ワールド26 上皿天秤を回収した件
先生の部屋から退出すると、中尉殿と英玉さんとが談笑していた。
早良中尉の他人に警戒心を与えない人当たりの良さは絶品だから、英玉さんもリラックスした雰囲気だ。
中尉は僕の顔を見るなり「だいぶ話が弾んだようだね。」と目を細くした。「もう少し早く退出してくるかと踏んでいたのだけれど、これは読みが外れたみたいだ。……無論、良い方にだけど。」
「先生は、今すぐには島を離れられません。鄭将軍との渡りを付けて頂かないと。一連の引継ぎが済み次第、入院して頂ける了解は得ましたが。……そこまでは、僕が面会する前に、既に中尉殿が話を付けていらっしゃった訳でしょうけど。」
「いや、片山君は良い仕事をしてくれたと思いますよ。鄭将軍との橋渡しをお願いするところまでは固まっていましたが、雛竜先生は完璧主義をお求めのようだから、橋渡しが終わっても次の仕事、また次の仕事と、自らの健康を顧みず邁進して体調を崩される心配が有ったから。」
「中尉殿に、その様に評価して頂くと嬉しいです。……けれど、診断の確定が遅れるのが、ちょっと気掛かりです。先生にとっても、藤左ヱ門さんや雪さん、花さん、英玉さんにも。」
中尉殿は例によって眼鏡の弦をヒョイと押し上げ
「その件については手を打ちましたよ。先生を至急に御蔵病院にまでお連れするのは、どうも難しい様だったからね。片山君と入れ替わりで、医療班が一チーム来てくれます。医師一人と看護婦二名の細やかなチームだけれどね。ツベルクリンのキットを持参してくれるはずだから、先生と、その周囲の人たちには、北門島で検査が行えます。」
そうか。病院まで連れて行かずとも、往診という手が有ったのか。
「気付いて然るべきでした。じゃあ、先生の御写真は不要ですね。病院で軍医殿に検討して頂こうと撮影したのですが。」
「いえ、全然無駄ではないようです。」中尉殿は、英玉さんに笑顔を向けると「診断用の御写真では、英玉様には、少し刺激がお強いかも知れませんけど。」
……思い出した。花さんと英玉さんに、ワイロの写真を約束したんだった。
「体表に結核の症状が現れていないか、撮影させて頂いた写真です。」
僕がスマホで表示した画像を覗き込んで、花さんと英玉さんが真っ赤になる。二人とも一言も発しないし……鼻血でも噴き出しそうだ。
なんでかなぁ……。二人とも何時も傍でお世話してるんだから、下着姿くらいなら見慣れているだろうに。
僕の疑問を感じ取ったのか、藤左ヱ門さんが「英玉も花も、幾らお傍でお仕えしているというても、こう写真という物で改めて先生の御姿を見ると、やはり勝手が違うか。」と笑った。
英玉さんがなんとか「余りに美しすぎて、正視に耐えませぬ。」と言葉を絞り出し、花さんはブンブン肯いている。
でも二人とも、スマホの画面を穴が開くほど睨み付けていて、目を逸らしたりはしないんだよなぁ。
僕は二人に「ちょっと。また……その内に。」と声を掛け、アイ・コンタクトを取ってから、スマホを回収する。
美女二人の抵抗に遭うかと、ちょっとだけ心配だったが、二人とも共犯者の笑顔を見せて、素直に渡してくれた。
中尉殿は花さんと英玉さんに「後で医師と看護婦を連れて来ますから、その時は宜しく。」と挨拶を残し、「さ、小倉様、片山君、ヒト・ゴ・マルマルが邂逅予定です。」と、建物の外へ向かって歩き始める。
後に付いて歩きながら、中尉殿に「飛行場建設の準備は?」と話を振ると
「ゴンドウ曹長が港で揚陸の指揮を執ってくれているよ。オペレータは御蔵から呼ばずとも、オキモト少尉のトコの兵に重機の扱いの上手いのがいるらしい。もっとも、城の近くの畑地を均して仮設の滑走路を造るだけだから、手間は掛からない。森か丘を潰すなら一仕事だけど、温州城との連絡作戦には凧が不可欠と言う事で、滑走路の建設を島の人たちも了承してくれてね。作戦が成功裏に終わったら、畑は元に戻して港と常設飛行場はセットで未開拓地に建設するかも、だけど。」
と教えてくれた。
