紹興占領8
筋論で押し通す福松将軍に対して、監国(魯王)は異を唱えることが出来なかった。
内政を顧みなければ、清国軍を長江(揚子江)の北に追いやる事に成功したとしても、南明朝は財政基盤の脆弱さが原因となって、早晩瓦解することになるだろう。
だからこの辺りで、軍務と内政とを両立させることが出来るよう、組織を整理する必要が高まっているのを、監国も薄々感じ始めていたからである。
それに軍事の常識からしても『指揮系統は一本化するべき』で『複数の指揮系統から相反する命令を出させると現場は混乱する。すなわち”船頭多くして、舟、山に登る”』であるから、魯王を仰いで戦ってきた温州軍所属の現場指揮官としても反論は出し難いのである。
魯王の参謀格にあった顧炎武ですら、ここで舌戦を挑むことは福州軍と温州軍との間で対立を煽る事になりかねない――そうなってしまうと、共通の敵である清国を利することになる――と思えば、考える処は有っても反論を腹の中にしまい込むしかなかったのだ。
魯王と顧炎武とが敢えて反対を主張しなかった(出来なかった)ため、張孟衡や馬得功も口を噤むしかなかった。
いや馬得功に至っては、心の中で「こうなってしまっては、早く大将軍の覚えめでたくなるよう、努めなければならぬ」とさえ腹算用を始めていたのだった。
一方で福松側も、降将や官位を持たない庶民を積極的に登用して『仕事を任せる』度量のある魯王の手腕を――ライバルであるという認識は持ちつつも――それなりに評価をしていた。
福松自身は
『長江南岸を全て回復しても、皇帝陛下(弘光帝)が、国政を無視して明朝瓦解の際と同じように歌舞音曲に現を抜かすのを止めないならば、畏れ多い事だか、帝位は唐王(大将軍)様に御譲位いただくしかあるまい。その折には、魯王様には引き続き監国を務めていただくのにやぶさかではない。』
と考えるほどに、魯王の事を”買って”いたのである。――ただし、これは唐王にも言えないことなのではあるが。
以上の経緯を経て、南明国軍は大将軍 唐王が統括することとなった。
本軍は大将軍自らが率い、先鋒軍には実戦経験豊富な精鋭を集めて福松将軍が指揮をする。
(この時点で鄭福松は監国 魯王と大将軍 唐王の両者協議で、暫定的に軍師将軍を名乗ることが認められた。軍師将軍は雑号将軍ではあるが、三国志の時代には蜀漢で諸葛亮が任命された職位である。ただし弘光帝の親任を経てはいないから、あくまで臨時の戦地任官である。――もっとも事後報告であっても弘光帝にそれを拒否する力は無いであろう。)
軍師将軍 鄭福松が先鋒軍の所属に組み込んだのは、以下の3将が率いる兵団である。
〇明石掃部:高速移動力・敵陣突破力に秀でた騎馬銃兵を率いる。イスパニア領呂宋からの義勇騎兵を核とし、その後は補充兵として福州騎兵も併せて束ねている。(今では福州騎兵の兵数の方がはるかに勝っている状況。)射撃戦のみならず倭刀による抜刀突撃も得意。
〇張孟衡:白襷・白鉢巻きが目印の白襷隊を率いる。元温州軍所属。数回の再編で兵数が増えた他、顧炎武が指揮していた鳥銃兵部隊も指揮下に入ることとなった。また上虞戦で戦死した田雄の兵も組み入れたためベテランの猛者を多く抱えている。射撃戦・白兵戦ともに強い。
〇関仁:臨海戦以降、鄭芝龍の福州水軍・御蔵軍と行動を供にし、寧波から福州水軍陸戦隊を率いて紹興にまで移動してきたが、本を正せば魯王に臣従を申し出た匪賊。猛将だか思慮に欠けるところがあったのだが、その後、黄宗義に師事することによって、一時は反目しあっていた顧炎武からも一目置かれるほどの分別を身に着けた。寧波市街攻略戦を御蔵勢と共に戦ったことで、現代戦が”どういう物か”という事も経験し、火力戦の重要性・優位性も理解できている。福州軍鳥銃歩兵の比率が高い構成となっているが、御蔵軍から供与された折り畳み式携帯スコップを装備しているのが特徴的。
三人の武官は、これも戦地任官ではあるが『偏将軍(准将格)』に任命された。
3将指揮下部隊の他には、福松自身の親衛隊と林の率いる潜入偵察隊が所属している。
福松は趙士超(趙大人)とそのライフル兵を林の指揮下に組み込みたかった――あるいは林の上座に据えてもよいとさえ考えていた――のだが、趙士超が
「車騎将軍(鄭芝龍)に仕えている身でありますゆえ。」
と上手く躱したため、果たせなかった。
趙士超としては、彼の主にして盟友はあくまで鄭隆(雛竜先生)であるのだが、鄭隆の名前を出して断るよりも、車騎将軍であり福松の父である鄭芝龍の名前を持ち出す方が摩擦がより少ないであろうと考えての方便であった。
(実際に温州以降の戦いでは、鄭芝龍の部隊と連携を取って偵察や工作を行ってきていたのだから、完全に車騎将軍の部下ではないとはしても、あながち嘘とは言えない。)
福松としても関仁を配下に組み入れた際、関仁自身は魯王の部下だから魯王が納得した以上正規の承認を得ているとしても、関仁が率いている兵の中には鄭芝龍の子飼いが含まれているのである。
その事に関しては――明復興のためなのだから父は文句を言ってはこないであろう――との自信を持ってはいたのだが、福松は鄭芝龍の実力や現実性・先見性には一目置くところが有ったし、趙士超から正面切って指摘されると強くは出られなかったのだ。
「それでは」と福松は趙士超に切り出した。
「大将軍は杭州を降した後、陸路を応天府へと攻め上がります故、車騎将軍に於かれましては海から上海を降し、揚子江(長江)を遡って応天府を目指すよう伝えていただきたい。」
趙士超は承知すると、部下のライフル騎兵を従えて寧波に向かって出発した。




