カヤキ20 寺男の背後を推理する件
”寺男”が、どこの勢力のためにスパイを働いていたか? ――か……。
「ちょっと確認しておきたいんですが、”御住職の依頼によって”って可能性は排除しておいても良いんですね?」
もしそうならば、住職も密偵の”一味”ということになるからだ。
高島は『島』」である以上、出入りできる人間は限られる。寺全体がコミコミでスパイ組織であるならば、事は”いったい寺は誰を監視しているのか?”という問題に変化するわけで。
僕たち御蔵勢が端島や高島に姿を現すことは、予め佐賀藩側(スパイも含めて)に予想することは出来なかった。
だから『佐賀藩主―筆頭家老―安芸守さま―武富さん』というルートが、スパイ組織に編成した寺を、孤島に配置しておかなければならないという合理的理由が無い。
つまり遠見番所が普通に機能していれば良いだけのハナシなので、そうでなければ藩主か筆頭家老が、安芸守さまか武富さんを何らかの理由で”疑っていた”ことになる。
ただ藩主や筆頭家老が安芸守さまや武富さんを”疑って”いるなら、藩内の別の場所なり役職へ配置転換してしまえばよいだけなので、あの頭の切れる人物を遠見番所という重要な部署に配置したままであるという現状とは相反するのだ。
「そうだね。御住職はシロだ。実は早良中尉殿は、それすらも疑ってみていたから、高島村だけでなく蚊焼村でも住職ばかりでなく安芸守氏や武富氏の為人をリサーチしている。『ベルトと吊りバンドの両方が無いと、安心してズボンが穿けないっていうタイプの人間もなかには居るからね。』というのが中尉殿がそれを行った理由さ。」
とオキモト少尉殿。「リアリストはリアリストであるが故に、合理的でない事項にさえ気を配らなきゃいけないってわけだ。」
ふむ。藩主が、信頼している部下に対してでも相互監視システムを発動させている可能性……か。
ただし、なにかと誘惑の多いであろう長崎詰めに比べたら、島の監視廠で来るか来ないか見当も付かない外国船を見張る役目なんか、役得はゼロ。
仮に無理やり役得があると仮定するなら、対外的な密貿易にイッチョカミするウルトラ大博打くらいしか考えられない。
しかしそれなら島全体(ことによると対岸の蚊焼村も含めて)の一大密貿易組織が存在しないと活動が出来ないわけだから、考慮の外に放置しても差し支えないだろう。
高島は漁業資源を除けば、石炭採掘を御蔵勢が開始するまでこれといった農業や鉱業資源の無い土地だったわけで、見たところ他所に比べて裕福な気配はどこにも無い。
一大密貿易の根拠地であったならば、もうちょっとナニガシかの贅沢・裕福な様子というか空気感が有っても良さそうなものだ。
現に御住職も僕たちを迎えて「こんなに寺が潤ったことは無かった」(久しぶり、だったかな?)と言っておられたではないか。
ここまで考えて気が付いた。
――オキモトさんが言った「リアリストはリアリストであるが故に~」の文言は、佐賀藩主や筆頭家老を念頭に置いて発した言葉ではなく、中尉殿の事なんだ!
