まっさらな素材
無知は罪だ。
けれどそれは決して学校の勉強を頑張ることではない。
勉強ができなくても自分しか困らないが、人間関係を知らないことは、自分も他人も傷つけるのだ。
僕はあまりに無知だった。
船山高校名物、「昼のハイキング」を10日後に控えたこの日、僕はとても困っていた。
昼のピクニックは、桜が咲き始めたこの季節に行われる校内行事で、チャーターしたバスで朝イチに20キロ以上離れた山の麓に向かい、そのまま山を登って雄大な自然を堪能した後、30キロ以上の道のりを歩いて戻るという、目的達成後の対価が凄まじく割に合わないイベントだ。
一年生の僕は生徒会の役員をしていて、この行事を運営しないといけない立場だ。昼ピク当日は7時集合で、点呼の後すぐにバスが出発する。運営委員は様々な準備がある事から、遅くとも6時には登校しておく必要があった。
一方で僕は学区外から通う変わり者だったから、毎日電車で片道1時間以上かけて通学している。田舎だから始発が遅く、その集合時刻には到底間に合いそうになかった。
「どうしたの?」
朗らかな笑みを浮かべて話しかけてきたのは、この昼ピクを手伝うために最近よく生徒会室に出入りしている寺田さん、一つ上の先輩だ。肩まで伸びたストレートの髪が印象的な、薄くて幼い顔立ちの先輩。
「困ってる事があったら何でも言ってよ。一応経験者だから」
そう、彼女は去年の生徒会役員で、この行事を一度経験していた。僕が運営委員の集合時刻には来れそうにない事を伝えると、あっさりとこう言った。
「だったらうちに泊まりにおいでよ」
はっ、なに? どういうこと? 急な提案に頭が真っ白になっていると、慌てたように続けた。
「いやいや、違うから。去年も高本君が泊まりにきてたし、親も行事に理解があるからね。変な意味じゃないから安心してよ」
高本先輩は去年の役員だ。そっか、今まで女子の家になんて行ったことないけど、案外高校生だと普通なのか。
「そ、それじゃあ、も、申し訳ないんですがお願いしてもいいですか?」
そうは言っても女子の先輩に泊まるなんて、なんかハプニングが起こっちゃうかもしれない、とか想像してドギマギしながら返事をする。
「うん、親に言っておくね!」
やっぱり何でもないように話す彼女。僕の妄想が逞しいだけか。平常心平常心。
「ありがとうございます!」
「いいよいいよ。困ったときはお互い様ってね」
事件が起こったのはそれから1週間、昼ピクを2日後に控えた夜のことだった。
生徒会室ではラストスパートとばかりに皆準備に勤しんでいる。僕は順路を示す看板を作っていたので、外で一人で作業していた。
「大変そうだね。手伝うよ」
現れたのは寺田さん。最近毎日僕の作業を手伝ってくれる。直前の球技大会を一人で取り仕切っていたから、昼ピクの方はこれまで関与が少なくてもできる仕事、つまり雑用が多くて、見かねた先輩が積極的に声を掛けてくれてるんだろう。ありがたい。
「いつもありがとうございます」
僕はお礼を言って、仕事に戻る。大体は僕が黙々と仕事をしていて、彼女が話しかけてくる。かなりの読書家みたいで、読んだ本に絡めて恋愛や哲学など、心に関する話題が多く振ってくる。丁度その頃、授業で倫理を習ったせいで哲学にかぶれていた僕は、割と真面目に受け答えをしていた。
そんな彼女は、今日はこう切り出した。
「そういえば、好きな子はいるんだっけ?」
後から考えると、かなり突っ込んだ質問だったが、連日そういったテーマの話をしていて耐性が付いていた僕は、それ程抵抗なくその質問を受け入れた。
「気になる子はいましたけど。帰りがたまに一緒になって、よく話をしてました。けど、生徒会ってこんなんで全然普通の時間に帰れないから、最近は疎遠ですね……」
「そっか、私も好きな人いるよ。その人はね、頭の回転が早くて、すごく仕事ができるんだけど、それを鼻にかける事なく雑用も進んで引き受けるんだ」
「そーなんですね」
何でもないように答えるが、内心動揺してしまう。それなりに仲のいい女子に好きな人がいるって聞くと落ち着かないのは何でだろう。
「そしてその人は、今日もこうやって一人で雑用を頑張ってる。だからなるべく手伝うようにしてるし、これからも側にいたいんだよね」
は? え? うまく言葉が出てこない。
「そ、それってそういう意味ですか?」
自分がどういう意味かよくわからないままよくわからない質問をぶつける。
「そういう意味だ、よ」
彼女は上目遣いで、段々小声になりながら答える。これって告白だよね? 流石にわかる。
「な、なんで?」
我ながらアホな質問だとは思うけど、彼女はタイミングの事だと理解したらしい。
「うーん、本当はまだ言う気無かったんだけど、頑張ってるところを見てたら、つい」
彼女を好きかどうかなんて考えた事もなかった。いい先輩で、話は合うし、仲のいい友達にはなれるとは思ってたけど。いや待てよ、心の底まで自分の気持ちを語り合えるような女友達って、もはや彼女なのか? わかんない。
それもあるし、ここで断ったら明日泊まるときにめちゃくちゃ気まずいよね。どうしたらいい? 自分は彼女と付き合うべきなのか?
落ち着いて考えないと。第一に彼女とはとても気が合う。なんでも話せて、思索を深掘りできる相手だ。ずっと一緒にいたらきっと大きく成長できるはずだ。
そしてこの状況。ここで断ったらどうなる? 明日の宿泊については別のところを探すにしても、周囲にそれは伝わるし、なんといっても昼ピクが困る。僕は第二チェックポイントから先の殿を歩くけど、彼女はそもそも最後尾担当だ。5時間以上一緒に歩く。ほんとにどうなる?
結論、付き合って困る事はないけど、断った時のダメージは甚大。後は自分の気持ちだけだ。
好きじゃないのに付き合うのは不義理だ。彼女が好きじゃないかと言うとそんな事はない。お互いに成長できるいい伴侶になる可能性がある人だ。
自分の気持ちを整理して、応える。
「僕で良ければ」
「ありがとう!」
彼女は屈託のない笑顔で、そう答えた。
こうして、僕と彼女の6年に及ぶ交際がスタートしたのだった。