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対空防御演習7 仮称「零式砲戦車」と中国式城壁

 上海付近に到着した特大発群から、砲塔を取り払った試リ(試製M3中戦車)の車体や、97式中戦車をクレーン車仕様に改造した力作車りきさくしゃセリ、砲弾運搬車などが続々と上陸を果たした。


 ここで試リの車体上部に155㎜カノン砲ロング・トムを載せた『155㎜自走砲』(仮称 零式砲戦車)を組み上げるためだ。

 上海城まで自走させ、直射で城壁を破壊、突撃路を開削するのが目的である。


 上海も揚子江南岸の諸城のように、杭州戦のころには一旦は城兵のほとんどが抽出されて空き城同然だったのだが、各所の女真族敗残兵や匪賊化した逃亡兵が逃げ込み、いつの間にか(雑多な混成兵団ながら)戦力が回復していたのである。

 しかも寄せ集まりの軍だから、指揮系統がハッキリしない。

 多数の頭目が率いる山賊集団のようなもので、互いに牽制し合っているものだから、降伏勧告にも応じようとしないのだ。

 そのような状況だから御蔵勢に応援要請して、寧波で呉三桂をピンポイント爆撃した時のような手も使い辛かった。


 幸い住民の多くは、続々と集まって来る敗残兵の乱暴を怖れて城外に避難していたから、鄭芝鶴の隊が穀物を支給したり炊き出しを行なったりして、それを養っていた。

 鄭芝鶴軍は、上海籠城軍に対する押さえというよりは避難民に対する庇護者として、車騎将軍から配されていたのである。


 けれども、台州城ほかの鹵獲品で物資が豊かな鄭芝龍軍といえど、大都市 上海の民多数を無限に徒食としょくさせ続ける事は不可能。

 いつかは上海に巣くう賊徒を討伐しなければならなかった。

 ただし現在、鄭芝龍にとって最上位の攻略目標は鎮江である。

 上海解放に兵を割くのは”出来れば避けたい寄り道”になってしまうのだ。


 鄭芝龍としては上海討伐のタイミングを、福松が蘇州の治安回復を終えた後、と考えていた。

 蘇州の福松と常熟の鄭芝虎を無錫に向かわせ、常熟の鄭芝豹は上海へと移動させる。

 そして鄭芝豹と鄭芝鶴の軍を以て、上海攻めを行なうのである。


 ただし上海を攻めるのに、御蔵勢の砲爆撃で城内を徹底破壊するような事態は避けたかった。

 城内は匪賊化した敗残兵に荒らされてしまっているであろうが、建物が破壊されてしまったわけではない。居座った敗残兵さえ排除すれば、露営ろえい中の避難民はすぐにでも雨風をしのぐ屋根の下に戻れるのである。

 それが可能となれば、上海の明朝支持は確固たるものになるだろう。


 そこで鄭芝龍は、盟友であるハミルトンに

「寧波を砲撃した”あの”巨砲で、上海城の城壁を撃ち崩すことは出来ないだろうか?」

と相談を持ち掛けたのだった。

「門ばかりでなく、城壁さえも撃ち崩されるのであれば、籠城兵も抵抗が無意味であることを知ろう。」


 「フム。砲撃による城壁破壊か。ここで試しておくのも悪くない。」

とハミルトンも同意する。

「応天府(南京)のドド将軍が徹底抗戦を選んだ場合、南京城の城壁を攻めねばならない可能性もあるからね。テストケースとして上海で実験しておくと、改善点の洗い出しも出来るだろう。」


◇ ◇ ◇


 さて、ここで少し中国式城郭への城壁破壊砲撃の効果を、史実から見てみたい。


 日本軍の野戦重砲兵は15榴(96式15センチ榴弾砲)装備。部隊名に「独立」が付いていれば10加(14年式10センチ加農砲か92式10センチ加農砲)を装備していた。


 南京城攻略の時には、野戦重砲兵第11連隊が光華門の東北約1.5㎞の城壁を、距離3.5㎞から15榴2門で砲撃。砲弾230発を発射して第9師団の突入を成功させた。


 また野戦重砲第14連隊は、中華門を破壊。

 内、歩兵第6師団に配属した野戦砲兵第14連隊第1大隊は、南京城西南角の城壁破壊を行ない、距離4㎞から15榴1門をもって52発を発射し、成功させている。


 南京以外の城壁破壊の例としては

〇正定城 東北角

 支那駐屯砲兵連隊第2大隊 96式15榴×8門

 短延期信管と瞬発信管を混用 突撃路開削に成功

〇彰徳城

 野戦重砲兵第5連隊

 15榴1門を城壁から100mの距離に進出させ、射距離150mで砲撃を開始、14発で突撃路開削

〇信陽城

 野戦重砲第12連隊

 砲2門をそれぞれ城壁から63mと100mにまで近接させ、瞬発信管で城壁上の敵を制圧し、破甲榴弾20発で高さ9m厚さ6mの城壁を破壊

などの例がある。


 なお15榴以外の戦績としては

〇独立攻城重砲兵第1および第2大隊

 89式15センチ加農砲 45式24センチ榴弾砲

 ・正定城城壁破壊

 ・南京城中山門南部城壁に破壊口

〇臨時攻城砲兵中隊

 96式240㎜榴弾砲

 ・正定城城壁破壊

 ・南京城中山門 鉄製門扉貫通破壊

など。

 以上、参考文献は『別冊歴史読本 戦記シリーズNo.29 日本陸軍総覧』新人物往来社 1995年8月22日発行よりp58~65『支那事変における砲兵部隊の火力戦闘』著者 田藤博。

