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富春江第一次渡河作戦1

 関仁は、鎧兜よろいかぶとで厳重に身を固めた部下に訓示を与えていた。


 彼の率いる福州・温州水軍共同陸戦隊は、臨海での戦い以降は射撃戦重視の歩兵部隊へと次第に変化して行っていたから、頭部を守るための簡便な兜以外は運動性を重視すれば軽装である方が利便性が高いということを熟知していたのだが、杭州攻めで富治江ふーちゅんこう渡河の尖峰を命じられるにあたって、重武装化を余儀なくされたからである。

 陸戦隊が装着している鎧は、南明軍が紹興の城で鹵獲したものを優先的に回してもらったものだ。

 だから軽輩までもが、分不相応な将校向けの高級品に全身を包んでいる。

 ただし望んで重い装備を着用している訳ではない。

 渡河作戦で対岸に辿り着くまでの間に出るであろう被害を、少しでも少なくするためだ。


 「いいか、清国軍は弓兵と鳥銃兵を川岸に陣取らせて、押し寄せる我が船団に対して猛烈な射撃戦を挑んでくるだろう。岸辺の敵を追い散らすまでは、重くて邪魔だろうが鎧は脱ぐなよ。」


 関仁たちが渡河に使用する舟は100艘を数えたが、馬得功らが紹興近辺で搔き集めてきた一艘にせいぜい15人以下しか乗ることが出来ないようなはしけばかりだった。

 そのため一度の輸送で運べる兵の数は1,500名に満たない。(ピストン輸送を行うには、戻り舟のための水夫――操作兵――が必要になるため。)

 だから、第一陣が対岸に橋頭保を築くまでの間は、常に敵から撃たれ放題という事になる。


 敵の鳥銃は、御蔵勢のようなライフル銃ではないから、60歩(約96m)ほども離れていれば命中率は知れたものだし、距離を置けば置くほど弾の威力も低くなる。

 また艀の船首には楯を並べるから敵の弓矢程度は防ぐことが出来るだろうし、上から降り注ぐ曲射の遠矢も鎧兜がはじいてくれるだろう。

 しかし艀が対岸に近づくと話は別だ。

 30歩(約48m)ほどの距離になると、鳥銃の弾は正確に的を捉えて来るようになる。

 一発で人間一人ひとりを確実に捉えるには「相手の白目が見える」13歩(約21m)にまで近づかないと難しいが、艀という大きな的をを狙うというのなら30歩で充分。

 清国兵は、30歩の距離までは弓兵主体の攻撃で、それよりも更に艀が岸に近づいてから鳥銃を一斉射撃してくるだろうと考えられる。


 だから関仁指揮下の兵は、敵の第一斉射を受けた後も最大船速を保ちつつ、ひるまず艀を岸に乗り着けて抜刀突撃を敢行しなければならない。河中でマゴマゴしていたら、敵鳥銃兵が再装填を終えて再度弾幕を浴びることとなる。

 スピード勝負の作戦であった。





 大将軍(唐王)が、監国(魯王)の側近である顧炎武の献策を無視してまで南明軍単独での渡河攻撃に固執したのは、「南明軍は御蔵勢の協力が有る限り無敵だ」という、南明軍中に濃く漂っている”空気”を廃したかったからに他ならない。

 「御蔵勢の協力が有る限り」というのは、言い換えれば「協力が無ければ無敵ではない」ということに繋がり、いては「南明軍が御蔵勢の下風に立つ」との意識が共通認識となるのを恐れたためである。


 だから大将軍は「御蔵に鉄船の助勢を頼んでおります。到着までしばしお待ちを。」と懇願する顧炎武を退け、軍師将軍(鄭福松)に「指揮下の尖峰軍を以て、川岸の敵兵を追い払え。」と命じたのである。


 福松としては、自軍の損害を少なくするためには顧炎武の提案に乗るのが妥当だという認識は有ったが、南明軍に「御蔵勢を頼る心」が充溢じゅういつしていることには一抹の不安も覚えていた。

 それで「敵の戦意を探るためにも、対岸橋頭保の確保は避けて通れない道である。」と結論を下し、関仁に命令を下したのであった。


 福松が関仁を選んだのには理由がある。

 関仁の兵は水軍の陸戦隊であるから、水に慣れているという点が一つ。

 それに加えて水軍の兵には、かつて海賊稼業に従事した者も少なくないので『引きぎわ』の見極めが適切であろうと考えられたからだ。

 敵勢力範囲に橋頭保を築くのは容易なことではない。

 当然ながら、ある一点で敵を排除し兵を送り込んだとしても、それが主要都市から離れた寒村ででもない限り、敵は増援を得て逆襲を試みる。南明軍が河岸の一部分を占領したからといって、杭州という後背地があるために、城中にまで兵を退くというのは有り得ないのだ。

 だから関仁の部隊には、橋頭保の確保を続けるのが難しいと感じたならば、被害が耐えられなくなるまで粘ることなく、機を見て潔く橋頭保を”捨てる勇気”が必要。

 関仁は猛将として知られているが、彼自身が匪賊の出である上、配下には海賊仕事の経験者も多いために、撤収の呼吸を間違えないだろうと期待されたわけだ。


 それともう一つ。関仁配下の兵の多くが、御蔵勢から供与された折り畳み式の金属スコップを装備している。

 スコップは橋頭保を守るための塹壕構築には不可欠だ。清国軍が逆襲する時に射撃戦を挑んでくるのであれば、塹壕やタコツボ豪は強固な防御陣地となる。また刀槍兵で突撃を試みてきたとしても、塹壕内からの手榴弾投擲で敵攻撃部隊を圧倒出来るであろう。

 また渡河中の艀上では、スコップはかいとして転用可能だ。

 櫓を漕ぐ船頭役以外にも全ての兵がスコップで水を掻けば、艀は敵の想定以上の速度で対岸に達するであろう。


 これらの利点を勘案して、福松は関仁を選んだのであった。


 また福松は、配下の明石隊騎兵や張孟衡の白襷隊にも別命を下していた。

 明石隊には富春江を岸沿いに上流にさかのぼって、別の渡渉点を探すという役割。成功すれば正面の敵を避けて、側面から杭州を一撃することが可能となる。

 ただし河水が増加しているのを考えると、別個の渡渉点を発見・確保するのは難しいだろうとは考えられる。しかし確認もせずに却下するべきではないであろう。


 白襷隊に与えられた任務は、竹を切り出していかだを組むというものであった。

 竹筏には兵が乗るわけではないから簡便な造りで、ただし筏上には囲いを組んでむしろの帆と幕を張る。

 これを多数揃えて上流から河に流せば、風向き次第ではあるが対岸へと流れ着くであろう。

 清国側としては、当然敵兵が乗っているものとして迎撃しないといけないわけだからから、清国兵を分散させて関仁隊の艀に対する圧力は減るはずである、と期待された。


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