そして彼は、運用するのが荒れ地でも離発着のし易い偵察機で良かったよ、と付け加える。
僕は雑嚢から、退室間際に雛竜先生から手渡された上皿天秤を、苦労して取り出した。
なんやかんやと詰め込んでいる上に、トドメをばかりに天秤まで押し込んだから、細々した物は服やズボンのあっちこっちのポケットに移しているけれど、雑嚢は絶望的なまでにパンパンだ。
「ここにやって来て、初っ端に無くした上皿天秤です。先生が保管してくれていました。」
中尉殿は楽し気にそれを手に取ると「最初に扉を開けた時だね。これで、御蔵島と北門島とが同一時空に存在するのは、確認された訳だ。動かぬ証拠ってヤツだね。」
天秤に目を遣った藤左ヱ門さんが「趙大人が拾って来た秤じゃな。」とコメントする。「思えば、これが御蔵の方々と我らを引き合わせたのよ。」
僕は藤左ヱ門さんが口にした『大人』という単語に引っ掛かって
「趙大人って、もしかして、あの趙さんですか?」と、思わず訊き返した。
コンピューター囲碁にも負けていたし、なんだかあの人って大人扱いを受けるより、胡散臭いお調子者ってイメージなのだけど。
「そう。あの趙さんなんだよ。」中尉殿がニヤリと笑う。「大内警部補は直ぐに察したみたいだけれど、一時的にでもスミス准尉を欺いたんだから、偽装欺瞞の腕は見上げたものだ。池永少尉や片山君が見破れなかったのも、無理はない。」
「雛竜先生の右腕として、この辺りの間者衆を束ねておられる。」藤左ヱ門さんが補足してくれる。「誰にも何も言い残さず、しばらく姿を消しておられたが、何やら大きな動きを掴まれたのであろうと、思っておったのだがの。……ここまで大きな魚を釣り上げるとは、とてもとても。」
ええええええ!!
「大分、吃驚しているね。」中尉殿が飄々と言う。「ちょっと急ごうか。趙大人がお待ちだよ。」
中尉に連れて来られたのは、政庁社殿脇の、勤務員宿舎に煉瓦倉庫なんかが並んだ一角だった。
政庁入り口の検問を通過しないといけないから大回りにはなるけれど、雛竜先生の部屋から、直線距離なら直ぐ側じゃん。
建物越しに城壁に立つ警備兵の姿が見える。……そうそう。扉から見えたのは、こんな場所だったよ。
趙さん……いや、趙大人は、煉瓦塀の建物の一角に背を預けて立っていた。
雛竜先生の右腕を務めるエージェントという話を聞いていたせいか、御蔵島側で拘束した時とは別人の様に隙が無く見える。
けれども趙大人は「やっ! 室長。もう雪と仲良くなったのか。御蔵島の姫君が、気を悪くするんじゃないか?」と一瞬で『お調子者の趙さん』に早変わりした。
その方が、お互いに話がし易いだろうという計算なのだろう。
「師匠、御蔵島の姫君とは?」雪さんが僕の上着の袖をグイと引っ張る。
「閨を共にされている姫よ。」趙さんが軽く言い放つ。「純子様というて、それはそれはお美しいぞ。」
「人聞きの悪い事、勘弁して下さいよ。」まだ、何もしてませんって!「電算機室に同居してるだけですよ。恋人にしているなんて噂があるって彼女に知れたら、またパンチが飛んで来るじゃないですか!」
「師匠、パンチとは何でありましょうか?」
「……ええと、拳で殴る事です。ですから、この場合は僕が同居女性から、拳で殴られるという解釈になります。」
「師匠のお側女は、師匠に鉄拳制裁を加える様な御方という事でありますな?」
「側女ではありません。対等な友人関係・同志関係の同い年の女性で、仕事仲間でもあります。鉄拳制裁は、たまに受ける事はあります。友人関係の許す範囲内で。」
雪さんは「何と不憫な! 我であれば、決してその様な事は……。」と僕の顔を見つめる。
年下のそれも中学生くらいの少女に、激しく同情されているらしい。別に岸峰さんは凶暴な女の子ではないんだけど。
「夫婦というものの有り様は、様々(さまざま)での。」藤左ヱ門さんが雪さんに、しみじみとした調子で言って聞かせる。「二人の間がそれで上手く行くなら、周りがどうこう口を挿むものではない。」
……藤左ヱ門さんも、絶対に誤解している。