――中尉殿の”ベルト+サスペンダー”の例えは、佐賀藩中に『居るかもしれないリアリスト』のことを指しているのは明白なんだけど、少尉殿の『リアリストであるが故に』は、中尉殿のセリフを受けての中尉殿に対するオキモトさんの判断・解釈って事だ。
「承知しました。御住職はシロ、との前提で考えを進めます。」
と僕は頷き「寺男は、どういった経緯で寺に潜り込んだんでしょうか?」と質問を続けた。「そこまで訊いちゃうのは反則っていうか……ナシですか?」
「かまわないよ。」と少尉殿は微笑み「むしろ、それを確認しておかなきゃ完全なる”当てずっぽう”になっちゃうだろうからね。」
そして「彼は前の寺男だった老人の縁者だ。――少なくとも、そう説明されている。前の作男が高齢を理由に『身体が弱って充分な働きが出来なくなってきたから、寺に迷惑をかけない内に』と隠居するとき、自分の隠居と引き換えに本土側から連れてきたんだな。だから今の作男は、大村藩や佐賀藩の飛び地が入り混じっている野母半島地方の長崎弁混じりの佐賀弁ではなく、キミや純子ちゃんみたく佐賀の平野部の言葉を使うんだよ。中尉殿の最初の違和感は、作男の話し言葉だけが島の他の者と違っている、という部分からだったらしい。単語はともかく、助詞の発音の強弱や細かなイントネーションがね。侍や行商人ならともかく、地付きの人間には珍しいからね。当然ながら島の者は皆それを知っているけど、出自がシッカリしているから真面目に務めている寺男を『まさか密偵なととは』疑っていなかったようだ。」
――そうか……。僕、標準語を喋っているつもりだったんだけど、訛ってたのか。
僕は頭の隅でチラッとそんな事を考えたが、訛りが有ったればこそファースト・コンタクトの時に江里口さんが佐賀の人間だと認めてくれたのだろうと思い直して
「それならば話は単純です。まず佐賀藩主に連なる佐賀藩主流派は除外されます。同時に幕府の手の者である可能性も除外してよいでしょう。何故なら藩主にとって高島の遠見番は――日本防衛に必要かつ名誉な役目ではあるでしょうが――藩財政にとっては持ち出し過多の負担でしかなく、それが対外貿易拠点である長崎経営とは違って利益を生み出すものとは成り得ません。また幕府にとっても同じで、高島に兵を置くのは『佐賀藩がソツ無く熟してくれればそれで良い』という類のお役目です。幕府にとって防衛するべきキモの直轄領がある長崎湾の入り口で、ちゃんと見張りを実行してくれていればそれで何の文句も無い。仮に何か視察の必要があると考えたならば、長崎からその都度、抜き打ちで早船を派遣すれば良いのですからね。わざわざ――露見すれば佐賀藩と気不味い対立を引き起こしかねない――調査員を常駐させておく必要はないわけです。」
「なるほど?」とオキモト少尉殿はニンマリし「続けて。」と先を促した。
僕は頷くと
「大村藩や島原藩といった、近隣藩からの密偵という可能性も捨てて良いでしょう。何故なら彼らが、探るべき秘密、もしくは手に入れたい情報というモノが、この島には存在しません。……何かを聞きたければ堂々と使者を出して訊きゃあ良いんです。と、言って何を訊くんです? イワシの獲れ具合やテングサの繁茂状況? ……ナンセンスです。」
更に僕は、寺男が私的な海賊や密貿易商の一味で、高島をその拠点にしようとしていたという可能性も却下。
「理由は、わざわざ遠見番所のような国境警備隊の居る島を狙う必要は無いからです。同時に、遠見番所の兵の動向や海上哨戒状況を窺うために、海賊や密貿易組織が潜り込ませていたというのもナシですね。だって寺男が、番所の人間が海上哨戒に出るのを察知したとしても、仲間に知らせる方法がありません。狼煙を上げたりしたら、逃げ場の無い島ではイッパツで逮捕されてしまいますからね。」
「ふむふむ、今の処ちゃんと理屈は通っているようだね。」と少尉殿。
「ちなみにチョットだけ情報を付け加えると、隠居した寺男の前任者は、既に蚊焼村で死んでいたよ。出身地もあの村だった。死因は元々身体が弱っていた処に風邪を拗らせたようで、不審な部分は無いようだ。また前任者と現寺男の繋がりというのは、前任者の老人と現寺男の母親が従妹同士だったという話だ。現寺男の父親が海で死んだあと、母親は奉公のクチが有って肥前の温泉地で仲居をやっていたんだな。母親が向こうで生活が成り立つようになるまで、現寺男は前任者の老人の家で育ててもらったんだそうだ。」
「つながりは分かりました。」と応えてから、僕は「で、寺男は何故戻ってきたんです?」と質問を追加した。だって彼は母と一緒に温泉場で生活していたわけだから、親父さんの墓がコッチにあるとしても、年老いた母親はアッチに居るんだろうし。
「お母さんが亡くなって、骨壺を持ってきたのだそうだよ。『父母は長く分かれて暮らしていたけど、骨は一緒にしてやりたい』って。で、その時の様子が余り楽な暮らしぶりではないようだったので、前任者の老人が『俺はそろそろ働けなくなりそうだから、どうだ寺の下男をやってみないか。』と誘ったらしいのだ。」とオキモト少尉殿は質問に答え「……まあ、こんな風に皆には認識されている。」と結んだ。
「分かりました。多分この件は、武富さんも疑っていた事だから調査がスムーズに進んだんですね。そして昨日蚊焼村まで同行した時に、中尉殿と武富さんはミッチリこの件を話し合ったはず。『聞きたい者には聞かせてやる』というスタンスは、御蔵の情報将校と遠見番所の番所頭の共通認識である。違いますか? あ! 安芸守さまも御存じなのか。」
僕がそう言うと「なんだ、そこまで読んじゃったのか。」と少尉殿は含み笑いをし
「そう。寺男の背後に居るのは、片山くんが可能性の検討をした時に敢えて言及しなかった『佐賀藩の反主流派』さ。」と答えまで口に出してしまった。「ま、当然といえば当然だから、褒めるべきは『武富さんも気が付いていたのだろう』という所まで考えを進めた部分かな。」
――くうぅ……。推理小説ならば一番オイシイ部分を持って行かれちゃったよ!
