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弘光帝の南征?1

 南明朝の初代皇帝である弘光帝こうこうていは退屈していた。


 応天府(南京)で楽しく歌舞音曲三昧の生活を送っていたのに、船遊びの趣向を用意しているとだまされて、急に田舎の小島に逼塞ひっそくするハメになってしまったからである。


 途中、船の上で礼部尚書れいぶしょうしょ黄道周こうどうしゅうから理由を明かされると、さすがにノホホンとした皇帝も、自分の身に『捕縛から処刑ルート』という絶体絶命のピンチが直ぐそばまで迫っていたことに恐怖したが「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉通りに、馬祖列島最大の島である南竿島の仮宮の玉座の上ですっかり弛緩しかんしてしまっていたのである。

 弛緩し過ぎて椅子にも座っておられず、窓際に敷かせた絨毯の上に転がってボンヤリ顎鬚あごひげなぞいじりながら海風に吹かれていることも多かった。


 ――よもや、黄道周にたばかられたのか?

と疑ったこともあった。

 何故なぜなら応天府が危うくなるまで、清の侵略を他所眼よそめに、政務・軍務から顔を背けて、遊びほうけてばかりいたからだ。


 良い皇帝であったとは――贔屓目ひいきめに見ても――言い難い、と我ながらあきれるばかりである。

 その件に関しては、自省する気持ちも無くはなかったが、「だからと言って、ちんに何が出来たというのだ!」と反発する感情もある。


 弘光帝は”担ぎあげられた”皇帝である。順天府(北京)で明朝最後の皇帝である崇禎帝すうていていが自死し、恐慌状態の明朝の中で太祖たいそ 洪武帝こうぶてい朱元璋しゅげんしょう)の血を引く”朱姓の誰か”が国の旗印にならねばなかったのだから。


 弘光帝は皇帝に祀り上げられたことに不満は無かった。なんといっても『皇帝』である。

 自分の思うがままに軍を動かし、明の勢いを再び取り戻すことが出来るであろう、と。

 しかし、事はそう簡単ではなかった。

 百官の意見が纏まらないのだ。議論百出で足の引っ張り合いばかりしている。

 苛烈な皇帝なら、百官を一喝して我意を押し通すことは出来たであろうが、彼はそのようなタイプではなかったし、彼が思う賢者や経験者の意見を取り入れようとすればするほど彼の頭は混乱して、出す命令は交錯した。

 そして弘光帝は逃げたのである。責任や統率という、危機に陥った帝国の皇帝の『仕事』から。


 弘光帝が密かに「この者だけは信頼できるだろうな」とボンヤリ信を置いていたのは、礼部尚書の黄道周と、海賊上がりの鄭芝龍の二人だけであった。

 口煩くちうるさい黄尚書は「朕のことなど、虫ケラか石コロとしか思っておらぬであろう」と考えてはいたが、明に対する忠心は頑固がんこと言えるほど硬かったからだ。

――あの者は、朕が明国皇帝であるという、ただそれだけの理由で、そむかぬ。


 また海賊上がりの商人である鄭芝龍は

『国が平らかになったら、思うが儘の交易を許す』

と約定を交わした以上、約定を反故ほごにはせぬであろう、と信じていた。

 良き商人というものは、一時の損得よりも、おのが信用を何より大事とするからだ。

 まあ、良き商人というものは~というくだりは、当の鄭芝龍自身からの受け売りだったりするわけだが。


 応天府の宮殿で美姫や楽団に囲まれていても、敗戦の報告だけは次々にもたらされる。

 弘光帝は鬱々としたうれいを追いやるために美姫を舞わせ、自分も踊った。

 「誰ぞ、この重荷を肩代わりしてくれぇ!」と叫び出したい毎日だったが、一度帝位に就くのをがえんじた以上、逃げ出すことも叶わない。


 それが在る日、あのりにもよって口煩い苦虫爺の礼部尚書が

「陛下、憂さ晴らしにお忍びで舟遊びなど如何いかがでしょう。」

と信じられない良い話を持ち掛けてきた。「秘密のお楽しみですから、他言は無用で。」


 聞けば、鄭芝龍が奇抜な趣向を用意したのだという。

「既に迎えも寄こしています。」

 黄道周に皇帝の寝室まで招き入れられたのは、趙という腰の低い商人風の愛想笑いした男と、男娼だろうか怪しいまでに美しい青年だった。

 ただその青年、鄭芝龍が得意としている異国の楽器を抱えている。


 青年は「南安伯(鄭芝龍)の縁続きで、鄭隆と申します。このたびは御目通りが叶い、恐悦至極きょうえつしごくに存じます。」と涼やかな声で挨拶を述べると

「舟を浮かべて月をでつつ、水上で曲など奏でましょう。少しでも無聊ぶりょうをお慰めすることが出来ぬものかと思い立ちまして。」

とギターをポロロンとかき鳴らす。


 弘光帝はその物悲しくも情熱的な調しらべには記憶があった。鄭芝龍が奏でていた曲だ。この青年が南安伯からの使いであるということは、疑う余地が無い。

「うむ。良い趣向じゃ。皆にも声をかけるか。」


 「おっと待った……いえ、お待ちになって下さいまし。」

 そう弘光帝を制止したのは商人風の男。「せっかくの月でございます。大勢で騒いでは興を削ぎましょう。せつが櫓を漕ぎますから、陛下と鄭隆さまだけで音曲を楽しまれては?」


 悪くない、と弘光帝は思った。

――蒼く輝く月の下に、ただ朕と美青年のみ、か……。


 船頭役の商人風の男も存在しないと困るだろうという考えは、すでに頭から消え落ちている。

 なぜなら日頃から、身の回りのことは細々した事までを、全て宦官や女官に丸投げしていたからだ。着替えから爪切りまで、世話係が付きっ切りで行う。黒子は”居るけれど居ない”存在だと思ってなければ息が詰まる。

「それでは、皆には黙って抜け出すか!」


 「後のことはお任せあれ。」と黄道周が、何時いつになく物分かりのよい事を言う。

 皇帝と美青年は、商人とも船頭ともつかない男の手引きで、密かに城を抜け出した。


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