 また『別冊丸 太平洋戦争シリーズ12 不敗の戦場 中国大陸戦記』灘書房 平成元年7月15日発行を参照。


 ロング・トムの155㎜カノン砲の威力の参考には、野戦重砲兵の15榴より独立攻城重砲兵の15加を用いるべきであろうが、読者諸氏に対しては申し訳ないことに、残念ながら15加の「射撃距離と使用砲弾数」は分からなかった。


 ちなみに最大射程距離を比較すると

M59 155mmカノン砲 (ロング・トム):23.5㎞

96式15センチ加農砲 (15加):26.2㎞

96式15センチ榴弾砲 (15榴):11.9㎞

92式10センチ加農砲 (10加):18.2㎞

といった感じ。


 対戦車射撃で正面装甲を射貫くのには、57㎜短砲身榴弾砲より37㎜速射砲の方が威力があった事でも分かるように、至近距離からの城壁破壊においても山なりの弾道を描く榴弾砲より、平射に近い加農砲の方が破壊効果が高かったであろうことは想像に難くない。

 少なくとも距離100mや200mといった至近距離からの水平射撃であれば、155㎜カノン砲の威力が15榴に劣るとは考えなくともよいだろう。


 ただし……である。

 1645年頃の南京城の城壁の強度と、日中戦争の南京戦(1937年)の頃の強度が同等か? という問題がある。


 それというのも、南京城は「太平天国の乱」で一度メチャクチャに破壊されたという事実があるからだ。

 世界史の教科書だと数行の記述しかない太平天国の乱だが、1851年~1864年の15年間にわたる大規模内戦で、トータルの死者数は”少なくとも”2,000万人。

 南京が絡んでくるのは、太平天国側が1853年に占領してからで、この地を首都とし天京と改名した。

 天京(南京)が陥落したのは1864年になってのことで、籠城した太平天国側だけでも20万人が城内で死亡した。


 この天京(南京)攻防戦では、攻撃側の清国軍は城壁の地下に10本の坑道を掘り、地下で爆薬を使って城壁を崩壊させている。

 城が陥落したのは7月19日だが、略奪・放火された南京は7月26日までの一週間の間、燃え続けたという。

 本当に一週間というキリのいい期間の間、ずっと燃え続けていたのかどうかは横へ置いておくとして、ハナシ半分に聞いても、南京が灰燼かいじんに帰していたのは間違いないだろう。

 版築工法と焼き煉瓦で築いていた不燃性の壁であったとしても、坑道爆破などという荒業あらわざを受けて城壁だって相当に傷んでいたはずだ。


 ちなみに、この坑道を掘って城壁を壊すという戦術は、実は紀元前5世紀ころから用いられていて、紀元前3世紀ころに編纂された(とされている)『墨子ぼくし』に攻城戦ノウハウの一つとして記述されている。

(墨子なんて、そうそう手に取ってみようとは思えない書籍だろうが、1991年に酒見賢一が『墨攻ぼっこう』というベストセラー小説を書き、漫画や映画にもなったから内容は熟知している人も多いはず。)

 その墨子に云うところの「けつ」という戦術が坑道攻撃にあたる。

 坑道は挺身隊を城内に送り込むというだけでなく、城壁破壊の方法としても用いられたわけだ。

 念のために触れておくと、墨子の時代に火薬は無いから、城壁破壊を行なう場合には城壁地下に支柱を立てて城壁を支えながら掘り進め、後から支柱を焼き払って上部構造物を崩壊させるという手順を採った。

 なお、坑道から挺身隊を送り込んで奇襲攻撃をする場合は、同じ穴掘り戦法でも「地突ちとつ」という別分類にされている。

 また、地下ではなく地上部で城壁に穴を開け、城内を攻撃するのは「空洞」という分類。

 だから155㎜カノン砲で城壁をブチ破る戦術は、墨子集団から見れば「穴」ではなく「空洞」に分類されるであろう。


 それはともかく、天京陥落とともに廃墟となった南京城を補修・再建する時、『破壊される前の城と比べて同等の強度の城壁を築いたであろうか』問題である。


 天京攻防戦は1864年だから、1840年~1842年のアヘン戦争や1856年~1860年のアロー戦争の後、1900年~1901年の義和団ぎわだんの乱(北清事変)の前というタイミングの出来事である。

 清としてはアヘン戦争やアロー戦争の戦後賠償は痛かったはずだが、イギリスがアヘン貿易を仕掛けたのは”清国産の茶と絹が英国ひいてはヨーロッパ中の金銀を吸い上げていたから”という経済戦争の前段がある。身勝手な言い分だが、清国茶のせいで西欧の産業革命が頓挫するという危機感に煽られての麻薬貿易だったわけだ。

 清は金を持っている、あるいは、持っていると思われていたのだ。清国側にしても財政担当者以外は同じようなものだろう。


 すると「城や要塞など、攻められればいつかは陥落するものだから、城壁など簡略化すればよい」という判断は付き難いと考えざるを得ない。

 「兵器や兵制を近代化すると同時に、城塞もより強固に」という考えに支配されて不思議はない。

 現に第一次世界大戦(1914年~1918年)後にも、陸軍国フランスは独仏国境沿いにマジノ線という長大な要塞線を構築している。(着工は1936年)


 こう見て来ると1645年頃の南京城の城壁は、1937年の日中戦争の時よりやわだったのではなかったかと空想されるのであるが、あくまで筆者の妄想である。

 そこで『城壁の強度は同等以下』という事で話を進めさせて頂くが、ご了承いただきたい。

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