寧波の壁2
舟山港で清国の着上陸作戦が失敗に終わる寸前、島の山地方面でも動きが起きていた。
寧波海岸で砲煙が上がり、清国船団が舟山島に接岸するのを視認した親清国勢力の残党が、上陸部隊と呼応すべく山の塒を捨てて、海岸に向かって押し出したのだ。
山中の仮泊生活で彼らは既に食糧にも事欠く有り様であったから、一か八かの不退転の決意だったのであろう、逼塞していた塒に火を放って突進した。
武装は剣などの冷兵器、飛び道具は半弓、火器は投擲用の震天雷のみ。
海と山地からの挟撃を狙った攻勢ではあったのだが、上陸作戦が呆気なく頓挫し、只の強襲となってしまった以上、成功する見込みは万に一つも有り得なかった。
御蔵軍側は予想される敵攻勢方面の木々は伐採し、排土板付工事車両で見通しの良い開削地に変えてしまっていたし、塹壕・土嚢と鉄条網とで堅固な陣地を構築していた。
残党勢力は、寧波から出発した上陸部隊よりも、はるかに強烈に兵器性能の差を理解していたはずだが、彼らは死兵と化して遮蔽物皆無の荒地を突進した。
迎え撃ったのは交代で守備に就いていた2個小隊80名の蓬莱兵部隊である。
彼らはボルトアクションの38式小銃を巧みに操作し、弾丸を浴びせ続けた。
如何に死兵と化そうとも、無理筋の攻めは犠牲者を増やすばかりで効果は無い。
震天雷を抱えた擲弾兵も、投擲距離に達するはるか以前に倒れてしまい、突撃部隊の戦列内で無駄に爆発を起こすばかりだ。
攻撃参加した600人ばかりの残党の中で、鉄条網の阻止線まで進出出来たのは僅か100名ばかりだったが、ワイヤーカッターなどの工具を持たないために、そこで立ち往生してしまった。
剣を振るって突撃路を切り開こうとしても、螺旋を巻いて緩く設置してある鉄条網は振り降ろされる剣の衝撃に対しても、たわんで変形するばかりで破られる事は無い。
自動貨車に分乗した1中隊400名の蓬莱兵が増援として駆けつけた時には、戦闘は既に終息していた。
増援部隊は着剣して敵進撃路を逆に辿り、山岳アジトを急襲する事としたが、そこで見た物は死体ばかりだった。
僅かに生き残っっていた震えの止まらない女子供から話を聞くと、突撃参加に異を唱えた者は全て粛清されたらしい。
足手まといと看做された者だけが、殺されずに済んだという事だった。
40名ほどの捕虜を保護した急襲部隊が山を下ると、戦場を清めていた守備隊員から、敵突撃部隊には女や戦闘には絶え得ないであろう老人までが含まれていた、との報告があった。
かくして舟山島に於ける親清国勢力は一掃されたのだった。
鹵獲した金属製品や程度の良い小型船は、御蔵島の工場地区に移送される事となった。
金属類は熔解して再利用するために当然なのだが、小型船には焼玉エンジンを搭載して動力船もしくは機帆船に改装する研究を行うためとの理由である。
鋳造工場では焼玉エンジンの扱い量を増やし、漁船や民間小型船の修理やメンテナンスを行っていた新港地区の小規模造船所では、中小型ジャンクの動力船への改装作業に着手するという流れになっているらしい。
新港地区の造船所では、新港――呉間を結んでいた排水量177tの小型フェリー『潮』と『汐』が特設巡視艇に改装完了したため、ドックが空いたのだ。
なお、新港――宇品間を結ぶ1300t級フェリー『あさしお丸』と『ゆうしお丸』、新港――松山を結ぶ498tのフェリー『音戸』と『早瀬』は、新港ではなく御蔵港のドックで武装化改装中である。
『潮』と『汐』は、武装化するといっても窓などに薄い防弾板を取り付けて機関銃を載せるだけだから、簡単に改装が終了したのだ。
1300t級と500t級の中型フェリーの方は、機関砲・速射砲と装甲板も装備させる予定だから容易には事が進まない。トップ・ヘビーで不安定にならないよう、慎重に作業が進められていた。
次に清国側が渡洋攻撃を実施したのは、先の攻撃が失敗に終わってから、僅か3日後の事である。
