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紹興占領2

 寧波市街から寧波港に移動した車騎将軍 鄭芝龍は、御蔵勢の大陸派遣兵力の責任者であるハミルトン少佐と会談していた。

 御蔵勢に預けてある兵糧の一部を紹興に輸送してもらう依頼をするためである。


 明国軍には福州水軍と温州水軍の水上戦力2個集団があり船舶数は豊富なのだが、洪水で甬江ようこうや大小運河の流下水量が増しているため、非動力船では遡航そこうするのに困難が予想されたからだ。


 監国 魯王が率いている温州軍陸上戦力は、まだ紹興の一つ前の拠点である上虞を開放したばかりの処であるが、紹興~上虞間の距離が近いことと、紹興に駐屯していた清国軍が上虞戦で消耗しきってしまっていることで、紹興はそれほど手間取らずに占領できるであろうという読みから、上虞ではなく紹興までの輸送を会談の俎上そじょうに挙げたのだった。


 ハミルトン少佐はその提案を快諾し、直ちに大発動艇5隻分(11t×5=55t 自動貨車20両分)の穀物を輸送する手筈てはずを整えた。


 「ときに車騎将軍閣下、弟君の鄭芝鳳ていしほう様は、馬祖島の黄尚書こうしょうしょ様(黄道周)に御目通りは叶いましょうか?」

 ハミルトンの質問は、小倉藤左ヱ門の捜索に福州水軍から鄭芝鳳が同行してくれたことに対するもの。

 台風を避けるために小倉隊船団が馬祖島に寄港していた場合、弘光帝が遷座している島に胡乱うろんな船が近づくのを忌避されるだろうと考えられたからだ。

 小倉隊は鄭芝龍発行の割符わりふを持っているが、加山少佐の捜索船団にはそれを用意する暇が無かったため、貨物船 翠光丸すいこうまるにたまたま搭乗していた芝鳳が、そのまま捜査に参加する形になっていたためである。

 翠光丸には鄭芝龍も温州沖から臨海近郊まで乗船したことがあり、車騎将軍は翠光丸の船長を信頼していた。翠光丸は寧波市街での戦闘の後、清国軍から鹵獲した資材や屑鉄・廃材を御蔵島にまで輸送した戻りだったのだ。


 鄭芝龍は微笑むと

「そうですな、黄老人が癇癪かんしゃく持ちの堅物かたぶつであるのは間違いのない処ですが、帝に対する忠心は確かで、頭の切れ味は重臣の中でも群を抜いております。御蔵の動力船を見ても性能の優劣や世の動向を間違えるような愚かな真似は致しますまい。馬祖島で歓待されるのは間違いないでしょう。」

と頷いた。「下手をすると翠光丸を御座船に接収すると、言い出しかねないところは心配でございますが。」






 御蔵病院で静養している鄭隆(雛竜先生)は栄養も睡眠も充分で体調も整っており、いよいよストレプトマイシンによる結核治療が始まった。


 当初は同時期に入院した英玉えいぎょくが、鄭隆の治療に先立つ治験の実験体を志願していたのだが、鄭隆が『ある事実』を中谷医師に伝えたために、急遽その順番が入れ替わりになったのだ。


 鄭隆が中谷に伝えた『ある事実』というのは、英玉という名は世を忍ぶための通名であり、彼女こそが明国最後の皇帝 崇禎帝すうていていの遺児『長平公主ちょうへいこうしゅ』である、という驚愕の内容だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 1644年3月19日、李自成の反乱軍によって包囲された順天府(北京)では、最後の皇帝 崇禎帝自らの手による凄惨な事態が進行していた。


 もはやこれまで、と覚悟を決めた帝が皇后や寵姫、子供らを次々に斬殺していたのだ。

 宮殿の群臣たちは早くも皇帝を見限って逃亡してしまい、崇禎帝に従う者は宦官かんがん王承恩おうしょうおんただ一人。


 当時16歳で婚約も決まっていた長平公主だったが、崇禎帝が可愛さのあまり降嫁させるのを渋っていたため宮殿に起居しており、彼女もまたこの惨劇に巻き込まれることとなった。

 崇禎帝は長平公主にも長剣を振り下ろしたが、涙で目が曇っていたために左肩から左腕にかけてを傷つけたに止まった。


 王承恩は彼女が死んではいないのを確認したが、崇禎帝には「事切れていらっしゃいます。」と告げ、長平公主の命を救うことに成功した。

 その後、崇禎帝は縊死いしすることを選び、王承恩もそれにじゅんじた。


 王承恩がまだ息のある長平公主のことを、彼が自死する時にどう考えていたかは分からない。

 ――息絶えていないのであれば、天命が有れば運も開けよう。

 彼女を助けるために奔走する余裕の無かった最期まで帝に忠義を尽くした宦官は、そのように思っていたのではあるまいか。


 傷を負って倒れているところを下級宮女に発見された長平公主は、彼女らの手によって後宮から運び出され、李自成軍や清国軍から逃げる避難民に混じって南へ南へとはしった。

 とは言え女性の身でしかも手負いの長平公主は、運に見放されていたら早晩それほど順天府からほど遠くない場所で路傍の露と消えていたであろう。


 彼女が命を繋ぐことが出来たのは、帝都の情勢を探るために趙士超(趙大人)を伴って潜入調査を行っていた鄭隆に発見されたことであった。

 大怪我を追い浮浪者のような身なりに身を落としつつもなお、凛とした気品を失わない娘を視た鄭隆は「この娘は只者ではない。」と見抜き、帝都陥落の調査を切り上げて長江の南へと伴った。


 長平公主もまた「明朝再興を託すに足る人物に相違ない。」と鄭隆の人物を見込んで我が身を託した。

 これが鄭隆と、名を英玉と替えた長平公主とのめであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 事情を打ち明けられた中谷は「豚や山羊を用いた動物試験で薬害が観察されていないこと。未来では定評のある治療薬としてペニシリン同様一般的に使用されていること。培養およびカラム精製が順調で二人同時に治験を行うに足る量が確保されたこと。」を理由に院長と高坂中佐に治療開始を打診した。


 急な方針転換に院長は

「なにやらワシに言い難いような事情が絡んでおる気配がプンプンするが、まあ、今は訊くまい。鄭隆殿の覚悟を優先しよう。」

とそれを認めたのだった。


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