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弘光帝の南征?3

 南竿島において、皇帝の仮宮と決められたのは山頂に建つ鄭芝龍の砦である。


 島の最高峰は250mほどの標高があったから眺望は抜群に良いし、何より要害堅固である。

 ただし、普段使いするには勝手が良くない。

 薪炭から食料品まで生活必需品の全部を、人の手によって港から担ぎ上げなければならなかったからだ。

(例外は清水で、ふもとと登山道の途中とに水場は有った。)

 元々、海域を見張る監視廠が目的の小要塞で、島が襲われた時の『詰めの城』なのである。


 だから常時砦に詰めておく人数は、勢い最低限と成らざるを得ない。

 多人数を置いておくには、補給が面倒であるからである。

 それに、そもそも南竿島を含む馬祖列島は鄭芝龍艦隊の泊地なのだから、警戒は海に浮かぶ軍船が既に担っているわけであり、殊更に砦に人数を割かなければならない必然性は低かった。

 そのため港のある馬祖村には、南安伯配下の普段住みのための屋敷が並んでおり、鄭芝龍のぜいを極めた別荘もそこに在った。


 当初、弘光帝の一行は全員が山頂の仮宮に荷をほどいた。

 そして直後から礼部尚書による『集中強化合宿』が始まったのである。

 礼・祭祀・歴史・政務・外交を極めた黄道周にしてみれば、再び弘光帝が応天府の玉座に返り咲いた時に、それを補佐する人材を育成しておかなければならぬ、という強迫観念じみた使命感が有ったし、皇帝と命を掛けた決死行を共にした一同にも、礼部尚書に認められるよう道を究めなければならぬという思いで、それは共有されていた。

 官僚や武官だけでなく、二人の宦官と一人しかいない宮女も同様の思いであった。

 弘光帝も”勉強会”に参加はしたが、皆の殺気とも呼べるような気迫にタジタジなのであった。


 唐王と福松が陸路から、鄭芝龍が海路から北伐を開始すると

「〇〇城を押さえた」 「××砦を降した」という戦勝報告が、船便で次から次へと南竿島まで届けられるようになってきた。向かうところ敵無しの、破竹の勢いである。

 黄道周は、歴史分野の教養として史記ばかりでなく孫子などの兵学も講義していたから、大きく地図を描いて現在の戦況をも教材として使用した。「次は、どの城を懐柔し、どの砦を囲む?」

 生徒たちも優秀である。「目前にある砦は捨て置き、海からかえる飛びに先のさとに兵を進めます。さすれば砦は敵中に孤立することとなり、たまらず南明にくだりましょう。いたずらに敵味方の兵を損ねることなく陣を進めるのには、それが王道かと。」

 「良く読んだ。我もそう考える。」と黄道周は生徒を褒める。「さて南安伯殿は、実際にはどう動かれるかな?」


 生徒の発案は黄道周の読みと一致してはいたのだが、彼がそれを最善手だと断定しなかったのは、最前線の状況というものは常に流動的だからである。だからこそ前線の将には独断専行の権限が認められているのだ。

 タイムラグのある”後方”が、皇帝なり王なりの権威を以て軍の動き全てを制御しようというのはハナから不可能なのである。だからこそいにしえの名将は、ここぞという場面では自らが先頭に立ったのだ。

 ましてや『ここ』は、船便で遅々としか報告の届かない僻地であるし、そもそも南竿島におわす弘光帝は名将でもなんでもない。朱姓は受け継いでいるものの、ただの遊び好きのオッサンである。

 しかも船便による報告も、戦域が広がるに連れてタイムラグが広がる一方。

 弘光帝以下、黄道周学校の面々は南明軍(この時はまだ福州軍)の動向を『見てるだけ』しかないのであった。

(黄道周にしても「陛下、ご親征を!」などとは口が裂けても言えない。仮に弘光帝が最前線に出て唐王や鄭芝龍の作戦に口出しするようになったら、戦況が改善するどころか北伐軍が崩壊してしまうのは目に見えている、と考えていたのだから。)


 北伐軍が福鼎ふーてぃんに迫ったころ、黄道周は勉強会の場を港近くにまで移すことを決定した。

 港に近ければ、文を届ける者が山道を辿たどってくる時間が省けるし、なにより到着した船乗りからちょくで話を聞くことが出来る。

 報告に書かれていないなまの情報も手に入る、というわけだ。


 施琅に告げると「良き御決断かと存じます。仮宮での御生活は、なにかと御不便でありましょう。」という答えが返ってきた。

「我がやかたを、好きなようにお使い下さいませ。礼部尚書様をお迎えできるとは、光栄の極み。また、南安伯からも『仮にお申し出が有った場合、我が館を陛下に献上し奉っても悔いはない。』と申し遣っております。『蔵の金銀も、どうぞ御存分に。』とも。」


 黄道周は、「鄭芝龍は台湾や呂宋の紅毛人こうもうじん相手に交易を行ない、巨万の富を得ている」というのは耳にしていた。南竿島に貯めている財は、その一部にしか過ぎないのであろう。

 有難く南安伯館を接収させてもらうこととした。


 一同うち揃って南安伯館に居を移すべし、と決まったのだが、弘光帝だけが異を唱えた。

 ただし「皆には苦労をかけた。早う便べんの良い港近くに行くがよい。」と自分以外の者が移動するのは奨励し、「朕には玉座にて果たさねばならぬ仕事がある。」と山頂の砦に残留するという案であった。


 「何をなさるのでございましょう?」

 黄道周は遠慮なく問い詰める。彼は

――陛下はまなぶいておられる御様子。大方おおかた、我をしばらくの間、厄介払いしたいのであろう。

と感じたからだ。


 しかし皇帝の返事は

玉璽ぎょくじを刻まなければならぬ。そのためには、精進潔斎しょうじんけっさいも行わなければならぬし、のぅ。」

と、至極しごく真っ当な理由付けからであった。ただし、チョットだけ申し訳なさそうな口調で。


 黄道周はアッと驚くと同時に、すみやかにひたいを床に打ち付けて平伏した。

 玉璽というのは皇帝のみが押すことの出来る印章で、帝国を動かすには必要不可欠なアイテムである。

 弘光帝は応天府から連れ出される時に、それを持ち出す理由が無かったし、黄道周にしても取りに行く余裕は無かった。

 だから現在の北伐(南京攻め)は、玉璽による認証無して進行中なのである。明朝の法に適ったものとするには、最低でも玉璽の押してある任命書・命令書が必要で、それを伴わなければ単なる騒乱か農民一揆のようなものに過ぎなくなってしまうのだ。

「礼部尚書に在りながら、なんと云う不明の極み。いかほどの刑罰をも賜っても、申し開きも出来申さず。」


 「よい、よい。責めておるわけではない。」

 皇帝の口調は穏やか――というより嬉しそう――だった。口煩い礼部尚書に”一本”返すことが叶って、愉快なのかも知れない。

「そなたの大車輪の獅子奮闘、朕が知らぬはずが無かろうが。あまりに忙しすぎて、一つ失念しておっただけのこと。南安伯の蔵に、印材に向く翡翠ひすいなどあれば、用立てしてもらうとしようぞ。」


 かくして弘光帝は、黄道周の目を逃れて山頂の砦でノンビリするチャンスを得た。


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