弘光帝の南征?9
弘光帝は黄道周の説明を受けて、禅譲という形で帝権を投げ出すのが南明にとって下策である、という事には理解が及んだが、同じ口から
「唐王を監国に任じなさいませ。」
という献策を聞くや、訳が分からなくなった。
「礼部尚書よ。それでは温州の地で、唐王の軍勢と魯王の軍勢とが相見えるではないか。」
南明の臣同士で激しい戦になってしまうであろう、と皇帝は危惧したわけだ。
「そこで、でございます。」黄道周は目に力を込める。
「唐王に『監国に任じる』という報を持たせた使いを出せば、形式上、唐王は固辞しましょう。」
中国的な様式美である。
貴人というものは、重大な官職を提示された時に最初の申し出では受けてはいけない、という不文律がある。一度も固辞せずに受けると、傲岸不遜と周囲から見られるし、場合によってはその役に就くのを強訴したのだ、とも陰口を叩かれかねない。
これが”上からの命令書”という厳命であれば、受けない方が礼を失することになるのだが、『諮る(上の者が下の者に相談する)』とか『乞う(頼む)』という形式を採られれば、せめて一度は固辞する姿勢を見せなければならない。
慎重な者なら、受ける気満々でも三度ほどは「畏れ多い。」と辞退するであろう。
「なるほど、それが狙いか!」
ここでようやく弘光帝にも礼部尚書の描く図式が見えてきた。
「唐王が朕の”要請”を――形式的にでも――辞退すれば、『それでは残念であるが』として魯王の監国就任を追認すれば良いのだな。」
「御意。」と黄道周は頭を垂れる。
「ただし、それのみでは唐王に不満が残りましょうから、唐王には大将軍の地位を与えます。」
大将軍という役職は明朝には存在しないが、明の時代には『三国志演義』が読み物や講談で大当たりを取ったために、皇帝から委任を受けて軍権を統べる役職であると広く知られている。陳寿の書いた正史を読んだことのない者でも、三国志演義の方の内容なら上下の別無くよく目に(耳に)していたのだ。
(ちなみに京劇は明の時代には存在していない。京劇が成立するのは清の時代になってからだ。もし弘光帝の時代に京劇があったなら、彼はそうとう入れ込んだに違いない。)
「考えたな!」と弘光帝は礼部尚書の謀を絶賛する。
「凡そ、礼部尚書は既に手を打っているのであろう。苦しゅうないぞ? 申してみよ。」
そして「魯王を監国にするより、礼部尚書を”丞相”に据える方が、朕には適役に思えるが、な。」と上機嫌である。
弘光帝も演義を読んだことがあるのに違いない。
「畏れ入ります。」と黄道周は皇帝の洞察に応えると
「唐王に瀬踏みの使いした者が、固辞の意との返答を持ち帰りましてございます。」
「そなたの読み通りか!」と皇帝は破顔する。「どうする? 今一度試しやるか?」
「戦時でございます。一度で充分でございましょう。」と黄道周。
二度目で”謹んで受け”られては元も子も無い。
「臣 黄が詔を起草いたしますゆえ、御裁可お願い致したく。」
「ふむ。どのような事を書く?」と弘光帝。
黄道周は「南明の監国に魯王、大将軍に唐王を任ずるとします。それから南安伯を車騎将軍に就けましょう。」と腹案を述べる。
「さもなくば、軍務の全てを唐王に裁可を仰がねばならなくなり、鄭芝龍殿が動き難くなりましょうから。」
「それで良い。」と弘光帝が頷く。
そして思い出したように「そうじゃ……あの桂林の……」と頭を捻る。「誰であったかな?」
「靖江王でございますか?」と黄が問うと
「そう。監国を自称しておるアヤツだが」と皇帝が受ける。
やはり討伐せよ、などと言われるのかと黄道周は危惧したが、弘光帝の口から出たのは
「靖江王も征北将軍か鎮北将軍くらいに任じておくが良かろう。」
というものだった。「楯に使うだけでは可哀そうであるからな。監国からは降格のようでもあるが、詐称・僭称ではないのであるから、不満は腹に収めるでろうよ。」
御意、と礼部尚書は平伏した。
そして、お優しいことだ、と改めて感じ入ったのである。
目にした皇帝は「頭を上げよ。」と腹心の知恵袋に命じた。
「詔を発するのであるからな。朕は急ぎ国璽を刻まなければならぬ。」
それならば、と礼部尚書は顔を上げて
「これにお刻み下さいませ。」と生の甘薯を取り出した。胡坐をかいた皇帝を仰ぎ見る礼部尚書は、何時になく笑顔であった。
「芋にか?」と皇帝は不思議そうな顔をする。芋なら今朝も食ったばかりである。
「粘土に押し付けて型をとるのでございます。なれば、板も芋も一緒。」
同じであれば板よりも芋の方が彫るに易しい、と黄道周は説明を入れる。
「芋の判にて、急ぎ詔には朱泥を押し、後にその芋判を金の国璽へと鋳なおせば良いでしょう。」
このような経緯があって、南明朝の新規国璽は黄金製であるのに『甘薯璽』と呼ばれるようになる。




