ヤワタ9 海苔養殖技術は極東の動乱と並走していた件
庫裏に行って「現場に顔を出してから、海津丸に行ってきますけど。」と珠さんに告げると、シェフは「じゃあコレを持って行ってもらおうかね。」と高菜漬けの辛味噌炒めを満杯にした樽を出してきた。
「姫様が迷惑かけっぱなしだろうからね。コレは海津丸のコック長さんへの袖の下。」
すると半助さんも負けじと壺を持ち出して「こっちも頼んで良いかい? トコブシとマツバガイを粕漬にしたからさ。」と託してくる。
トコブシというのはアワビの近縁種で、小ぶりながら味と食感が堪らない貝だ。別の食材に例えて言うならアワビが毛ガニならば、トコブシがクリガニにあたるような感じ。
またマツバガイはカサガイの一種で、磯によくいる平たい巻貝だ。貝自身が小さいから一個から取れる身の量は少ないけれど、味わいはトコブシと似てこれも旨い。
高菜漬け炒めと粕漬はどちらもオカズにも肴にも良いから、コック長さんや海津丸の乗組員一同は喜んでくれそうだが、とても両手に抱えて坑口桟橋まで歩いて行ける量じゃない。
――リヤカー借りてくるかな?
と考えていたらクマさんが
「修さん、両肩に担いでも弁慶でもなけりゃとてもじゃないが歩めめぇ。ちょいとお待ちなさいよ。背負子に括り付けてあげるから。」
と助け船を出してくれた。
いや背負子で担いでも無茶苦茶重そうなんだけど……。
結局、背中に樽と壺、それに握り飯がガッツリ詰め込まれた風呂敷包みを背負い、山小屋へ荷物を運ぶ歩荷さんみたいな恰好で寺を出た。
高島坑口の湯殿屋テント村に着いたときには、既に秋寒を感じるシーズンのはずなのに、顎からボタボタ垂れてくるほどの汗ビッショリである。
井戸端で顔を洗っていたゴンドウ曹長殿が
「オオ! 片山クン。大荷物だな。」
と爆笑。
「寺からテント村に引っ越しかい?」
僕は「意見具申!」と一度姿勢を正してから
「助けて下さい。ひとりじゃ荷物を降ろすのもしゃがむのも無理そうですんで。」
と泣きついた。
僕が担いできたニギリメシの山を見て
「修一先生、すいませんね。」
とペコリと頭を下げたのは元寺男さん。
「こっちにも竈は出来上がってるんだから、飯炊きはやれるのに。」
元寺男さんを含む18人の龍造寺一派は、半助さんの手引きで既に坑口湯殿屋テント村に集結を済ませている。
で、出発までの間、7名の男衆は採掘班の手伝いをし、11名の女衆は鉄砲風呂の運営と食事当番にあたってもらっている。
燃料にはボタがいくらでも有るし、米味噌醤油と生鮮食品は桟橋から直で荷揚げできるから、ホントならお寺の庫裏からオニギリを担いでくる必要なんて無いのだ。
けれどもそこは珠さんの”心意気”ってヤツで「せめて朝ごはんだけでも、持ってってあげておくれよ。」と頼まれては、僕はもちろん元寺男さんたちも「いえ、ケッコウです!」とはとてもじゃないけど断れないってワケだ。
もっとも曹長殿をはじめ掘削班の面々は
「シェフの握り飯は格別だからなぁ!」
と、毎度毎度具材に工夫を凝らした日替わりオニギリを楽しみにしているのも確か。
まあ、いつもだったら今日とは違って樽も壺も担がないでよいから、トロ箱を自転車の荷台に縛るだけですむのだけれどね。
ちなみに”この時代”、板海苔は凄く値段が張るものだから、今日担いできたオニギリは海苔巻きではない。
紙漉きの要領で成型する板海苔は、既に1400年代半ばには完成していたらしいのだけど、岩に生える天然物の採取か、せいぜい人工的に立てた海苔ヒビに自然付着する海苔を採取するという方法が取られていたからだ。
言わばその年の生産量の多寡は、その年の自然条件によって大きく左右されるわけで、大儲けするか素寒貧になるかは博打的要素が大きかった。
だから海苔養殖が飛躍的発展を遂げるのは1949年と戦後になってからのこと。
イギリス人のキャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー博士が、牡蛎殻の中に海苔の糸状体を発見し『海苔が夏の間をどのように過ごしているか』問題を解明したのだ。
(この1949年は世界史的にも大きなトピックスのある年で、NATO(北大西洋条約機構)が成立した年であり、また中国では共産党軍が南京を攻め落として中華人民共和国を成立させた年でもある)
ドリュー博士は同じ藻類学者である九州大学の瀬川宗吉博士に手紙でそれを報せ、瀬川博士が熊本県水産試験場と人工種苗養殖技術を確立したのが1953年。
(ちなみに世界史でいえば、1953年は朝鮮戦争で休戦が成立した年でもある)
だからお珠シェフは――たとえやりたかったとしても――高価になり過ぎるからオニギリを海苔巻きにするのが難しかったわけだ。
ただし、この海苔の人工種苗養殖の話は『身近な生き物の生活環』の例として夜学で講義した時に、鍋島(佐賀)、大村、細川(熊本)、立花(柳川)藩あたりのお侍から大きな反響があったから、大量生産による低価格製品の普及は案外早く実現するかもしれない。
実現すれば莫大な利益を生み出すのは間違いないからね。
人工種苗までは設備的に難しいとしても、竹杭に棕櫚縄を張り巡らせた網ヒビなら、この冬からでも実行に移すことが出来るわけであるし。
オニギリを配り終わったあと、元寺男さんに手伝ってもらって背負子を担ぎ直すと、僕は桟橋まで降りて乙型高速艇に乗り込んだ。
篠原艇長殿は「おいおい、ひっくり返らんでくれよ。」と笑いを堪えて荷物下ろしを手伝ってくれて
「じゃあ、直で海津丸まで飛ばすぞ。」
と高速艇を発進させた。
僕が「どうぞ」と重箱の蓋を開けると、篠原さんは「珠さんの握り飯か!」と嬉しそうに一つ摘まみ、皆に「シェフ謹製のブツだぞ。具は……ウム、貝の粕漬だな。旨い。」と重箱を回した。
そして「珠さんの飯が食べられなくなるのは残念だなぁ。」と、しみじみお握りを味わっていた。
僕は「後任の人に、レシピは伝授してくれてますけどね。」と言ったが、篠原さんは
「料理ってモノは、レシピ通りに作っても同じ出来とはいかないからなぁ。」
と残念そうだった。




