密偵対策と捕虜収容施設
高坂中佐の言葉に、加山は思わず「いえ、自分の懸念は、そこではなく……。」と応じた。
すると、加山の反応を見た中佐は「おや、違いましたか。」と、意外そうな顔をした。
「中佐殿、新港地区からの避難民には、胡乱な者が混じっている可能性があります。こういった状況ですから、避難民を兵舎内に受け入れるのまでは仕方が無いにせよ、全ての情報を明らかにするというのは、機密保持上正しいのかどうか、確信が持てません。」
加山の意見具申に、中佐は「それならば、なおの事、情報を開示した方が賢明ではないでしょうか?」と笑顔を見せた。
「つまり状況を理解すれば、今ここで破壊活動や妨害工作を行うのは得策ではない、という事を理解してもらえるからです。仮に工作員が何かを企んでいたにせよ、御蔵島が現代社会と切り離されてしまった事で、島の施設に被害を与える事は、自分達が昭和に復帰出来るという確信が無い限り、自分で自分の首を絞めるだけだと分かってもらえるでしょうから。」
「……敵国に忠誠を誓ったスパイでも、『一蓮托生』、『呉越同舟』だと?」
「そうですね。それに『本物の』スパイが居るのなら、そのスパイを追っている特高警察の方もいらっしゃるかも知れませんね。その様な方々だと、我々に欠けている尋問や敵地潜入の手法などに長けているでしょうから、両者ともに協力して頂けるようになれば、学べる所も大きいと思いますよ?」
工作員が潜り込んでいる事まで想定した上での情報提供、という訳か。
加山は高坂中佐の事を「切れ者」だと認識はしていたし、敬意も払っていたのだが、改めてその凄みを見た思いだった。
この人は、なぜ参謀本部とかで要職に就くのではなく、一介の「主計」中佐なのだろう?
加山少佐の思いを知ってか知らずか、中佐が次に口にしたのは、また「紙」の話だった。
「紙の問題は、長い目で見れば、工作員の存在よりも余程大きな懸案事項なのです。」
「それほど、大きな問題なのでしょうか?」
「この島では、再生紙や藁半紙を作る程度の事は可能ですが、製紙工場は有りません。木材から西洋紙を作るのには、まず木材を砕いてチップにし、苛性ソーダを加えて高温高圧で煮溶かしてパルプを作ります。漂白剤でパルプを漂白してから、紙に漉き裁断するという工程が必要なのです。言ってみれば、紙は形を変えたエネルギーそのものなのです。」
そのように指摘されると、紙が重要な戦略物資であるのが理解出来る。
記録・伝達・技術継承に必要であるだけでなく、生活物資としても不可欠なのだ。
しかも、今の段階で手に入れられるのは、島内に備蓄してある分だけだ。
「将来的には、島の外との交易が欠かせない、という事でしょうか?」
加山の問い掛けに、中佐は大きく頷くと「どの道、昭和に戻れなければ、この世界で様々な物資を調達する術を見出さなければならないでしょう。」と、まとめた。
「今、議論する話題ではないのかもしれませんが、交易品……御蔵島からの輸出品として、何か売りに出せる物は有りますか?」
状況に追われて、島外貿易の事など全く頭に無かった加山は、混乱する思考の中でようやく言葉を絞り出した。
我々はこの時代に無い強力な兵器を有しているが、それを売りに出すのは得策ではない。
持ち手を代えた武器は、こちらに向かって弾を吐くかも知れないからだ。
けれど中佐は、既に貿易を行う場合の交易品についても、頭を巡らせていたようだ。
「とりあえずは、燐寸が良いのではないか、と考えているのです。」
「燐寸?」
「はい。木片と微量の頭薬が有れば作れますし、頭薬原料の塩素酸カリウムは火薬廠に腐るほど持っているのです。発売当初の燐寸は大層高価な商品だった訳ですから、これで儲けさせて頂くのはどうかな、と。」
その時、一人の婦人部隊員が二人の許にやって来た。
「お取込み中の処、申し訳ありませんが、捕虜が到着致します。事前の打ち合わせ通り、新港地区からの避難民を収容する兵舎群の中に、捕虜収容棟を確保してよろしいのでしょうか?」
加山は部隊員の声の中に、僅かに疑念の響きを感じたが、この措置については中佐の考えに全く同意だった。
既に捕虜は存在するのだし、今から収容所を建設している時間は無い。
犯罪者を拘禁しておく営倉に入れておくには人数が多過ぎる。
ならば、基地内のどこかに集めておいて、目を光らせるより仕方が無い。
けれど「目を光らせる」のには人手が必要なのだ。
かと言って、今夜の邀撃計画や明日の作戦に必要な兵力から、監視任務に人手を割くのは出来るだけ避けたいのも事実。
だったら、民間人の助けを借りる他は無い。
そこで、苦肉の策として思い付いたのが「宿営地の中に収容施設を設ける」という方法だった。
捕虜の動静に気を配るのは、収容所周辺の「住民」に任せ、歩哨や警備の兵は「捕虜が住民から危害を加えられる事が無い」程度の最低限の人数に抑える。
住民が自警団を組織するのは、それを認める。
こうして捕虜・住民・歩哨の三者の間に、鼎立する緊張状態を作り出して、互いに牽制させるのだ。
緊張状態が過熱すると、思わぬ事件に発展しかねないが、適度な緊張状態は人間に限らず生き物を活性化し、健康状態を保つのに役に立つ。
中佐は女性隊員に「はい、お願いします。」と応じてから「食事の配給は、滞り無く?」と逆に質問を入れた。
婦人部隊の女性は、動じる気配を見せずに「兵と民間人の別無く、携帯糧秣乙を配布中です。」と敬礼すると、引き下がった。
高坂中佐は、女性隊員の後ろ姿を見遣りながら「明日中に、炊事班を組織しなければなりませんね。」と加山に同意を求めた。
加山は「娑婆の人間に、乾パン食ばかりじゃあ、音を上げてしまうでしょうから、米の飯は士気を保つのにも必要だと思います。」と感想を述べてから
「工場には食堂のコックが居るでしょうし、新港地区には飲食店が有りますから、それらの者に協力を仰ぐのは?」
と、思い付きを提案した。
高坂中佐は加山に向けてニコりと笑うと
「素晴らしいアイデアです。加山さん、ご苦労をお掛けしますが、その件、宜しくお願いしますね。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
登場機材
携帯糧秣乙
携帯糧秣とは歩兵各自が携帯する食糧
携帯糧秣乙の内容は
乾パン 675g
(乾パンは乾メンポウとも呼ぶ)
コンペイトウ 20粒
缶詰肉 150g
食塩 12g(錠剤)
ちなみに「携帯糧秣甲」の内容は
精米 855g
缶詰肉 150g
食塩 12g(錠剤)
参考
炊事班
一個大隊につき一炊事班を編成
一炊事班は総員 18名
食事を作って各中隊に配食
兵一人当たりの「尋常糧食」は
米(麦混合) 840g
缶詰肉 150g
乾燥野菜
漬物
粉末味噌
調味料
(副食や乾燥野菜以下の項目は補給状態により異なる)
中隊以下の単位で行動する場合には
各自の携帯する飯盒で飯盒炊飯を行う




