いた。翼の手とコップの側面からジェンガを引き抜くような気持ちだった。
翼は残念がる様子もなく、恐らく真っ赤になっているだろう私の顔を見つめて余裕ありげに笑っている。勝利を確信している顔だ、つまり敗者とは私のことである。
言い訳させてほしい。翼は、腐っても乙女ゲームのキャラクターだ。女性をターゲットにしたうえでカッコいいと思ってもらえるような最高の容姿を持っていて、性格だって最適化されている。要するに環境キャラだ。勝てる訳がない、だって私ノーマルレアだし。いや、もう有料ガチャの排出対象ですらないかもしれない。……ああもう駄目だ、なんかわけわかんなくなってきた……!!
「あ、あんまり茶化さないでくださいよ。そういうのは私じゃなくて他の女の子に……」
「ヤダ。アリサちゃんがいいな」
「ヒッ……!」
あっ駄目だわ今の。終わった。ヤダは、ちょっと笑いながらのいたずらっぽいヤダはアカン。多分今の私のメンタル、完全に翼ルート攻略中のプレイヤーとシンクロしてる。ドキドキを通り越して心臓がギャンギャンいってる。
駄目だ。このまま誘導されて、オリキャラだし主人公でも何でもないけど翼ルートに入っちゃおうかな~デヘヘなんてふざけたことを考えた瞬間に、この世界は終わってしまう。鋼の意思で振り払わないといけない!
「……わ、私、彼氏いるんで!!」
――咄嗟の判断だった。それでも、悪くない反応ができたように思う。
しかし、この台詞を信じさせるには隙を見せすぎてしまった。
翼は信じているのかいないのか、微妙に分からないトーンで「そっかー」と掴みどころのない返事をすると、半分ほどの高さまでジュースが残った自分のコップを手に取り、ごくごくと一気に飲み干してしまう。そうして空になったコップと、私が最初にこぼしてびしょ濡れにしてしまったコップ、最後に飲めない紅茶が適量注がれたコップを手に持ち、立ち上がる。
「シミになっちゃうから、シャツを着替えてからおいで。……それとも、飲み終わるまで一緒に居て欲しい?」
「……結構です……」
「そう言うと思ったよ。じゃ、またねー」
何でもないような顔で部屋を出ていく翼が憎らしい。この世界について、彼よりはまだ理解している筈の私が一方的に翻弄されて終わった。敗北の味を噛み締めながら、どうしてこうなってしまったのか考える。
……いや、考えるまでもない。
三澄翼の顔を見つめてしまったこと。そして、目を逸らすのが他より一瞬遅れてしまったこと。ここまでは切っ掛けに過ぎないが、その後に取った目を逸らすという対応が最悪だった。この子もしかして俺のこと好きなのか、と自意識過剰な人間を勘違いさせるには十分すぎる。実際に三澄翼がそれに分類されるのかどうかは別として、これが切っ掛けで彼が私に興味を持ってしまったことには変わりないだろう。
脳内で少し早い反省会を開きながら、私は思う。
(これ、私なにも悪くなくない?)
葉擦れの音、窓から差し込む木漏れ日、さらっとした空気。屋内にいながらも感じられる自然特有の雰囲気が心地よいが、私の気分は最悪だ。
重ねられた手の熱で溶けてしまったのだろう氷が、コップの中でカランと音を立てた。