佐賀鍋島藩は、戦国大名であった龍造寺隆信が、主筋であった少弐氏に下克上して築き上げた領地を基盤としている。
その後、龍造寺隆信は大友氏などと死闘を繰り広げて支配地域を広げ、島津・大友・龍造寺の九州三強時代を築き上げるが、島津・有田連合軍と「沖田畷」で戦い、泥田の中の一本道に誘導されて戦死。
戦死した隆信に代わって、その従弟であり右腕であった鍋島直茂が撤退戦の指揮を執る。
その後、龍造寺氏は隆信の嫡子 政家が島津氏と和睦(事実上の降伏)。
龍造寺勢は島津軍の一翼を担って、”島津による九州平定”に協力するが、鍋島直茂は秀吉軍の九州接近を感知するや島津と手切れし、大友方の立花宗茂と共闘して島津勢を痛打する。
島津征伐の終了後、秀吉は肥前31万石を龍造寺政家に安堵するが、その内の4万4,500石は鍋島直茂・勝茂親子に与えるとし、政家に替わって直茂が肥前の国政を掌るよう指示する。これは政家が病弱であったからで、政家は藩主の座を四男の高房に譲っていたのだが、高房はまだ5歳の児童であった。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に於いては、実際に渡海して龍造寺勢の指揮を執ったのも直茂で、家中での信頼は藩主 龍造寺高房を差し置いて直茂に集まる事となった。(そのためか、前藩主の政家―家老の直茂不仲説が流布されるようになる。)
秀吉の死後、直茂は徳川家康と誼を通じ、関ヶ原の合戦では東軍に所属。西軍の久留米城(小早川家)・柳川城(立花家)を落とす。これにより龍造寺家は家康から本領を安堵される。
江戸時代に入り前藩主 龍造寺政家ら龍造寺家の一部は、鍋島直茂・勝茂親子から、藩支配の実権を現藩主である龍造寺高房に取り戻そうとするが、幕府の同意を得ることが出来ず、高房は妻(鍋島直茂の孫娘)を殺害した後、自害。(1607年)
また高房の死の一月後に、前藩主であった政家も急死する。
幕府は龍造寺一門を江戸に呼び寄せ、誰を新藩主に戴くか決めさせたが、一門は結局直茂の子 勝茂を選択。これで実質は鍋島藩であった龍造寺藩が、正式に鍋島藩となる。
また龍造寺安良(村田安良 高房の弟)が、鍋島配下としての龍造寺宗家を継ぐこととなった。
ただしこれで一件落着とは行かず、僧籍にあった伯庵(高房の庶子)が佐賀藩を飛び出して還俗し、龍造寺季明と名乗って三代将軍 徳川家光に”龍造寺家支配の佐賀藩の復活”を嘆願する。
しかし幕府は取り合わず、また龍造寺隆信の甥で重鎮の多久安順が「季明に資格無し。」として季明(=伯庵)の運動を阻止したために、季明の非軍事的クーデターは失敗した。(1634年)
それでもなお季明は諦めることなく幕府に陳情を継続したため、面倒になった幕府から”会津藩預かり”と断を下され、会津へと飛ばされることとなる。その後、季明は会津藩士として東北の地で生きていくこととなった。
「黒幕として一番クサいのは、伯庵シンパだと思うのですが、旗印が無くなった今、高島で工作を行う意味が有るんでしょうか? あるいは、伯庵を手に入れた会津が裏で糸を引いている?」
僕は頭を捻ったが、これ以上は何も出て来ない。




