上海開城戦8 一石二鳥作戦(鎮江”強襲”)
朝潮を旗艦とし潮と汐の2隻の砲艦、装甲艇群から成る打撃部隊は、上海を後にすると揚子江を遡上した。
後ろには尚将軍が総大将を務める上陸部隊の特大発と大発群が続く。
参加兵数は、まず尚将軍の手勢に皇帝直属武官を併せた刀槍兵 約300。
加えて趙士超の騎馬偵察ライフル兵が40騎×6個小隊 240。
更に明石掃部の騎馬ライフル兵が40騎×5個小隊 200騎。
また帆船隊への捕虜移送を完了させた月之進指揮下のライフル兵が150。
なお火力支援に御蔵兵特別陸戦隊(蓬莱兵含む)重機関銃分隊×2 軽機関銃分隊×5 重擲弾筒分隊×5。
以上、計930名。
兵数そのものは千にも満たぬ”小勢”だが、この時代にあっては火力・制圧力は圧倒的であった。
最後発組が南明連合水軍の帆船隊で、操船や護送任務の南明軍兵士も乗船しているが、各軍船にはそれ以上に多数の上海で降伏した捕虜が満載されていた。
見た目には、この最後発組が――隻数も多い上に高く帆を上げてよく目立つため――圧倒的に存在感が有った。
清国軍側にしてみれば、乗船した兵が『清国兵捕虜』だとは判らないため、見た目だけでは上陸戦闘を行う明国水軍陸戦隊だとしか判断出来ないであろう。
大船団は張家港沖を通過すると鎮江沖へと接近した。
朝潮が威嚇の霧笛を大音量で響かせる。
岸辺や見張り台で目を凝らしている清国兵には、この揚子江を埋め尽くすような捕虜輸送部隊が『敵主力』と見えたであろうことは間違いない。
鎮江を守る清国守備隊は「いよいよか!」と怖気を震ったが、鎮江が落ちれば南京に南明軍が殺到する。
満州族(女真族)督戦隊が兵の取り締まりを厳しくしたが、士気の低下は覆い隠しようが無かった。
水上部隊の接近と呼応するように、常州を占領した南明陸軍が一部の先遣隊(鄭福松・関仁・鄭芝豹)を前方に進め、短い距離の間に点在する常州~鎮江間の前哨陣地を怒涛の勢いで次々に突破した。
本隊はまだ常州鎮撫を確実にするため動けなかったのだが、戦慣れした福松・今関羽コンビは火縄銃と手榴弾の集中運用で、戦意が枯渇した小勢の清国守備兵や斥候部隊を圧倒したのである。
『敵、水陸より鎮江に迫り来る。その勢い大にして、数、無数なり。止めること、もはや能わず』
前哨陣地の守備隊長から悲痛な状況を報告する伝令が送られると、鎮江守備隊は『精神的』に持ち堪えることが出来なくなってしまった。
そもそも紹興や杭州防衛などに精兵の殆どは引き抜かれて転出されてしまっていたし、京杭大運河の揚子江北岸(揚州)から補充されるはずだった援軍は――騎兵主体で水上戦闘に不慣れなこともあって――明国水軍(+御蔵勢)の水上撃滅戦によって為す術も無く船舶ごと沈められるか拿捕されていたのだ。
結果、鎮江守備隊の崩壊は一瞬の内に起きた。
満州族指揮官と督戦隊とが、城兵を置き捨てて南京に向けて逃走したのである。
『頭』を失い、今後の指針も授けられないまま置き去りにされた鎮江城の徴募兵は、ただただ呆然としていた。
目端の利く少数の兵が身一つで逃散するか、城外へ出て南明軍に走ると投降を申し出たのみである。
福松らは投降兵から子細を聴取すると、敢えて南京へと逃げる敵は追わず、城外から降伏勧告の矢文を射込むだけに止めた。
投降した兵は個人的に降伏の意思を示しただけで、鎮江守備隊の総意ではなかったからだ。
温いと言えば温い対応である。
戦意も無く組織立った行動も出来ない鎮江守備隊は、力押しをすれば簡単に白旗を上げる可能性は大きいとも思われた。
「馬鞍山を攻めておられる大将軍(唐王)がお怒りになられませんか?」
と関仁は危惧したが
「父の……いや車騎将軍のお考えだ。」
と福松は意に介さなかった。
「あの城では上に立つ者が先に逃げてしまったからな。下手に城を囲んで攻め立てれば、何がどう転ぶか分らぬ。守備兵の中には死に物狂いで抵抗する者も居ろう。揚州から苦労して運び込んだ物資に火を放つやも知れぬし、住民を巻き込んだ『嘉定屠城』の二の舞は避けたいのだ。」
嘉定屠城というのは、杭州で戦死した李成棟が以前行った殲滅戦である。包囲された嘉定の明国兵は退路を断たれて死兵と化し、城市が焼き尽くされるまで住民もろとも抗戦を続けたのだ。
両軍(非戦闘員含む)に夥しい死者が出たのは勿論、勝った清国軍にとっても廃墟以外に得る処が無かった戦いである。
「それに」と福松は声を潜めて「唐王様にとっては我らが先に応天府へと兵を進めるよりも、自らが先に応天府を囲んだという名目が欲しいだろうさ。」と続けた。
「何と言っても、全兵権を握る大将軍閣下なのだからね。だから我々は馬鞍山を陥落した閣下が応天府に兵を進めるまでは、ゆるゆると鎮江に掛り切りな方が、なにかと都合が良いのだ。」