寧波の指揮官は方面軍司令官から余程せっつかれているのか、今度も寄せ集めの小型舟多数を投入してきた。
けれども今回使用されたのは、内湾での使用にも疑問が生じる、内水面用の川舟である。
喫水が浅く平底の川舟は、水深が股下程度のごく浅い水域でも荷物の運搬に使用出来る利点は有るが、風波や潮流には弱い。元々、荒波を切って前進するような用途に向けて作られた舟ではないのだ。
本来ならば櫓や櫂を使用するのは稀で、竿を使って進退している舟であるのだろう。舟を操る水夫の技量も、先の攻撃時とは異なり如何にも不慣れな様子が見て取れた。
清国軍第三次渡洋攻撃船団は、出発時から真面に集団行動が取れず、海峡の三分の一に達した時点で既に大きくばらけてしまっている有り様だった。
作戦としては明らかに失敗なのだが、この清国サイドの失敗は、舟山島の前進司令部を大きく慌てさせる事となった。
敵の舟が舟山島の何処に何時着岸するのかが、全く読めないのだ。
司令部は着岸地点で敵を待ち構えるという方針を捨て、ライフル兵や軽機を増員した高速艇で、舟山島に着岸しそうな敵舟を一艘一艘シラミ潰しに叩いて行くという戦法を採らざるを得なかった。
迎撃に出撃したのは、高速艇甲型が12隻、乙型が22隻、加えて装甲艇7隻である。
同士討ちを避けるために、陸上および舟艇母船からの水上への砲撃は禁じられた。(但し、寧波港湾と海浜の陸上施設に対して、3門の15榴搭載武装大発が各3発の牽制射撃を行っている。)
舟山島から半分の距離にまで接近した清国側の川舟は、高速艇からの射撃を浴びた。
射撃距離は100mほど。ヘッド・ショットを狙うのならばともかく、舟まで含めた的にさえ当たれば良いというのなら、外しようの無い距離である。
舟の後尾で櫓を扱う船頭は、オールとは違い、立ち上がっていないと仕事が出来ない。伏せている兵よりも大きくて目立つ的だ。
船頭を失った川舟は、慌てふためく兵を乗せて、為す術も無く漂流を始める。
船腹に開いた穴からの浸水を止める事が出来ずに沈没してゆく舟もある。
先行した舟が次々に喰われるのを見た後続は、何とか寧波に逃げ戻ろうと方向転換を図る。
海での操船に不慣れな船頭が扱う、海には不向きな川舟だ。しかも乗り込んでいるのが海上侵攻作戦は初めてという陸兵。無事に終わる訳が無い。
その上、150㎜砲弾の着弾で、寧波では巨大な火柱と土煙が噴き上がっている。
恐慌を来した兵が思わず立ち上がると舟が傾き、更には横波を受けて、バランスを失った川舟は簡単に転覆する。
転覆して船底を見せた舟は、流れる障害物となって、更に混乱に拍車をかける。むしろ、水が入ってただ単に沈んでしまった方が始末が良いくらいだ。
泳げる者は装備を捨てて木切れを掴み、運を天に任せて海岸目指して海に飛び込む。
船頭が先に逃げてしまった舟の兵は悲惨だ。声を枯らして助けを呼んでも、応えてくれる者はいない。何処とも知れない場所へ流されてゆくばかりだ。
高速艇が潰した清国側の第三次攻撃船団の数は、実は参加隻数230隻の内、20隻余りと一割にも満たなかった。
寧波港へ帰還出来たものが70隻未満であったから、およそ140隻ほどが転覆もしくは漂流で失われたのだ。
流失した舟の少なくとも半数は、潮流の関係で寧波近傍のいずれかの海岸へ漂着したものと考えられるが、清軍に復帰した者は一握りしかいなかった。
なし崩しに戦闘が終結した後、高速艇は戦意を失った漂流者多数を救助したが、彼らは寧波に送り返される事を拒んだ。
第二次攻撃の時の生き残りの捕虜が、寧波へ送り返された後、見せしめのために処刑されていたからだ。
処刑を命じたのは『ドド』という清国生え抜きの将軍らしい。
このドドという将軍は、揚州占領後に十日間に亘る大虐殺を行った人物との事だった。
こうして寧波方面の戦況は、一旦落ち着いたように見えた。




