パラ24 明の歴史を大慌てで一夜漬け(昼間だけど)する件
「一言で言うと『早すぎた』兵器なんです。」
火箭は、ロケット花火と矢を合体させただけのシロモノで、近・現代兵器としての多連装ロケット砲に比べれば、面に対する制圧効果は著しく低い。
多連装ロケット砲の長所は、発射装置が簡便・軽量であることから、一般の火砲よりも炸薬量の多い大量の弾頭を、一度に発射して広範囲の目標を同時制圧できる点だ。
第二次大戦期の日本軍は、資源の乏しさから「一発必中」を旨とせざるを得ず、こういった兵器の実戦配備は後手に回ったのだけれど、研究自体は為されていた。
だから早良中尉も、『早すぎた』という単語だけで、大凡の処は察しが付いたようだ。
「一発当たりの、威力というか脅威が充分でないのだね? 命中率が低い上に。」
「はい。ただの矢を飛ばすだけですから。一応、着地点には花火の火薬による焼夷効果はあるとされていますが、炸裂弾みたいな破壊効果は期待出来ません。」
このやり取りを聞いていた岸峰さんが、興味津々(きょうみしんしん)といった様子で、口を挿んでくる。
「そんな不完全兵器、何かの役に立ったの?」
さっきまで不機嫌だったのは忘れたみたいだ。
「役には立ったのさ。敵が密集している場所に攻撃準備射撃として、まとめて撃ち込むとか、集団で押し寄せて来る敵に、突撃破砕射撃として発射するとか。射程は最大射程だと500mほどはあったというから、普通の弓矢では手が出せない距離の敵にでも、イヤガラセを出来たんだよ。」
「でも、最大射程の場所の敵じゃあ、まぐれ当たりで届いても、カスリ傷がせいぜいでしょう?」
「だから、カスリ傷でもダメージが有る様に、鏃に毒を塗るんだよ。」
毒を塗る、という発言に、早良中尉が即座に反応した。
「多連装火箭には、毒が?」
「はぁ。火箭だけでなく、中国では鏃に毒を使うのは伝統芸です。三国志でも襄陽の戦で、関羽が肘に毒矢を喰らいますよね。元寇の時にも朝鮮半島から出撃した東路軍が毒矢を使って、攻撃された九州勢が『卑怯ナリ!』って怒ってますし。」
「そう言われてみると、その通りですね。毒の種類は分かりますか。」
「いえ……。ヒ素や植物性アルカロイドだろうって話くらいしか……。」
口ごもった僕を見て、中尉は「いや、ありがとう。参考になりました。」と会釈すると、入って来た時と同様に、飄然と退室して行った。
彼の物腰は、落ち着いた風に見えるけれど、時間つぶしの世間話に来たわけではない筈だ。
閉まった扉を見つめて、岸峰さんは「多連装の火箭か……。そんな物をを装備している相手と遭遇したみたいだね。でも、明の時代の兵器なんでしょ? ここが明の時代だってこと?」
「一口に明朝と言っても、長いから。だって日本で言えば、足利時代から江戸初期まで続いたんだよ?」
僕は世界史年表を引っ張り出して、こちらを向いた彼女と、顔を突き合わせるような恰好で検証を始める。
ゾロアスター教系の白蓮教が、元に対して大規模反乱を起こした「紅巾の乱」が起きたのが1351年。
日本では足利尊氏の時代だ。
元朝が内紛を繰り返している間に、紅巾軍の中で勢力争いを制した朱元璋が応天府(南京)で皇帝を名乗り、「大明」を建国したのが1367年。
日本だと二代将軍 足利義詮が、将軍職を子の義満に譲った年に当たる。
明が元の首都である大都(北京)を陥落させたのは、翌年の1368年。
その後、1370年までに、元は「中国」内部の領土を全て失い、カラコルムまで落ち延びる事になる。
足利義満が、「日本国王 源道義」名義で明に国書を送ったのは1402年で、勘合貿易が開始されるのが、1404年。
明ではこの頃、永楽帝が鄭和の艦隊をインド洋に進出させている。(1405年)。
朝鮮半島では、李成桂の反乱で高麗が滅亡し(1392年)、李氏朝鮮に替わった。
モンゴル遠征中に永楽帝が病死したのは1424年。
同時期の出来事としては、六代将軍 足利義教による比叡山攻撃(1433~35年)があり、根本中堂が燃えた。
ヨーロッパでは、英仏百年戦争でジャンヌ・ダルクが処刑された頃(1431年)に当たる。
後期倭寇の大物である王直が捕縛された1557年ごろに、日本では桶狭間の戦が起きていて(1560年)、その少し前にはコペルニクスが地動説を発表していた(1543年)。
モンゴル平原に戻った元(北元)と明との間に和議が成立したのが1571年。
日本ではこの頃に、織田信長が十五代将軍 足利義昭を追放して室町幕府が滅んでいる(1573年)。
僕の中では、応仁の乱(1467~77年)がダラダラ続いた長い戦乱のイメージなのだけれど、元と明の争いは1367年から1571年までと、200年以上もの長きに渡ったわけだ。
そして、注意しなければならないのが1592年と1597年だ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の年に当たる。
今が文禄の役の1592年や、慶長の役の1597年前後であるなら、否応なく御蔵島の存在は、日本の明国侵攻部隊という位置付けに取られるだろう。
元寇の時には、二回目の侵攻(弘安の役 1281年)で、元軍は朝鮮半島と寧波の二ヵ所から出撃している。
だから、唐津の名護屋城から朝鮮半島に上陸した部隊と呼応して、中国沿岸に兵を上陸させたと考えるだろうと思うのだ。
そんな事になったら、御蔵島は明の大軍を引き寄せる事になるだろうけれど、その分、明は朝鮮半島に兵を送れなくなる。
秀吉軍が万里の長城付近まで、兵を進める事になるのかも?
