ヤワタ10 海津丸の厨房で、鈴姫さんが意外にもちゃんと仕事をしていた件
海津丸に着くと「その恰好じゃあタラップは登れんだろ。安全第一だ。」と篠原さんが判断してくれて、背負子は滑車で吊り上げてもらった。
重い背負子から解放されて身一つで登るタラップは快適だけど、今朝だけで身長が5㎝くらいは縮んだような気がする。
ビバ機械化! いやホント。
登った先に待っていたのはナント奥村少佐殿御本人で、僕に苦虫を嚙み潰したような厳しい表情を向けて
「片山君、引っ越しか夜逃げでもする心算かね?」
と坑口テント村で受けたのと同じイジリを一発カマして来た。
だから僕が背筋を伸ばして最敬礼し
「恥ずかしながら、岸峰に逢いたい一心で高島から逃げて参りました!」
と申告すると、少佐殿はゲラゲラ笑いだして
「なんだ! 夜逃げネタは既に使われちゃった後か。二番煎じじゃ面白くはないよな。」
とのこと。
そして吊り上げられた背負子を解くと「樽と壺の両方を抱えるのは大変だろう。どれ、一つ持ってやろうか。」と、より重い樽の方をヒョイと肩に担ぎ上げてくれた。
「厨房まで持って行けばいいんだな?」
厨房では調理班の人たちが忙しそうに立ち働いていたが、僕たちが調理スペースに入る前に、コック長さんが目敏く少佐殿に気付いた。
『気を付け』の号令をかけようとするのを、少佐殿は樽を下ろしながら「そのまま、そのまま。巡検じゃないから。」と制して「お珠女史からの差し入れだ。鈴姫さん預かりの迷惑料だとかで。」と説明。
僕も「こっちは半助さんからです。」と壺を床に置く。
コック長さんは「お珠さんからの陣中見舞いですか。そらぁ楽しみですな。」と手を拭きながら「鈴ちゃん! ちょっとコッチに来なさい。」と、白の上下を着てペティナイフを手にタマネギと向き合っている鈴姫を呼んだ。
髷を結っていた長い髪は、岸峰さんと同じく切っちゃったのか、あるいはお団子に編んでコック帽の下に押し込んであるのかは分からないけれど、前とはだいぶ違った外見になっていて可愛らしさは2割増しな感じではある。
呼ばれた鈴さんは少々わざとらしく「えっ?」と驚いた表情を作ってみせ「師匠、なんでしょう?」とやってきた。
コック長さんは「珠さんと半助さんからの差し入れだそうだ。」と樽と壺の蓋を開け
「やあ、これは美味しそうだね。」
と菜箸でつまんで、一口ずつ味見。
続いて鈴さんも箸を伸ばし
「高菜は賄いの炒飯にしましょうか。粕漬はそのまま、非番の人の肴にでも。」
と即答。
なんだか妙にサマになってるんだよな……。
コック長さんも「悪くないチョイスだね。」と臨時の弟子の成長に目を細めた。
しかし「ただ敢えて難を言えば、無難に過ぎるのが面白味に欠けるかも、とは思わんか? ちょっと冒険してみようか。」と課題も指摘。
そして「粕漬は煮凝りの実に入れてみたらどうだろう。魚の煮汁は豊富に残っているから。」とアドバイスした。
「ゼラチンがあれば、仏蘭西料理風にゼリー寄せにしてみたいところだけど。」
エイで煮凝りを作るときには、解したエイ鰭を入れたりするけど、エイ鰭の替わりにトコブシ粕漬を入れた煮凝りか。
ちょっと食べてみたい気がする。
「あー片山君」と少佐殿が咳払いする。「特製煮凝りが美味しそうなのは同意するとして、鈴姫さんに言わなきゃならんことが有るんじゃないのかぃ?」
そうだった。まずは用件を済ませてしまわなきゃ。
「次の船団が入港します。」
と僕が鈴さんに話しかけると、彼女は明らかにビクッと身体を震わせた。
「入れ違いに、端島に停泊中の石炭運搬船が御蔵に向けて出港します。ですから海津丸からそっちに移乗して欲しいんです。お珠さんや半助さん、それに高島坑口テント村の皆さんも御一緒ですから心細くはないと思うんですけど。」
少佐殿も「1~2週間して御蔵の生活に慣れたら、新田女史が滋養亭や酒保の仕事を斡旋してくれる段取りになっている。舟山の源さんは、全員まとめて新町湯別館に引き取ってもいいって言ってくれているけどね。」と援護射撃。
「全員一緒に一つの職場がいいのなら、新町湯別館が良いかも知れんね。調理場・接客・経理に石炭ボイラの操作と仕事も多彩だ。いろいろと学べるし、鈴姫さんの一党には向いているだろう。」
僕と少佐殿が言うのを聞いて、鈴さんはよく懐いた子犬みたいにコック長さんの顔を見上げた。
コック長さんは少佐殿に「鈴姫さんは軍人でも軍属でもないので、念のための確認ですが」と前置きして「命令でしょうか? それとも提案でしょうか?」と訊ねた。
その上で鈴さんに「鈴ちゃんがここに居たいのなら、ここの面々は誰も鈴ちゃんを拒まないよ。」と優しく言いきかせた。
少佐殿は「勿論、提案だ。」とコック長さんに応じて「物に成りそうかね? コックとして独り立ち出来そうならば、それも悪くない選択だろう。」と微笑んだ。
「あちらのグループには珠さんが居るから、鈴姫さんが抜けても動揺は起きまいよ。」
鈴さんは、コック長さんと少佐殿の遣り取りを聞いて一瞬迷いを見せたが、それを振り払うように
「石炭船に乗ります。」
と決意を述べた。
「これまでの苦しい時期を支えてくれた者たちを、自分だけの都合で弊履のように用済みにすることは出来ません。」
「良く言った!」
少佐殿とコック長さんが見事にハモり、鈴さんは顔を真っ赤にした。




