弘光帝の南征?10
芋判の印璽を押した詔は無事発送された。
弘光帝としては伝国璽作成の後の工程は本職に任せることになるわけだから、気は楽である。
印面のチェックをするだけで良いからだ。
だから弘光帝の手を煩わせる部分は終わったも同然なわけで、洗い張りの終わった元の絹服を着てもいいのだが、「金印の完成をみるまでは」と粗衣のままで過ごしている。
実を言うと豪奢な服は重くて暑く、南の島には向いていない。
粗衣の方が気楽で快適だったのである。
黄道周の方も、粗衣粗食に馴染んで質素倹約に努めてもらいたい、と思っているから、いちいち小言は言わない。
天子としての威厳に欠けるとは思うが、もともと皇帝の威厳とは無縁な人物なのだから。
それに黄道周の元には、幾つもの重要な報告が届いており、弘光帝に構っている余裕が無かったというのも事実である。
その中でも最も奇妙かつ重要な報せは、洞頭の鄭隆から齎された。
洞頭列島の鄭隆勢は、舟山の倭寇と和し、共闘の約定を結んだのだという。
手引きしたのは行方知れずになっていた趙士超で、彼が御蔵勢という”倭寇”の鉄船を引き連れて戻ってきたという事だった。
御蔵の者は大凧に乗って自在に空を飛び、帆も櫂も必要としない鉄船を操るという。
凧で空を行く、などの神仙もかくやという与太は別として、舟山の倭寇と手を握ったのは大きい、と黄道周は考えた。
もし舟山の倭寇と対立するような事態であれば、海路を北上する鄭芝龍の水軍は、舟山を討伐するか、温州からは陸路を採らなければならないだろう、と思っていたからだ。
清という強大な敵との戦いを前にして、倭寇のような鼠賊に悩まされるのは業腹であるし、かと言って倭寇の邪魔を避けるのに陸路のみを往けば、兵や物の輸送が滞ってしまう。
だが杭州湾で大いに威勢を奮っている舟山の倭寇が味方に付けば、福州水軍は一気に台州や寧波を衝くことができる。
寧波の清国軍は震撼するであろう。
黄尚書は急ぎ仮宮を訪ねて、皇帝に鄭隆の行った”舟山の倭寇との和議”の追認を求めた。
弘光帝は気楽な感じで礼部尚書を謁見し
「ほほう。倭寇が我らに手を貸すというのか。良いではないか。我らには匪賊・流賊も次から次へと帰順しているというからな。倭寇すら帰服させるとは鄭隆の器量の大きさであろう。」
と”それ”を認めた。
黄は鄭隆の文を読んで、これは『提携』か『不可侵』であって倭寇が南明に降ったというのとは違うようだ、とは思っていたが悪い話ではないので追認の書面を整えた。
ただ「あの趙士超と鄭隆とが、このような文を寄こすとは……」と、凧や鉄船の部分に関しては懐疑的に考えていた。
「おおかた、『鬼道をよくするという邪馬台の卑弥呼が冊封の使者を寄こした』というように、味方の士気を上げるための方便であろうか。」
しかし、賢人 黄道周を以てしても『読めなかった』事実が次々に明かされていく事になってゆく。
御蔵勢の尽力で、唐王の股肱である鄭福松と、温州の魯王とが無事に会見を果たしたというのだ。
それには御蔵の凧が空から撒いた文が、大いに貢献したのだという。
また会見の場には鄭隆と御蔵勢の将も同席しており、御蔵勢の将は『馬なしで動く荷車』に乗っていたという事だ。
御蔵勢の将は『加山少佐』と呼ばれている豪傑で、舟山に拠る御蔵勢の頭目は『高坂中佐』という快男児らしい。
更に、御蔵勢は倭寇ではなく日ノ本の帝の臣と称している、という事で、軍紀は厳しく戦のみではなく施薬にも通じているという。
さしもの礼部尚書も訳が分からなくなった。
その後唐王は温州から麗水を目指し魯王は御蔵勢と共に台州へと向かったが、台州の清国兵は御蔵勢の威を怖れ、戦わずして南明に降った――という報告が入ると、皇帝と礼部尚書は顔を見合わせた。
「天啓ナルカナ!」と弘光帝は無邪気に喜んだが、黄尚書は報告した軍船の積み荷に目を瞠った。
イワシの缶詰・鯨缶・酒のソーダ水割・チョコレート・ビタミンC分包・丈の短い婦人服・ランタンと洋ロウソクなど見たことの無いお宝が10箱も積まれていたからである。
この時までには弘光帝も山頂の不便な仮宮から南安伯館へと居を移していたのだが、宮女の杜虹隠に御蔵のワンピースを着せてみて「ううむ……悪くない。」と呟いた。
弘光帝は斎戒沐浴を終えた後も、南の島の暑さに辟易して木綿の短衣を愛用していたので、審美眼的感覚から(だけ)ではなく、己が肌実感でもあるのだろう。
訊けばこの宝物は、御蔵勢から弘光帝への貢物というのではなくて、車騎将軍(鄭芝龍)が台湾のオランダ商館から生ゴムの買い付けに使う品だということだった。
霞浦沖で御蔵の翠光丸という鉄船に乗り込んだ車騎将軍は、温州沖で福州軍の輸送船5隻に生ゴムの買い付けを命じたのだと云う。
「御蔵様からは、恐るべき威力を発する手投げ弾なども都合させて頂いております。唐王様の快進撃には、その手投げ弾が不可欠な由。また御蔵様の凧は戦わずして敵を降す威勢を誇っております。生ゴムの約定は、果たせばならぬ使命にございまして。」
と船団の長は平伏した。
「左様な次第であるのか。」
と皇帝は杜虹隠にワンピースを脱ぐよう命じた。「約定は、信用のためには果たさなければならないものであるからな。我が勝手に手を付けることは出来ぬ。」
この頃には、弘光帝は一人称代名詞を特にフォーマルな時以外には『朕』から『我』に変更している。何か考えがあって、というのではナシに”なんとなく”である。ちょっと『くだけた』感じなのが気に入ったのであろう。
港を散策するときなどは、島の子供らから「皇帝様、ご機嫌麗しく。」と頭を下げられると
「良い天気であるな。我も気分が良いな。」などと言葉を返すのである。
それは兎も角――
黄道周としては10箱もの品の内、短衣の一枚くらいなら弘光帝が貰っておいても特に問題は無かろうと考えたのだが、皇帝自ら
『約定は信用のために必ず果たさねばならない』
と自分を律したのを見て、これは尊いお考えである、と敢えて異を唱えなかった。




