富春江第一次渡河作戦4
関仁隊第一陣の人的損害約500の内、死者・行方不明者は300名ほど。重軽傷者の割合は、ほぼ半分ずつだった。
関仁配下の全兵力はおよそ5,000だから、富春江渡河失敗で一割の損害を出したという事になる。
現代戦だと一割の損害を出した場合には、その部隊は”継戦不能”と判定され再編・補充が必要な対象とされる。士気が低下していることが多いためと、直接の人的被害によるもの以外にも、負傷兵の後送や治療に人手が取られるからだ。
特に今回、第一陣に選ばれた梯団に限れば三割の消耗だから”全滅”扱いで、生還した兵士は即、予備部隊と交代を命じられる。再編しても、各小隊指揮官の部下掌握が進んで部隊としての体裁が整うまでは、前線に出るのが難しいからだ。そのため多くの場合、その行程を終えて戦力が回復したと認められるまで休養・訓練中扱いとなる。
仮に関仁が損害を省みることなく、減少した戦力で着上陸からの攻勢を強行していた場合だが、当初期待された橋頭保制圧という成果を上げることは難しかったであろうし、なにより彼我の戦力差が生じることにによって、『ランチェスターの兵力二乗の法則』に従い、損害数が”鰻登り”に増えていたのは間違いなく、一兵残らず殲滅されていたとしても不思議はない。損耗を受けた部隊で攻勢を続けるのは、基本、合理的ではないのである。
数を減らした艀で第二梯団を追加上陸させたとしても、第一梯団か壊滅していれば、続いて各個撃破されるだけだから、これも上手い選択ではない。
鄭福松は、1914年にフレデリック・ランチェスターが提唱することになるランチェスターの二次法則を数学的に習得したわけでは勿論なかったが、孫子は読み込んでいたから『善く戦うものは、勝ち易きに勝つものなり』という兵法の勘所は押さえていた。
だから彼は敗残兵を引き連れて戻った関仁を深く労ったのみで、着上陸の断念について咎めるような事は、一切口にしなかった。
福松は大将軍の元へと急ぎ、上陸作戦の失敗を告げた。
大将軍 唐王は一言も挟まず硬く口を噤んだまま福松の報告に耳を傾け、聞き終えるとムゥと唸った。
「可惜、明国に忠実な精兵を死地に向かわせてしまったか! 顧炎武の諫言を聞き入れるべきであったな……。」
福松は平伏し
「かく為る上は、御蔵の鉄船を待つのが上策か、と。」
と述べ「その間、兵に命じて紹興城外に広場を開けておきたく存じます。」と意見具申した。
「広場? 何に使う?」
という大将軍の問いに、福松は
「凧を呼び込むためにございます。」
と答えた。「御蔵の凧は、広き原に降り立ちます故。」
百道中尉が装甲艇二隻を露払いに、大発動艇5隻を率いて紹興に到着したのは、関仁が富春江渡河に失敗して二日後のことだった。
大発一隻には完全武装の陸兵70名を乗船させることが出来るが、今回搭載してきたのは武装兵ではなく、南明軍に補給するための手榴弾の追加と移動通信隊一個分隊、二両のタンクローリー、それに加えて二門の貨車山砲であった。
タンクローリーは大発に軽油を補給するためのものだが、貨車山砲は上陸支援砲撃を行わせる目的である。
貨車山砲が搭載している41式山砲の最大射程は6.3㎞だから、紹興側の河岸に陣取っていても富春江を挟んで対岸の杭州側敵軍陣地の奥深くまでを余裕で射程に含めることが出来る。
装甲艇の57㎜砲と貨車山砲の75㎜砲の支援の下で、一回当たり350名(70名×5隻)の南明軍歩兵をピストン輸送すれば、橋頭保の確保は難しくないだろうとの観点からの支援部隊派遣であった。
派遣部隊の規模が最小限になったのには理由がある。
この時ハミルトン少佐には、寧波の車騎将軍 鄭芝龍から会稽の海塩県攻撃への支援要請が出ていたからだ。
ハミルトン少佐は鄭芝龍の要請を快諾し、特設砲艦『潮』『汐』、並びに装甲艇3隻と95式軽戦車か武装ジープ2輌を搭載した特大発5隻を向かわせるのを約束していた。
鄭芝龍配下の福州・温州連合水軍は多くの軍船を擁していたが、切り込みに長じた逞兵5,000を選抜し、猛将 関仁に付けて紹興に送り出していたため攻撃の時の突破力が低下していることが予想されたためだ。
海塩県の海岸は、後に中国初の秦山原子力発電所が建設されることになる遠浅の砂浜である。杭州湾の奥深くで、杭州からも遠くない。
ここに車騎将軍指揮下の連合水軍が大挙して上陸すれば、杭州の清国軍は紹興側と会稽側の両正面から圧迫を受けることとなり、兵力分散は避けられない。
杭州の清国軍守備隊を統括する将は、大いに悩むことになるだろうと想像された。
百道中尉は緒戦敗北の知らせを聞くや、顧炎武に福松、関仁、張孟衡を交えて情報交換を行い、先ずは関仁隊の負傷兵を寧波まで後送することを決めた。
重傷者の多くは既に死んでおり、軽症者にも傷口が膿み始めている者が出ている。
寧波か舟山の野戦病院にまで送れば、消毒や応急手術で命を取り留める者も居よう。
負傷兵の後送には百道らが乗ってきた大発を使い、次に戻って来る時には更に41式山砲、もしくは97式曲射歩兵砲を載せてくる。
その間は、間を置きながら貨車山砲二門で対岸を砲撃し、絶えず敵を緊張させ続ける。
また偵察機の対地支援を要請する、などの計画が決められた。
なお第二次渡河作戦は車騎将軍の海塩攻略まで待ち、敵守備隊に動揺が伝わるまで延期することも決定し、その旨が大将軍に上奏されることとなった。
大将軍 唐王は『車騎将軍の海塩上陸を待って』という点に、苦虫を嚙み潰したような顔になったが、先の渡河攻撃で一方的な損害を受けたことから無下に却下も出来ず、無言で頷き承諾の意を示した。




