弘光帝の南征?2
水路に入ると、趙という男が櫓を巧みに操り、舟は静かに進み始めた。
そして舟が広い運河に達するまで、月光の下、美青年が異国の楽器を低く爪弾いて、イスパニアの言葉で呟くように歌い続ける。
――良き声ではないか!
弘光帝は夢幻の境地に遊ぶようであった。
――いっそ、このまま遠くへ……
皇帝が、そうウットリと目を瞑った時だ。
青年は激しく弦をかき鳴らすと、朗々と声を張り始めた。
すると複数の船が運河を漕ぎよせてくる。
どれも八丁櫓の早船だと見える。
「ろ・狼藉者か?! 朕を誰だと心得る。」
弘光帝が虚勢を張ったが、悲鳴にしか聞こえなかった。
「ご安心召されませ。味方の船にございます。」
櫓を操る趙が悠然と答える。それまでの愛想含みの声が、嘘のように”漢”の声に替わっていた。
早船隊を率いていたのは、南安伯(鄭芝龍)の右腕で、左沖鋒を務める施琅という武人だった。引き締まった体つきで、鋭い目をしている。
弘光帝は鄭芝龍を謁見した折に、この施琅という男が南安伯の傍らに控えていたのを思い出した。
施琅は「陛下、どうぞこちらへお運び下さいませ。」と皇帝を自分の船に招き入れると、配下に
「出せ。」
とだけ、短く命を下した。
水夫どもが一糸乱れずエイ! エイ!と声を合わせて櫂を動かし、施琅の船が颯のように走り出す。
他の早船や、弘光帝が美青年と乗ってきた小舟は置いてけ堀で、早くも闇の向こうだ。
「お・おい。鄭隆たちを何とする?」
皇帝が声を絞り出して問いを発すると
「鄭隆様は今一度、城に戻って黄尚書様や他の者たちを”出来るだけは”連れ出しまする。」
と施琅が重い声で答えた。「それほど多くは救えませぬでありましょう。」
「救う? 救うだと?! それはいったい如何なる話しぞ!」
激高した皇帝に、施琅は――
「応天府が落ちまする。」
と簡潔極まりない言葉で応じた。
「何を言うか! 血迷ったのではあるまいな。応天府の城壁の厚みを知らぬと申すか!」
弘光帝は凡々たる人物だか、暴虐な君主ではない。
声を荒げるなどは稀有な事だった。
「壁がどれだけ厚かろうとも、内が崩れれば城は脆うございます。」
施琅の言葉は冷徹で揺るぎが無い。
「内応か……。内応なのだな。」
応天府の守将の中に、清に通じた者が居る、というのを皇帝も理解した。
「是も非も無し、か。」
施琅は、その問いには答えず「急ぎ、海に向かいまする。」と応じた。
「海まで出れば、こちらのもの。ドドもドルゴンも、海まで追っては来れませぬ。」
数日後、弘光帝の一行は、温州沖の洞頭列島の島に身を寄せていた。
途中、早船から屋形船、そしてありふれた小型交易船へと船を換え、最後に豪奢な軍船へと乗り継いだ。
皇帝は、早船を捨てる際に絹服を焼き捨てて粗末な綿服に着替えさせられていたが、軍船上でようやく再び絹服を身に纏うことが出来た。絹服は鄭隆が予め用意していた物だという。
しかし服を着替えても、弘光帝はずっと生きた心地がしていなかった。施琅や彼の部下は頼もしく、また慇懃であったのだが、宮中の生活とは余りに違った日々が続いたからだ。
食べ物は不足なく用意されていたにせよ、皇帝に給仕するのは厳つい海の男ばかりなのである。
まさに身も細る思い。
だから別の軍船が姿を現し、その甲板に口煩い黄道周が立っているのを目にした時には『地獄に仏』の気持ちになった。「礼部尚書は健在なるか。これぞ天の助けならん!」
ただ、その”天の助け”は皇帝の座乗船に移ってくると、抱き合って再会を喜ぶでもなく
「フム、少しばかり引き締まった御尊顔に替わられましたな。健やかにあらせられますようで、なにより。」
と礼を返したのみで、「それでは左沖鋒殿、手筈通りに。」と施琅へと出立を促した。
黄道周が伴ってきた人数は、彼が目をかけていた若手官僚が20人ほどと武官が10人ばかり。
それに年若の宦官2人と宮女1人だけであった。
ただ『だけ』とは言っても、内紛による落城直前の首都から、これだけの人間を密かに脱出させたのだから、黄尚書・鄭隆・趙士超の手腕と施琅の組織力は――通信システムなど無い時代であることなどを考慮に入れて客観的に見れば――大したものである。
しかし後宮に潜入する手段が無かったため、皇貴妃・貴妃・妃・嬪などには声を掛けることも出来なかった。なんとか連れ出すことが出来たのは、先の人数に含まれている杜虹隠という宮女1人。
(これは黄道周の緊急の申し出に年若の宦官が協力した結果である。実はあと1人、”舟遊び”にまでは連れ出すことが出来た宮女がいたのだが、詳細を知るなり先を儚んで運河に入水してしまっている。姓名不詳。)
「して、命の恩人である鄭隆は?」
少し落ち着きを取り戻した皇帝は、美青年の安否を尋ねた。礼を言おうにも姿が見えない。
「鄭隆殿なら、応天府の近くに潜伏しております。」
礼部尚書は悲し気に答えた。「物売りなどに身を窶し、応天府の最期を見届ける、と。」