ちなみに、この時分のヨーロッパでは、イギリス艦隊がスペイン無敵艦隊を撃破している(1588年)。
大阪冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)があった頃、中国大陸では満州方面で大きな動きが起きている。
女真人のヌルハチが、後金を建国したのだ(1616年)。
ヌルハチは1621年に明に宣戦すると、1625年には瀋陽を占領している。
しかしヌルハチは1626年に死去し、ホンタイジがその後を継いだ。
日本の状況はどうなっているかと、徳川幕府は三代 家光の頃で、1624年には侍講となった林羅山が朱子学の講義を行っていた。
オランダが台湾に貿易拠点を築いたのも、同じ年だ(1624年)。
また、ほぼ同じ時期に、アメリカ大陸には清教徒が入植している(1620年)。
ホンタイジは女真という族名を満州に改め(1635年)、国号を「大清」と定める(1636年)。
日本では1637~1638年に、天草四郎が原城に籠城した「島原の乱」が起きている。
清が、万里の長城の山海関を突破出来ないまま、ホンタイジは死去(1643年)。
後を継いだのは、まだ6歳のフリン(後の順治帝)だった。
ただ、清と20年以上戦争を続けていた明は、1644年に滅亡してしまう。
明を滅ぼしたのは、外敵ではなく盗賊団(反乱軍)だった。
各地の盗賊団を次々に傘下に収めた李自成は、1641年に洛陽を占領する。
その後、西安を占領して「大順」を建国(1643年)。
勢いに乗った李自成は、1644年に北京を占領し、明国皇帝 崇禎帝を自殺に追い込む。
李自成が何故に勢力を急拡大出来たかというと、「年貢の免除と土地の分配」。
ま、革命時に反政府勢力が使う常套手段だ。
でも、そんな事を実行すれば、経済が成り立たなくなるのは当然だから、権力を握った後は掌返しで約束は反故になるのが世の習い。
けれど、彼が約束を守る心算だったのか、あるいはハナから口先だけだったのかは、分からない。
何故なら、順はアッと言う間に滅んでしまうから。
ちなみに、高麗を滅ぼしたのが「李成桂」で、明を滅ぼしたのが「李自成」。
テストに出ると、どっちがどっちだったのか迷いやすい所だ。
崇禎帝が自殺した時に、山海関を守備して清と睨み合っていた明の将軍が呉三桂。
いきなり明が無くなって、背後が順という訳が分からない国になってしまったので、彼は困った。
崇禎帝に対する弔い合戦の心算だったのか、「知らない天国より知ってる地獄」という腹だったのか、呉三桂は瀋陽に使者を出し、清との同盟(降伏)を模索する。
幼い順治帝の後見人であるドルゴンは、呉三桂の降伏を受け入れ山海関に兵を進める。
北京の李自成は20万の軍を指揮して山海関を攻撃するが、清(ドルゴン軍)・明(呉三桂の降伏兵)連合軍に蹴散らされてしまった。
敗北した李自成は、一旦は北京に逃げて紫禁城で皇帝に即位するが、さらに西安へと逃走を続ける。
しかし結局は湖北省の山奥で、農民に殺されてしまう(1645年)。
皇帝としての在位は、たったの40日間だった。
「すっかり夕方になっちゃったよ。石田さん、遅いね。」
岸峰さんが、窓の外を見ながら背伸びをする。
僕も、メモを取るのに使っていたシャープペンシルを、レポート用紙の上に投げ出し、ペンだこをマッサージする。
「まあ、事が事だからね。戦争が起きたのなら、僕らの相手をしているヒマなんか、無いのかも知れない。」
彼女は、そうだね、と呟いてから窓辺に移動し、外を眺めていたが
「なんだかドンドン、トラックがやって来ているみたいだよ。列を作って歩いてくる人もいる。」
と、少し興奮したような声を上げた。




