弘光帝の南征?6
ご精進下さいませ、と礼部尚書が宦官を連れて去ると、弘光帝はまず甘薯を手にした。
塩水で茹でたものらしく、まだ仄かに温かい。
――美味ナル哉!
皇帝は甘塩っぱいサツマイモで腹を満たし、窓から漂ってくる粥の匂いの誘惑を忘れることができた。
それから窓辺に出て、天空の日輪を遥拝する。
皇帝が、自らが帝位に就いたことを天神地祇に報告する『封禅』の儀式を行うのには、正式には泰山(山東省泰山市にある山)で執り行うと決まっているのだが、取りあえずの略式である。
「陛下は既に帝位にあらせられるのですから、伝国事を刻んで民に安寧をもたらし天下の平安を祈るだけなら、この山で祈りを捧げても天はお聞き届け下さいましょう。」
と礼部尚書が太鼓判を押したからだ。「天も地も果てしなく一続きに連なっておるのです。あたら泰山にまで出向かずとも、誠意を伝えることさえ叶えば、天の神・地の神もご納得頂けましょう。」
ちなみに泰山以外で封禅を行なった皇帝がいないわけではない。
三国時代の呉の孫晧がそうである。
ただし孫晧は暴政を行なって呉を滅亡させている。
歴史に詳しい黄道周がそれを知らないわけではなかったが、別に今回は封禅をしようというのではなく単に祈りを捧げるだけなのだから、問題ナシ、と判断したわけだ。
弘光帝は祈りを捧げ終えると、危なっかしい足取りで山道を一人で下る。
中腹の水場で、頭から清水を被るためである。
ただし皇帝は気付いていないが、応天府から付いてきた武官や施琅の配下が計4人、遠巻きにして彼をコッソリ見守っていた。転んで動けなくなった場合などに”たまたま通りかかった風”を装って皇帝を助けるためだ。
ハラハラしている護衛たちの心配をよそに、ツンツルテンの白衣姿の皇帝は無事に水場に辿り着いた。
エイ! とばかりに水を何杯も浴びると衣を着替えて、脱いだ白衣は水で洗う。
適当に水に泳がせるのではなく、皇帝は念入りに洗濯をこなしていた。
斎戒沐浴を終えた皇帝は、再びヨロヨロと山道を登ると仮宮に籠った。
日光のあるうちに篆刻を進めなければならないからだ。
仮宮の室内照明用には蝋燭や灯明皿も用意されているのだが、細かな作業を進めようと思えば、日光に勝るものはない。
「天帝よ。我に加護を与え給え!」
と印刀を振るった弘光帝だが、すぐに「あ!」と狼狽した。
気合が入り過ぎて力加減がおかしくなり、大きく下書きからはみ出してしまったからだ。
別の紙を板に貼り、それが乾くまでの間に、失敗した板に向き直って練習のつもり彫ってってみる。
練習だ、と割り切れば難無く作業は進んだ。
「なるほど。強く念じれば良いというものでもないのだな。物事は中庸がよいとは言うが、印刀に込める力も中庸でなければ印も刻めぬ。」
皇帝が篆刻のコツを掴むのに苦労している間、黄道周や文・武の官僚たちは遊んでいたわけではない。
どういう状況だったのかと言うと、博学な黄による諸学の講義の他に、戦況分析に忙殺されていたのだ。
分析を難しくしたのは、船便でもたらされる情報が、経時的に順序立って到達するわけではない事に起因している。
船足というのは、風・潮・船の性能(帆の枚数や漕ぎ手の数)など変数が多く、先に出発した船が必ず先着するというものではない。時に風待ちによって後続の船から追い抜かれることも儘ある。
だから、「今にも落ちんとしていたはずの砦」なのに「敵の勢盛んなるが故、囲んで暫し降伏勧告を行う」などという錯綜した報せが後着する場合だってあるわけだ。この場合、どちらが先に出た文なのかは日付で確認するしかないし、日付が明記してなければ水夫を捕まえて「何時、発ったのか。」と問い質さねばならない。
これに加えて武官には仮宮警護の任務もあるし、わずかな空き時間には施琅の配下を相手に剣の腕を磨いていた。倭刀を巧みに操り剽悍な切り込みを見せる海賊衆には、腕に覚えがある若手武官もタジタジだった。
「そろそろ、か。」
そんな中、礼部尚書はある決断をした。
皇帝が伝国璽の印面原版を刻み始めて三日目の事である。
彼は芋を抱えて仮宮に弘光帝を訪ねた。
皇帝は疲れ果てたのか、窓辺の絨毯の上に転がっている。眠っているのではないのは、指で髭をなぶっていることから見て取れる。
「臣、黄が参上仕りました。」
「おお、礼部尚書か。」さすがに無作法であるかと感じ、皇帝は身を起こして胡坐をかく。「今宵の芋であるな。苦労。」
「厭かれましたかな?」と教師の声で黄道周が問う。
「さすがに、厭いた。」と弘光帝は正直な感想を述べて苦笑する。「唐王の勢いは、今や天を覆わんばかりであるのに、朕はここで芋を食うては屁を放っているばかり。」
「それは違いますぞ。」と礼部尚書の声は少し厳しくなる。
「陛下は剣を振るって敵将と切り結びたいのでございますか? 匹夫の勇を奮いたいのであれば、施琅殿に頼めば軍船を仕立ててもらえましょう。」
「……それとは、どうも違う……。」と皇帝は項垂れる。「朕は戦場では役立たずじゃ。」
その答えに、黄は尚も問いを重ねる。「なれば、何をお望みなのでしょう?」
皇帝はしばらく考えた末
「天下のために、何かしら役に立ちたいのだ。」
と、ポツリと答えた。「天子である、などと言うのは別にして、我に出来る”何か”明朝のため……いや”この世”の為の何かを、な。」




